延暦寺の腐敗に業を煮やしていた信長!
昨日(1571年9月11日)、近江金森城を攻め落とした信長は、瀬田川(琵琶湖南岸)を渡り、坂本(大津)の手前の三井寺付近へ着陣します。
家臣たちは、そのまま「京」へ向かうものと思っていましたが、信長は「志賀の陣」以来の憂いであった比叡山延暦寺への攻撃命令を出します。
比叡山を討つ!
根本中堂、山王、仏像、教書、高僧、僧兵、女、子供に至るまで、すべて焼き払え!
「比叡山延暦寺焼き討ち」とは、1571年(元亀2年)9月12日に比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市比叡山延暦寺)を焼討ちにした戦を言います。
老若男女一切関係なく、上人や高僧、女性、子供に至るまで3000人以上が斬殺されたといいます。
比叡山延暦寺焼き討ち 焼討ちの経緯
「延暦寺」は788年(延暦7年)に「最澄」が開創した天台宗の総本山で、国家の鎮護の寺として建立され、当時の年号でもあった「延暦」を寺の正称として賜りました。
鎌倉時代以降は、「親鸞」「法然」「一遍」「栄西」「道元」「日蓮」の名だたる高僧たちが修行し、日本仏教・宗教の開祖に先立つ存在となり「日本仏教の母山」と呼ばれています。
1571年当時の法主は、正親町天皇の弟「覚恕(かくじょ)」で、朝廷との結びつきも強く、それゆえに多大な寺領と僧兵を持ち合わせており権力も強大な寺院となっていました。
比叡山延暦寺 場所 地図 アクセス
延暦寺は滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。
比叡山延暦寺と信長の対立 焼討ちが起こるまで…
信長が足利義昭を伴い上洛(1568年)した後、畿内平定の際に奪った「寺領」を家臣に与えていたことを、もともとは延暦寺の寺領であると主張し、返領するようにと訴えていました。
延暦寺は朝廷とのつながりが深かったため、朝廷を動かし、寺領回復を求める綸旨を下したものの、信長はこれに従いませんでした。
そもそも、一介の寺院が朝廷を動かし「政(まつりごと)」に口を挟むような対応をひどく嫌っていた信長ですが、延暦寺のその後の対応(「志賀の陣」逃げ込んだ浅井・朝倉に味方しなければ寺領回復に応じると伝えたにも関わらず、これを無視し、その上浅井・朝倉を匿(かくま)い、信長に対抗する姿勢を見せた)に怒りを覚えていました。
信長の延暦寺に対する怒りはこれだけではありません。
信長が見ていた延暦寺は、元来聖職者であるべき僧侶が、日ごろの仏事や仏法をなおざりにし、天道の恐れを省みず、戒律で禁じられているはずの「色欲」にふけり、「魚鳥」の肉を喰らい、「金銀財宝」を欲しいままにし、中立であるはずが「浅井・朝倉」という個への庇護等、信長はそのような特権に驕(おご)る延暦寺が許せませんでした。
また、延暦寺は立地上、「京」を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点であり、山には多くの坊舎が存在し数万の兵を擁することができる重要拠点となっていたため、これを潰(つぶ)すという目的もあったと考えられています。
しかし、織田家臣の「佐久間信盛(さくまのぶもり)」や「武井夕庵(たけいゆうあん)」らは、比叡山焼討ちには「前代未聞の戦」と強く反対したといいます。(甫庵太閤記)
そこへ家臣の「池田恒興(いけだつねおき)」が、こんな進言をしたのです。
「延暦寺攻撃は、夜になってしまえば逃散する者も出るであろうから、それであれば寝静まっている深夜から早朝を待って攻めれば、一人も討ち洩らすことなく討ち取る事が出来るでしょう」
と進言したため、信長はこの言を聞き入れ、ついに比叡山焼討ちの命令を出すことになったのです。
比叡山を討つ!
根本中堂、山王、仏像、教書、高僧、僧兵、女、子供に至るまで、すべて焼き払え!
比叡山延暦寺焼き討ち 織田軍vs延暦寺門徒 布陣 戦力比較
1571年(元亀2年)9月12日、信長は11日夜に3万の軍勢を比叡山の東麓から向かわせ延暦寺の周りを囲ませます。
信長本隊は、堅田や坂本の町に火をかけ、逃げ惑う人々を追い、比叡山の守護神である「日吉大社」の山王二十一社を焼き、比叡山に攻め上がって延暦寺根本中道・東塔・西塔・仏像・教書などの寺宝に火をかけます。
兵力差
【織田軍】 | 【延暦寺門徒軍】 | ||
3万 | 4000 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【延暦寺門徒軍】 | ||
延暦寺殲滅 | 応戦 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【延暦寺門徒軍】 | ||
織田信長・明智光秀・池田恒興・佐久間信盛・柴田勝家・木下秀吉・武井夕庵・丹羽長秀 他 | 不明 |
信長軍は、出会った者は僧侶や老若男女の区別なく、女性や子供、たとえ乳飲み子であろうとも手当たり次第に切り殺し首を刎ねます。
阿鼻叫喚・地獄絵図となった聖地「比叡山」
延暦寺は大炎に囲まれ燃え上がり、逃げ惑う僧侶や僧兵に、泣き叫ぶ女性や子供たち。
捉えられ、手を合わせて命乞いをする者たちへも、容赦なく鋭い刃で斬り殺す織田兵。
紅蓮の炎に包まれ、
血しぶきが飛び散り、
絶叫が渦巻き、
平安時代から聖地とされていた比叡山は、阿鼻叫喚の地獄と化しました。
信長公記では、「哀れにも数千の死体がごろごろと転がり、目も当てられぬ有様だった」と記され、残忍な殺戮は15日まで続き3000~4000名が斬殺されたと言います。(言継卿記)
討死武将
【信長軍】 | 【延暦寺門徒軍】 | ||
不明 | 不明 |
比叡山延暦寺焼き討ち 結果
信長の命令によって行われた焼討ちは、比叡山全山の焼討ちと3000~4000人もの人が斬り殺された結果となりました。
寺領はすべて信長に没収され、戦功の高かった「明智光秀」「佐久間信盛」「中川重政」「柴田勝家」「丹羽長秀」に配分され、特に戦功の高かった明智光秀には、比叡山の麓の町「坂本」5万石を与えられ、この地に城を築き織田家臣初の城持ち大名となりました。
【信長軍】 | 【延暦寺門徒軍】 | ||
用意周到の準備 | 信長への驕(おご)り |
比叡山延暦寺焼き討ち まとめ
1571年(元亀2年)9月12日に行われた「比叡山延暦寺焼き討ち」は、3000人を超す死者と比叡山の宝物をすべて焼き尽くした結果となり終わりました。
信長は仏教自体を弾圧したわけではなく、焼き討ちの真意は、「武装する寺院勢力の排除」であり、「政と宗教の分離(政教分離)」が目的でした。
その後延暦寺は、信長の死後、秀吉によって1584年(天正12年)に再興されることになります。
近年の発掘調査では、虐殺された人骨や焼け落ちたはずの寺遺物や焦土層が見当たらず、出土した品々も焼き討ち以前に廃絶されたものでした。
現在のところ明確にされているのは、「根本中堂」と「大講堂」のみで、「全山焼き討ちと3000人を超える虐殺」は否定されています。
一級資料である「信長公記」では、その凄惨さが描写されていますが、著者である太田牛一は当時現場にはおらず、他人から見聞きしたとされています。
膳所城(滋賀県大津市)跡から発見された城の礎石。延暦寺の石地蔵が使用されました。
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