石山本願寺・上杉謙信・毛利輝元
第三次「反信長同盟」成立!
【第一次木津川口の戦い】
今年(1576年天正4年)の5月、信長との天王寺の戦いで敗れ、石山本願寺を信長軍に包囲されているにもかかわらず「顕如」(本願寺主導者)は、再び毛利輝元への援助(兵糧・武器等)を求めます。
救援を求められた「毛利輝元」も、この時期、足利義昭の反信長体制の呼びかけに「上杉謙信」も同意し、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の3者による「反信長同盟」が成立していました。
上杉謙信の同盟により強気になっていたのか、毛利輝元も、堂々と信長の正面から「救援物資」を木津川口から送り込みます。
信長がこれを黙ってみている訳がありません。
毛利水軍と織田水軍が、「木津川口」で合戦となったのが「第一次木津川口の戦い」と言います。
第一次木津川口の戦い 場所 アクセス
木津川口の戦いの場所は、現在の木津川口の大阪湾にあたります。
現在はずいぶん埋め立てられていますので、当時と比較はできませんね…。
信長の動き
信長は、石山本願寺自体の包囲は出来ていたものの、本願寺の補給路である「海路」までは完全に封鎖し切れていませんでした。
この年(1576年天正4年)7月13日、毛利連合水軍(毛利水軍・小早川水軍・村上水軍)は約800隻もの大船団で、大阪湾に姿を現し、本願寺へ兵糧を運ぼうとします。
織田軍もこれに対抗し、伊勢の「九鬼嘉隆」を総大将とする水軍で迎え打ちます。
その数、約300隻。
信長水軍300vs毛利水軍800
第一次木津川口の戦い 織田軍vs毛利軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
300隻 | 800隻 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
補給阻止 | 本願寺への補給成功 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
九鬼嘉隆・真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野大隅守・宮崎鹿目介 他 | 乃美宗勝・小玉就英・能島元吉・来島通聡 他 |
合戦のゆくえ
7月15日、ついに開戦となり、両者が海上で激突します。
300隻vs800隻
数で劣勢となった信長水軍ですが、毛利水軍は海賊衆で無敵と言われた「村上水軍」もおり強敵です。
村上水軍は「焙烙(ほうろく)」と呼ばれる火薬を詰めた爆弾を投げ込み、「火矢(火を付けた矢)」を巧みに使い信長の船団を焼き払い、海戦を有利に進めます。
一方陸戦も繰り広げられ、「楼岸砦」や「穢田城」から本願寺勢が出撃し、信長方の「住吉海岸砦」を攻撃します。
「天王寺砦」にいた佐久間信盛隊がこれに出撃し激戦となりますが、長時間の戦いの末、佐久間隊は撤退。
水軍も「焙烙」や「火矢」に船団の大部分を焼かれてしまい、「真鍋七五三兵衛(まなべしめのひょうえ)」「沼野伝内(ぬまのでんない)」「宮崎鹿目介(みやざきかなめのすけ)」らが討死しましす。
海・陸とも敗れた織田軍は撤退するしかなく、毛利水軍は本願寺への兵糧・武器・弾薬の補給は成功となりました。
討死武将
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
真鍋七五三兵衛・沼野伝内・宮崎鹿目介 他 | 不明 |
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
船団数と水軍戦術の劣勢 | 毛利水軍の技術と戦術による勝利 |
第一次木津川口の戦い その後 まとめ
毛利水軍の数と技術や戦術(焙烙や火矢)の高さに、敗戦となった「第一次木津川口の戦い」。
信長自身も出撃する予定でしたが、安土でその報せ(敗戦)を聞くと出陣を取り止めにしました。
毛利水軍の強さを改めて知る事となった信長は、「九鬼嘉隆」にこれに対抗する燃えない鉄製の船を建造するように命じます。
嘉隆よ、毛利に対抗する燃えない船を造るのじゃ!
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