謀略で勝利!
1552年に信長の父信秀が亡くなって依頼、清州織田家「織田信光」とは敵対している信長。
萱津(かやつ)・安食(あじき)での両戦いで、いずれも信長が勝利をおさめたものの、未だに「信光」との関係は敵対状態。
しかし、この両者の戦いもついに決着の時が来ます。
1555年(天文23年)4月20日、決戦の場所は「清州城内」。
当時は「織田信光」の居城でした。
実はこの戦い、両者の間で激しい合戦が行われたのではなく、「織田信光」を自害に追い込みます。
そこには、信長渾身の「謀略」があったのです。
この戦い後、信長は尾張下四郡を制圧し、「尾張統一」への足掛かりとします。
父信秀の死後から3年目、敵対していた「織田信光」を自害に追い込んだ「謀略」とはいったいどのようなものだったのか…。
「清州城攻略戦」をお伝えしてまいります。
清州城攻略戦 背景 経緯
前年に「安食の戦い」で、重臣の河尻佐馬丞と織田三位を失い戦力を大きく失った織田信友は、最期の重臣である「坂井大膳」に今後の立て直しを任せます。
このままでは、信長から攻められてしまえば敗北しかないと悟った大膳は、信長と密にしている守山城主である「織田信光」に接触し、「信友様とお2人で尾張守護代を務めて欲しい」と、信光の懐柔工作に出ます。
信光を引き込むことによって、信長との関係を崩し、あわよくば、その隙を突き信長を殺そうと考えたのです。
信光はこれに応じ、大膳を信用させるためにも、二心ない事を起請文までしたためます。
そして、信用を得た信光は、清州城の南魯(みなみやぐら)の守りを任されることになります。
一方の信長と言えば、未だ尾張領内の統一が出来ず、その中でも清州城の織田信友は倒さなければならない存在です。
しかし、堅固な城塞である清州城は一筋縄ではいかない要塞で攻めあぐねていました。
そこで信長が取った行動が…、信友を窮地に追い込むことに成功するのです。
清州城攻略戦 場所 アクセス
「清州城攻略戦」が行われた場所は、現在の愛知県清須市朝日城屋敷1-1、現在の「清州城」そのものです。
お城に城主はなくてはならない存在ですが、戦乱の世、城主は次々と変わる事でもありました。
「清州城」織田信友居城⇒合戦後「織田信長」が勝利し居城とする。
「那古野城」織田信長居城⇒合戦後「織田信光」の居城となる。
「守山城」織田信光居城⇒合戦後、信光の弟「信次」の居城となる。
(参考:Googleマップ)
織田清州家の「坂井大膳」は、信長と密にしている「信光」に取り入ることにより、上手く懐柔させたと思い込んでいました。
…と思いきや、上手く取り入れたのは信長側の「信光」の方で、信光は信長に「私が清州城を乗っ取りますから、領国の東半分をください」と密約(裏工作)を交わしていたのです。
そして…、
信光は、自ら守りを任せられている清州城の南魯(みなみやぐら)から、坂井大膳・織田信友の本城へと一気に攻め込みます。
清州城攻略戦 信長vs信友 戦力比較
兵力差
【信長軍】 | 【織田信友軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【織田信友軍】 | ||
清州織田討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【織田信友軍】 | ||
織田信光他 | 坂井大膳・織田信友他 |
清州城攻略戦 戦況
1555年(天文23年)4月20日。
信光は清州城南櫓から伏兵を置いて「坂井大膳」を討ち取ろうとしますが、殺気を感じた大膳は家臣と共に清州城を離れ今川義元の下へ逃亡します。
信光は、信友へと矛先を変え、ついに信友を追い詰めます。
信友は戦国の武将らしく切腹し、信光は清州城奪取に成功します。
その後、信長は清州城に移り、信光は那古野城へと居を移ることになります。
討死武将
【信長軍】 | 【織田信友軍】 | ||
【不明】 | 【人数不明】
織田信友他 |
結果
【信長軍】 | 【織田信友軍】 | ||
【結果】 謀略 |
【結果】 謀略 |
清州城攻略戦 まとめ
1555年(天文23年)4月20日、織田信長が尾張統一への足がかりとなった、「清州城攻略戦」。
相手側の謀略に、謀略で返した戦いとなりました。
旨く騙したつもりが、騙されていた事で、すべてを失う羽目になってしまったのです。
その後、信長は「尾張統一」に向け、大きく前進することになります。
コメント