【三方ヶ原の戦い】織田徳川軍大敗!家康九死一生!クソまみれでの帰還!武田軍強し!

信長全合戦

 

武田信玄ついに動く(西上作戦)!

織田・徳川軍vs最強武田軍!

1572年(元亀3年)10月3日、武田信玄は3万を超える軍勢を率い、反信長連合軍の「浅井・朝倉」軍と、「織田信長」挟撃のため甲府を出陣!

信長はつい先月(9月)、「武田信玄」との同盟を絶ち、「岩村城の合戦」で武田軍の秋山信友に敗北したばかりです。

その年の12月22日、武田(信玄)軍が上洛(西上作戦)のため、家康の領国であった三河国を(勝手に)通り過ぎようとしたところ、過ぎ去る武田軍の背後から「徳川軍」が攻め込み、三方ヶ原で起こった戦いを「三方ヶ原の戦い」と言われています。

織田徳川連合軍vs武田軍

両軍4万を超える兵が戦い壮絶な終決を迎えた合戦となりました。

三方ヶ原の戦い 経緯

11月の「岩村城の戦い」で織田信長との同盟を破棄した武田信玄は、10月3日に3万を超える軍勢を率い甲府を出陣し、青崩峠から家康の遠江国に侵攻します。

当初、徳川家康と織田方の佐久間信盛は、武田軍の狙いは家康居城の「浜松城」であると考え籠城戦に備えていました。

一方の武田軍は、浜松城の北東10kmほどにある「二俣城」を12月19日に陥落させ、3日後に二俣城を発して遠州平野内を西進します。

この行動に家康は、これは浜名湖の先端に位置する「堀江城」を標的とするような進軍であると考え、武田軍は家康居城の「浜松城」を素通りし、その先の三方ヶ原台地を目指しているかにみえた、と言います。

我が眼前を悠々と通っていく「武田軍」に、家康は鬼の形相で怒り狂ったと言います。

家臣の反対を押し切って、籠城策をから一気に武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出ます。

三方ヶ原の戦い 場所 地図 アクセス

延暦寺は滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。

三方ヶ原の戦い 浜松城 左は浜名湖

浜松城 参考:shoryudo

武田信玄 侵攻ルート:織田信長覇道の全合戦

三方ヶ原の戦い 布陣 陣形

同日の夕刻、血気盛んに浜松城を出陣した徳川織田軍でしたが、三方ヶ原台地に到着するやいなや、まさかいるはずの無い、武田軍「魚鱗の陣」(通常兵力が勝っている場合は使用しない陣形)を敷き万全の構えで待ち構えていました。

「堀江城」近くまで、行っていると思っていた武田の大軍が眼前に…。

家康は、通常ではありえない「鶴翼の陣」(兵力が少ない場合は向いていない陣形)を敷き、両軍の戦闘が三方ヶ原で開始されます。

両軍 布陣図:織田信長覇道の全合戦

三方ヶ原の戦い 織田徳川連合軍vs武田軍 布陣 戦力比較

兵力差

【織田徳川連合軍】 【武田最強軍
1万1000 3万

戦闘目的

【織田徳川連合軍】 【武田最強軍】
信玄西上作戦阻止 西上作戦開始

主な参戦武将

【織田徳川連合軍】 【武田最強軍】
徳川家康・本多忠勝・榊原康政・酒井忠次・小笠原長忠・大久保忠世・佐久間信盛・水野信元 他 武田信玄・武田勝頼・穴山信君・山県昌景・馬場信春・小山田信茂・武藤喜兵衛・真田昌幸 他

まさかの形成に、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた織田徳川連合軍は、武田軍の魚鱗の陣形に対抗できません

三方ヶ原戦争 歌川芳虎

「武田信玄」の采配もあり、日没までのわずか2時間ほどの合戦で「織田徳川連合軍」は多数の武将が討死して敗走することになります。

武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は十倍の死傷者2,000人。

その他、「鳥居四郎左衛門」、「成瀬藤蔵」、「本多忠真」、「田中義綱」といった有力な家臣をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした「中根正照」、「青木貞治」や、家康を逃がすため家康の兜と馬で身代わりとなり、武田軍に突入して討死します。

織田軍もまた「平手汎秀」といった重臣を失う大敗を喫した合戦となりました。

討死武将

【織田徳川軍】 【武田最強軍】
鳥居四郎左衛門・成瀬藤蔵・本多忠真・田中義綱・中根正照・青木貞治・平手汎秀・佐脇良之 他 不明

三方ヶ原の戦い 結果

家康居城の「浜松城」の前を、ゆうゆうと通り過ぎていく武田軍に、家康は自らのプライドを踏みにじられたと思ったことでしょう。

これが「武田信玄」の家康を合戦に引き出す「罠」だとしても、家康は真っ向からの「合戦」を望みましたが、多くの重臣・武将を無くした大敗となってしまいました。

よって、織田徳川連合軍vs最強武田軍の戦い「三方ヶ原の戦い」は織田信長の負けとしました。

【織田徳川連合軍】 【武田最強軍】
信玄の罠にはまった家康の采配ミスと兵力差 信玄の采配の勝利

三方ヶ原の戦い 家康の敗走

武田軍の魚鱗陣の体形になすすべもなく、織田徳川連合軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められます

多勢に無勢、家康も生きて帰れるか覚悟したと言います。

「夏目吉信」や「鈴木久三郎」らを身代わりにして、僅かな供回りのみで「浜松城」へ逃げ帰ります。

武田軍は「浜松城」まで追いかけましたが、到着した家康は「空城の計」を使い全ての城門を開いて篝火を焚きかがり火をたき太鼓をたたきます

伏兵がいると思った武田軍は城攻めをためらい撤退したので、浜松城の落城は免れたと言います。

この敗走で、家康は恐怖のあまり馬上で脱糞したと言われる程、憔悴しきった表情をしていたと言います。

その時の表情を絵師に描かせ、戒めのために生涯に渡り手元に置いたと言われます。「しかみ像」

しかみ像(家康)

三方ヶ原の戦い まとめ

信長はもとより、家康においては屈辱的敗戦となった「三方ヶ原の戦い」

しかし、自らの眼前を通り過ぎる武田軍に対し、何もしなければ家臣らの反感を買い、離反されても仕方がなかっただろうと言われます。

家康はその後、この敗戦がトラウマとなり、同時に自分をここまで苦しめた武田信玄に敬意を表し、武田滅亡後に元武田兵たちを多く召し抱え、武田軍の軍制も学んだと言います。

武田信玄としては、全て狙い通りに進んだと言えますが、戦闘開始時刻が遅かった(夕刻開始)ことや家康重臣の「本多忠勝」などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできませんでした

その後信玄は「野田城」を陥落させて、いよいよ上洛への途へと進む途中で病に倒れます。

「自分の死を3年間は秘匿せよ」と言い残したものの、信長の「忍び」達はいち早くキャッチし信長に伝えたと言います。

信長にとって、「信玄の死」こそが、憂いの払しょくとなり、一気に「信長包囲網」壊滅へと進んでいくのでした。

 

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