火を噴く巨大戦艦!
毛利(村上)水軍を打ち破れ!
【第二次木津川口の戦い】
今から2年前の1576年(天正4年)、「第一次木津川口の戦い」で毛利(村上)水軍の前に敗れた信長は、巨大戦艦の造船に着手。
それが今年(1578年天正6年)の6月についに完成します。
それは空前絶後の威容を誇る、船体を鉄で覆った巨大戦艦でした。
完成するとすぐさま、本願寺の補給路の遮断に大阪湾へ向かった所、淡輪沖を航行中、雑賀衆船団が襲い掛かる(淡輪沖海戦)もびくともせず、大砲による攻撃で一網打尽にするほどの威力で圧倒。
雑賀船団は何も抵抗することができず、悠々と目の前を通り過ぎる巨大戦艦を見ているしかありませんでした。
7月17日にこの巨大戦艦は「堺港」に到着、翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し、大坂湾を封鎖しします。
これに反応したのが石山本願寺で、唯一物資の補給路として残されていたのが大坂湾の海路を封鎖されてはたまりません。
1578年(天正6年)11月6日、木津川口(現在の大阪湾木津川運河)で、毛利(村上)水軍と再び決戦となるのが「第二次木津川口の戦い」と言われています。
第二次木津川口の戦い 場所 地図 アクセス
木津川口の戦いの場所は、現在の木津川口の大阪湾にあたります。
現在はずいぶん埋め立てられていますので、当時と比較はできませんね…。
木津川口の戦い 巨大戦艦(鉄甲船)の様相
すでに「淡輪沖海戦」で、その威力を存分に発揮し、人々が仰天したとされる鉄甲船とはどのような様相だったのか。
人数五千ばかり乗る。
横へ七間(約12.7m)、縦へ十二、三間(23.6m)もこれあり。鉄の船なり。
上記のサイズの船で、5000人が乗れるのは疑問ではありますが、船体は3ミリの鉄板で覆われ毛利(村上)水軍の得意とした「焙烙(ほうろく)」(火薬をつめた手投げ爆弾)や「火矢(ひや)」(矢の先に火を付けて射った)が、まったく通用せず、しかも巨大に造られたと記載されています。
また、宣教師オルガンティノも「日本の船で最も大きく、華麗でポルトガルの船に良く似ている。これをどうやって建造したのか驚きである。(中略)これで石山本願寺は滅亡するものと思われる」と書き残しています。
この巨大戦艦団に対し本願寺側は、11月6日毛利(村上)水軍600隻の大船団を編隊し対抗します。
大坂木津川口でいよいよ両者の第2ランウドの火ぶたが切られました。
信長・巨大戦艦6隻vs毛利水軍600隻
全砲門開け! 狙いは、毛利水軍! 撃て~っ!!
第二次木津川口の戦い 織田軍vs毛利軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
戦艦6隻 | 600隻 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
本願寺への補給阻止 | 補給路確保 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
九鬼嘉隆・滝川一益 他 | 村上武吉 他 |
木津川口の戦い 合戦のゆくえ
11月6日午前8時、大阪湾に600隻の大船団でやってきた毛利(村上)水軍。
信長水軍6隻の巨大戦艦は、すでに大阪湾で待ち構えていました。
毛利の水軍は、巨大戦艦の周りを包囲しながら、本願寺への補給路を確保するために南下します。
小回りの利く小舟で左右自在に動き、さしもの巨大戦艦団も押され気味に見えました。
しかし、巨大戦艦は侵入を防ぐ巨大な壁のように立ちはだかり動じません。
毛利水軍は巨大戦艦に近づき、得意の「焙烙(ほうろく)」(火薬をつめた爆弾)を浴びせます。
巨大戦艦には左右にそれぞれ、3門の「大砲」が搭載されており、合計で36門の大砲がありました。
毛利水軍の船団を射程圏内に収めると、大砲は一斉に火を噴き、小さな船は木っ端微塵に吹き飛びました。
大砲の攻撃をかいくぐった船団は炮烙、火矢を雨のように撃ちますが、これも鉄板の前にまったく歯が立たず、体当たりして沈めてしまいます。
大将の船とおぼしきものへ、大砲を打ち込み撃沈させ、以後、敵船は恐れをなして寄り付かなかった。
九鬼嘉隆は、敵船数百隻を木津の河口へ追い込んで大砲で撃破した。
8時から開始された海戦は、巨大戦艦を揃えた織田水軍の圧倒的勝利となり、午前中に終わりました。
討死武将
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
不明 | 不明 |
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
巨大戦艦で勝利 | 戦艦の頑強さに焙烙、火矢が通用せず敗退 |
第二次木津川口の戦い その後 まとめ
鉄で覆った巨大船の造船により、リベンジを果たした信長。
一方、巨大船を前に、得意とした「焙烙」「火矢」が通用せず、何も出来ず敗れた毛利(村上)水軍。
この勝利により信長は、播磨・摂津攻略に専念できることになりました。
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