【第三次長島一向一揆討伐戦】阿鼻叫喚・地獄絵図!鬼神信長「女・子供・一揆勢すべて焼き殺せ!」

信長全合戦

 

因縁本願寺との最終決戦!信長VS長島一向一揆!

【第三次長島一向一揆討伐!】

1570年から始まった本願寺(長島一向一揆)との最終決戦となった第三次ラウンド!

本願寺下間頼成の「檄文」により反信長蜂起に伴い、一揆勢が信長に抵抗するようになってから4年、ついに最終決戦となる「第三次長島一向一揆軍討伐戦」が開戦します。

「織田信長」vs「長島一向一揆軍」

1574年(天正2年)6月23日、信長は自身の全領域へ、長島一向一揆攻めの為の「大動員令」を発します!

信長
皆のもの、全員集結せよ!

本願寺一向一揆衆をすべて殲滅させよ!

女・子供・衆門徒の一人まで生きて返すな!

全員皆殺しにせよ!

信長による、集団殺戮ジェノサイド!

長島一向一揆との最終決戦の始まりです。

「第三次長島一向一揆」紐解いてまいりましょう。

長島一向一揆 場所 アクセス

現在の三重県桑名市長島町に

「現在の地図(位置)」
 

現在の長島城の位置

合戦当時(1574年)の長島城:織田信長覇道の全合戦

信長の動き

7月13日、三度目となる長島一向一揆討伐のため、大動員令で終結し出陣。

陸からは、東から「織田信長本隊・信忠部隊」、西からは「柴田勝家部隊」、中央正面からは羽柴秀吉に代わり弟の「羽柴秀長隊」の三隊。

さらに海からは、「九鬼嘉隆隊」「滝川一益隊」が動員され、信長の主要な将のほとんどが参陣し、8万の大軍で長島に攻め込みます。

信長
今まで散々邪魔建てしよって、一揆衆め…。攻め滅ぼしてくれるわ!

全軍よ、容赦はいらん。一気に攻め滅ぼせ!!

第三次長島一向一揆戦 織田軍vs一向一揆軍 布陣 戦力比較

兵力差

【織田軍】 【一向一揆軍
8万 3万

戦闘目的

【織田軍】 【一向一揆軍】
長島一向一揆討伐 討伐阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【一向一揆軍】
織田信長・織田信忠・柴田勝家・羽柴秀長・丹羽長秀・前田利家・佐久間信盛・佐々成政・河尻秀隆・池田恒興・九鬼嘉隆・北畠具豊・滝川一益 他 顕忍・空明・下真頼旦・下間頼成・日根野弘就・大島親崇・大木兼能 他

合戦のゆくえ

7月14日ついに織田軍の進撃が開始されます。

陸攻めの「織田信長本隊・信忠部隊」、「柴田勝家部隊」、「羽柴秀長隊」の三部隊が、小木江城対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴。

第三次長島一向一揆合戦図

岸際の篠橋城周りを「羽柴秀長部隊」に攻めさせ、「織田信長本隊・信忠部隊」は前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五明城を攻略し、その日はこの地点で野営します。

翌7月15日には、「九鬼嘉隆」の安宅船を先頭とした大船団が到着し、尾張各地から集められた兵を乗せて一気に攻め立て、また、「滝川一益」「織田信雄」も垂水・鳥屋尾・大東から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船数百隻で埋め尽くされました。

陸攻め、海攻め、回りの四方からの織田軍の猛攻を受けた一揆衆の各砦は次々と落とされ、じわりじわりと包囲を縮められます。

一揆衆(女・子供含む)はついに、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島5つの城に追い詰められます

5つの城に追い詰められた一揆衆、ついに降伏か…

信長は攻撃の手を緩めず、まず「篠橋城」「大鳥居城」を大砲で攻め、両城はたまらず降伏を申し出ますが、信長はこれを許さず兵糧攻めにします。

8月2日夜半、暴風雨に紛れ大鳥居城の一揆勢が、城を抜け出そうとしたところを攻撃し、男女1,000人ほどを切り捨てられ「大鳥居城」陥落します。

8月12日には、篠橋城の者たちが「長島の各本坊に入って織田方に通じる」と内応を誓ったので、残る長島・中江・屋長島へと逐います。

しかし、長島・中江・屋長島ではそのまま籠城となり、城中では多くの者が餓死します。

それは信長が、最初から生かすつもりなどなく、干し殺しの為の罠だったと言われています。(信長公記)

兵糧攻めに耐えきれなくなった、一向一揆の本拠であった長島城は、9月29日、門徒衆の助命を条件に開城を申し出ます

ところが…

信長はこの申し出を許可します。

ようやく戦も終わったと、やせ衰えた一揆衆が船に乗り、城を次々と退去しているところに…

信長
全軍、一人残らず撃ち殺せ!

城に向けて構えていた、織田軍の銃口が撤退する一揆衆に向かって一斉に火を噴き、一揆勢の指導者である「顕忍」「下間頼旦」が撃ち殺され、続く軍兵たちも容赦なく撃ち斬り捨てられます。

ところが、これに怒った一揆衆800余が、裸になって抜刀するという捨て身の反撃を仕掛けます。

織田方も油断したのか、この捨て身の反撃に「織田信忠(信長嫡男)隊」が崩され、信長兄の「織田信広」や弟の「秀成」「信次」「信成」「信昌」など、織田一族が討たれ、約1000人ほどの討死者が出ました。

ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂石山本願寺へと落ちていきました。

討死武将

【織田軍】 【一向一揆軍】
織田信広・織田信次・織田信成・織田信昌・織田秀成・佐々松千代丸・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・小瀬清長・和田定利他 約1000名 顕忍・下間頼旦他 3万人以上

 

【織田軍】 【一向一揆軍】
陸・海の圧倒的兵力と情け容赦ない力攻め 降伏するも騙し討ちされ、反撃するも

皆殺しに合う

第三次長島一向一揆戦 その後 まとめ

降伏してきた相手を一旦受け入れるも、それに向かって銃で皆殺しにした信長。

敵方も反撃し、思わぬ代償を払わされた格好となった信長ですが、このやり場のない怒りを、残る「中江」「屋長島」の両城へ向けます。

両城には、まだ2万を超える一揆衆が籠城していましたが、この2城の周りに幾重にも柵で囲み逃げ出せないようにし、四方から火をかけます。

轟々と燃え盛る炎の中で泣き叫びながら息絶えていく一揆衆。

中には女・子供たちもおり、城ごとすべてを焼き払います。

それは「延暦寺焼き討ち」を上回るほどの阿鼻叫喚・地獄絵図だったと言われます。

一行門徒衆による長島輪中の自治領は完全に崩壊。

これ以降、信長は一向一揆衆に対し、徹底したジェノサイド(集団殺戮)の戦法を取るようになりました。

その日信長は岐阜へと帰陣、長島城は滝川一益に与えられました。

 

 

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