戦国の梟雄「松永久秀」!平蜘蛛とともに散る!
織田信長vs松永久秀
【信貴山城戦い】
【いきさつ】
1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「松永久秀(まつながひさひで)」が、突如、天王寺砦を焼き払う暴挙に出て、居城の「信貴山城」で信長に反旗を翻します。
理由は、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の「反信長同盟」成立に示し合わせてのものとされています。
信長は松永久秀に対し、松井夕閑を使者に理由を聞くものの返答せず、人質とされていた2人の孫は、引き回しの上斬首されます。
9月27日に、信長嫡男の「織田信忠」が久秀討伐4万の軍勢で出陣し、10月5日に松永久秀のいる「信貴山城」に攻め込みます。
そして合戦となったのが「信貴山城の戦い」と言います。
信貴山城の戦い 場所 地図 アクセス
信貴山城は、現在の奈良県生駒郡平群町信貴山(標高433m)山上に築かれた山城です。
松永久秀謀反までの動き
松永久秀は元々信貴山城回りである大和国の支配を任されていました。
ところが、室町幕府15代将軍である「足利義昭」が「信長」と対立し、「三好義継」と共に「信長包囲網」に加わり摂津・河内も支配するも、結局この体制は信長に抑えられ足利義昭は追放、三好義継は自刃に追い込まれました。
当の松永久秀は許されますが、自国である大和国の支配権を「原田直政」に奪われてしまいます。
その原田直政も、1576年(天正4年)5月3日、石山合戦で敗退し討ち取られますが、信長は久秀の宿敵であった「筒井順慶(つついじゅんけい)」を大和国守護に据えました。
信長としてみれば、久秀は一度裏切った事のある、信用のおけない人物であり、筒井順慶の守護は当然のことであったと考えられますが、久秀にとっては納得いかない措置であり、謀反を起こす要因の一つと考えられています。
また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点とした「多聞山城」を破却するなど、久秀の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと言われています。
さまざまな要因が重なり合い、そして翌年の1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「天王寺砦」を焼き払い、信貴山城へ立てこもる行動に出ます。
その行動の裏には、石山本願寺「顕如」が先の合戦で原田直政を討ち取り、第一次木津川口の戦いでは「毛利輝元」から武器、食糧も補給し軍事力は強大となり、「上杉謙信」が2万の軍を率いて上洛を目指すといった、この3者による「反信長同盟」成立が、久秀単独で信長を倒すことは出来なくとも、この3者が揃えば…と思わせる何らかの密約があったのではないかとされています。
信貴山城の戦い 信長の動き
信長は、この時安土城にいましたが、松永久秀の謀反に「松井友閑」を使者に、謀反の理由を問います。
1度までならまだしも2度も裏切った久秀に、信長としては特別扱いの処置ですが、しかし、久秀はこれを拒絶します。
「拒絶」の返答に信長は、9月27日に嫡男「信忠」を大将に、4万の軍勢で松永久秀討伐に出陣するのでした。
信貴山城の戦い 織田軍vs松永軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【松永軍】 | ||
4万 | 8000 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【松永軍】 | ||
松永久秀討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【松永軍】 | ||
織田信忠・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・山中鹿介・佐久間信盛 他 | 松永久秀・松永久通・海老名勝正・森好久 他 |
信貴山城の戦い 合戦のゆくえ
9月27日、筒井順慶、明智光秀、細川藤孝らが久秀討伐の先陣となり、信貴山城にほど近い「法隆寺」へ布陣させます。
10月1日、まずは信貴山城の支城となっていた「片岡城」を攻め、これに対して松永軍は「海老名勝正」「森秀光」が対抗します。
この時の戦いを「片岡城今日セメキリ、エヒナ河人始テ七十ハカリ無残討死了」(多聞院日記)とあり、織田軍(筒井隊)も相当数の討死者が出るも、松永軍の「海老名」「森」の武将を含む150余が討死し「片岡城」も落城します。
すると10月3日にある報せが飛び込んできます。
9月23日に「手取川の戦い」で勝利した上杉謙信の動きが七尾城から止まった、という報せが信長の下に入ります。
松永久秀にとって、上杉謙信が上洛する旨の密約?があったこその「謀反」であったと思われますが、なぜか謙信は動きを止めてしまったようです。(諸説ありますが、豪雪のため越冬できないと考えたと言われています)
1度目は武田信玄の死によって謀反は成功せず、今回は上杉謙信の動きが止まる、久秀は支城の「片岡城」が落ちたこともあり窮地に陥いったことでしょう。
信長は、10月5日、4万の軍勢で一気に総攻撃を仕掛けます。
堅城な要害としての「信貴山城」は、簡単には落ちず、城兵200人が討って出て、織田軍も数百名の死傷者を出します。
戦局は持久戦の様相を呈し、久秀はもう一人の反信長同盟者である本願寺「顕如」へ援軍の要請を、家臣の「森好久」を使者に出します。(10月7日)
森好久は翌日8日には、「鉄砲隊200名」を連れ帰城し、さらに3日後には毛利の援軍も到着させるといった約定を持って帰りました。
久秀は、顕如や毛利の援軍に相当喜び、援軍到着までの軍議を開きます。
しかし、それは織田軍にすべて筒抜けで、実は使者として出した「森好久」は、信長に与していたのです。(森好久は元々、筒井順慶の譜代であり久秀討伐のための順慶の画策と言われています)
翌10月9日、午後6時前後から信長軍の攻撃が開始され、総攻撃は明けた10日明朝からとなり、申し合わせたように「森好久」が率いる鉄砲衆200名の反乱により、内と外からの攻撃により「信貴山城」は炎上し落城となります。
松永久秀・久通父子は自刃します。
久秀は68歳、久通は35歳でした。
討死武将
【織田軍】 | 【松永軍】 | ||
不明 | 松永久秀・久通・海老名勝正 他 |
【織田軍】 | 【松永軍】 | ||
久秀家臣の調略と画策による勝利 | 謙信撤退・援軍来ず・家臣の裏切り |
平蜘蛛とともに爆死はウソ…⁉
松永久秀の最期を、平蜘蛛を抱え爆死したとする説は、桑田忠親氏の著書で確認できます。
「切腹したのちに、自分の首を鎖で茶釜にくくりつけ、火薬でもって、木葉微塵に打ち砕かせた」(1967年茶道の歴史110頁)
また、「兼見卿記」には、松永親子は切腹し城に放火したとあります。
「多門院日記」では、さらに遺体が焼けたあとで首4つが安土城に送られています。
「大和志科」では、同部分は達磨寺に送られ、丁重に埋葬したのは宿敵筒井順慶と記されています。
信貴山城の戦い その後 まとめ
三好家を「乗っ取り」、将軍「足利義輝」を殺し、東大寺大仏殿を「焼き討ち」にし、「三大悪事」と信長に言わしめた戦国の梟雄「松永久秀」、3度信長に挑むも敵わずその生涯を閉じました。
松永久秀が頼った武田信玄も上杉謙信も病死したのは、運の尽きもあったのでしょうか…。
部下に裏切られての最期は、裏切りの久秀に相応しい最期と言えるかもしれませんね。(和州諸将軍伝)
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