あの将軍殺しの「松永久秀」がついに信長に反旗!
1571年(元亀2年)5月、信長に帰順していた「松永久秀(まつながひさひで)」が、ついに信長に反旗を翻します。
松永久秀といえば、自らの主君を殺し、弱体化した足利幕府を嫌い将軍を殺し、東大寺の大仏殿までも焼き払った「乱世の梟雄*(きょうゆう)」と呼ばれた武将です。
*梟雄(きょうゆう):残忍で勇猛な人物 極悪人 極道 悪人 ダークヒーロー等
その「松永久秀」が「三好義継(三好三人衆)」と組んで、信長に反旗を翻し、近江の中山道を完全に封鎖します。
それに対し、「京」への上洛路を封鎖された信長は、8月18日に岐阜城を発ち、上洛路である近江中山道を開通すべく「松永久秀」討伐に乗り出すのです。
この年9月1日から11日まで行われた合戦が「緒川城・志村城・金森城攻め」と言います。
小川城・志村城・金森城攻め
1571年(元亀2年)8月18日、信長は「松永久秀討伐」を大義に岐阜城を出立します。
先に、一揆勢の拠点でもあり憂いのあった浅井長政居城「小谷城」そばの、余呉(よご)と木ノ本(きのもと)を焼き払い、そして中山道へと南下進軍します。
その後、志村城・小川城・金森城へと進軍しますが、この3城は、先の「顕如」の檄文により蜂起した、本願寺門徒衆(一向一揆)の籠城先にもなっていた所です。
それを知っていた信長は、つい先日敗れた「第一次長島一向一揆(本願寺門徒)」のリベンジを果たすべく「緒川城・志村城・金森城攻め」(松永久秀討伐)に乗り出すのです。
小川城・志村城・金森城攻め 場所 位置
この3条はいづれも上洛路である中山道の重要経路となっており、岐阜城から京へ繋がる道となっています。(現在の国道2号線沿)
小川城・志村城はその後廃城となり、現在は閑静な住宅地となっています。
(図参照:左下安土城)
小川城・志村城・金森城攻め 織田軍vs一向一揆勢 布陣 戦力比較
信長は岐阜城を出立した後、まず先に小谷城「浅井長政」を牽制し、余呉・木ノ本に火をかけ南下を開始。
「佐和山城」を落城させた後、「志村城」「小川城」次いで「金森城」に攻め込みます。
兵力差
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
中山道開放・一向一揆討伐(松永久秀討伐) | 反信長体制 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
織田信長・丹羽長秀・佐久間信盛・柴田勝家 他 | 小川祐忠・志村筑後守・近江一向一揆 他 |
9月1日信長は、「柴田勝家(しばたかついえ)」「丹羽長秀(にわながひで)」「佐久間信盛(さくまのぶもり)」「中川重政(なかがわしげまさ)」の4武将に志村筑後守が守る「志村城」の攻略を命じます。
力攻めにした柴田隊家臣たちは、670もの首級を上げ志村城を陥落させ、続く小川城へと攻め入ります。
小川城主であった「小川祐忠(おがわすけただ)」は、志村城の惨劇を見て戦わずして降伏。
さらに、近江一向一揆の籠る「金森城」へと進軍し、田畑を焼き払い裸城にした上で、鹿垣で張り巡らせて城と外部との接触を完全に遮断します。
これで、外部との連絡と兵糧経路を絶たれた近江一揆勢は降伏し開城することになりました。
討死武将
【信長軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
不明 | 不明 |
小川城・志村城・金森城攻め 結果
第一次長嶋一向一揆討伐戦で敗戦以来、数日と経たずに上洛路(近江中山道)奪還のために岐阜を出立した信長。
同じ本願寺の門徒宗である一向一揆(近江)討伐(建前は松永久秀討伐)とはいえ、長島で負けたリベンジともいえるこの戦いは、信長の勝利に終わりました。
【信長軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
松永久秀反旗も素早い対応で掃討 | 信長の速攻による援軍の遅れ |
小川城・志村城・金森城攻め まとめ
つい先の「第一次長嶋一向一揆」で敗れたリベンジ戦となった「古川城・志村城・金森城攻め」は、信長の素早い侵攻で勝利となりましたが、肝心の「松永久秀」討伐には至りませんでした。
しかし上洛路である近江中山道を奪還し、京までのルートを確保できたのは信長にとって最大の戦果でありました。
また、難敵である北近江「浅井長政」勢力の南半分を制圧できたことも、今後の近江征伐への信長体制にとって大きな収穫でした。
しかしながら、これで満足する信長ではありません。
金森城を落とした翌日(12日)、あの歴史に残る悲惨な殺戮戦となった「比叡山焼討ち」が起こってしまうのです。
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