【鷲津砦の戦い】桶狭間合戦早朝!大高城と鳴海城を分断する鷲津・丸根を死守せよ!

信長全合戦

 

桶狭間前哨戦!

今日、歴史が動く!

1560年(永禄3年)5月19日「桶狭間の戦い」が起こる日の早朝、桶狭間前哨戦として「鷲津砦の戦い」は始まります。

すでに「鳴海城」「大高城」を手中に収めている今川義元軍に対し信長は、「鳴海城」に対し丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに「大高城」と「鳴海城」の間を遮断するために丸根砦と鷲津砦を築いて対抗していました。

5月19日桶狭間の戦いが起こる数時間前、今川軍の「朝比奈泰朝」の攻撃を受け戦ったのが「鷲津砦の戦い」です。

この戦いは、数時間後に起こる「桶狭間の戦い」の前哨戦となり、信長の大叔父である「織田秀敏」「飯尾定宗・尚清親子」が守備していました。

鷲津砦の戦い 場所 合戦図

場所は名古屋市大高町鷲津山にあります。

現在は「鷲津砦址の碑」になっています。

織田信長覇道の全合戦

鷲津砦はもともと、今川側に落ちている「大高城」の付城としての役割と、「鳴海城」との間を分断する役目を持っていました。

決戦の前夜(18日)、今川軍が「鷲津砦」を攻撃するという確かな情報が信長には入っていましたが、その夜の軍議で信長は、家臣たちに「この攻撃にどう対応するのか」決断をしていません

その上、「今夜は遅くなったから皆はもう帰れ!」と家臣たちに言っています。

何も言わない信長に、家臣たちは「呆れ果てた」といいます。

いったい信長は、何を考えていたのでしょうか…。

鷲津砦の戦い 信長軍vs今川軍 布陣 戦力比較

兵力差

【信長軍】 【今川軍】
400 2000

戦闘目的

【信長軍】 【今川軍】
鷲津砦防衛 尾張侵攻

主な参戦武将

【信長軍】 【今川軍】
織田秀敏・飯尾定宗・飯尾尚清・山崎多十郎 他 朝比奈泰朝・本多忠勝・本多忠真 他

鷲津砦の戦い 経緯 勝敗

5月19日早朝、信長の大叔父「織田秀敏」と「飯尾定宗・尚清親子」で守備する「鷲津砦」ですが、昨夜の情報通り、今川軍の「朝比奈泰朝」に攻撃を受けます。

信長はその報せを聞き「人間五十年…」の節である敦盛を舞い、立ったまま湯漬けを食い、数騎の共を連れ「熱田神宮」へ疾走したといいます。

一方「鷲津砦」は、織田軍400の守備に対し、今川軍は2000と数で劣りながら、守備隊の「織田秀敏」と「飯尾定宗・尚清親子」は必死に持ち堪えますが兵力差でついに陥落します。

この戦いで、善戦むなしく「織田秀敏」と「飯尾定宗」が討死となりました。

この戦いで、のちの徳川四天王となる猛将「本多忠勝」の初陣となりました。

忠勝は勇猛果敢に敵陣まで押し入るも、織田方の「山崎多十郎」から討ち取られそうになったといいます。

そこへ叔父の「本田忠真」が槍を投げて窮地を救った、と伝えられています。

 

討死武将

【信長軍】 【今川軍】
【不明】

織田秀敏・飯尾定宗 他

【不明】

勝敗

【信長軍】 【今川軍】

【敗因】

兵が少ない

【勝因】

兵数が多い

鷲津砦の戦い まとめ

鷲津砦の麓にある長寿寺

1560年(永禄3年)5月19日早朝、桶狭間の戦いの前哨戦である「鷲津砦の戦い」は、今川軍兵の数的優位により鷲津砦は陥落します。

当日早朝に攻撃を受けると知っていた信長ですが、何もできないまま陥落してしまいました。

援軍も出せずに見捨ててしまった格好となった信長に何か作戦があったのでしょうか…。

この戦いの数時間後に起こる「桶狭間の戦い」で義元を討つことは、この時点では、信長ですら想像できなかった事ではなかったでしょうか…。

しかし、信長だけは「その事」を信じていたのかもしれませんね…。

 

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