織田家当主「信長」の2戦目!
初勝利なるか?
1552年織田家当主となった「信長」の2度目の戦い「萱津(かやつ)の戦い」。(別称「海津(かいづ)の戦い」とも言われます)
1度目の戦いで惜しくも引き分けとなった「赤塚の戦い」からわずか4か月後の8月中頃、尾張守護代清州織田家「織田信友」重臣の「坂井大膳・甚助」が、信長の支城である「深田城」と「松葉城」を奪います。
信長が織田家の当主となったとはいえ、織田家中では「大うつけ」といわれる信長に対し、不満や反感を持つものも多く、赤塚の戦いのきっかけも家臣の今川家への「寝返り」が原因でした。
今回も同じ織田家中で、城を奪われ「内乱」が勃発することになります。
織田家当主として2度目の戦いとなる「信長」の手腕はいかに…。
当主となり信長の2度目の戦いとなった「萱津の戦い」をお伝えしてまいります。
萱津の戦い 戦況
信長が織田家(弾正忠家)当主になったとはいえ、未だ不満や鬱憤が多く、抑えきれていないのが実情の織田家中。
山口教継親子の今川への寝返りを鎮圧(赤塚の戦い)したかと思いきや、今度は、清州織田家「織田信友」の重臣「坂井大膳・甚助」が信長の「深田城」と「松葉城」を攻め落とし、城主の織田伊賀守と織田信次を人質とします。
報せを聞いた信長は、すぐさま信次の兄「織田信光(信長叔父)」と共同で清州城へ進軍。同時に深田城と松葉城にも別動隊を入れ城奪還に向かわせます。
そして両軍が、「萱津」で激突します。
(加賀藩史料:村井重頼覚書)
萱津の戦い 場所 合戦図
「萱津の戦い」の場所は、現在の愛知県あま市上萱津八剱にあります。
地図で示した位置が「萱津合戦場」です。2㎞北には「清須城」、右下に名古屋駅です。(参考:Googleマップ)
現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。
萱津の戦いの経緯は、坂井大膳・甚助が信長の支城深田城と松葉城を攻め奪う事から始まります。
信長は深田城と松葉城と清州城の3か所へ兵を出します。
信長には「織田信光(叔父)」が参戦し、清州城からは敵将の「坂井甚助」が討って出て「萱津」の地で激突します。
萱津の戦い 信長vs坂井大膳・甚助 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【坂井軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【坂井軍】 | ||
城奪還 | 弾正忠家攻略 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
織田信長・織田信光・柴田勝家・中条家忠・前田利家 | 坂井大膳・坂井甚助 |
萱津の戦い 戦況 結果
1552年(天文21年)8月16日早朝。
信長は居城の那古野城を出陣。守山城から織田信光(叔父)が参戦。
兵を3隊に分け、松葉城・深田城、清州城へと進軍します。
それに対し、清州城から敵将である坂井甚助が兵を上げ出陣。両者は「萱津の地」で激突します。
戦いは午前8時頃から始まり、激闘の末、信長の家臣「柴田勝家」と「中条家忠」が、敵将の「坂井甚助」を討ち取ります。その他にも清州方の騎馬50以上を討ち取ったといいます。
その後信長は、兵を取って返し、深田城・松葉城を囲み、松葉城では信長軍が清州方を攻め込み城の奪還に成功、深田城でも清州方30人以上を討ち大勝します。
午前8時に火ぶたが落とされた戦いは、正午前には決着が付き、結果、信長の「勝ち」となりました。
討死武将
【織田・徳川軍】 | 【坂井軍】 | ||
【人数不明】 | 【人数:合わせて80余】
坂井甚助 他 |
萱津の戦い 結果
【織田軍】 | 【坂井軍】 | ||
【結果】 完勝 |
【結果】 大敗 |
萱津の戦い まとめ
1552年(天文21年)8月16日、信長が織田家(弾正忠家)当主となり2度目の戦いとなった「萱津の戦い」。
「大うつけ」の異名をとる信長ではありますが、この戦いによって尾張国内に新たな新興勢力となって示した戦いになったといえます。
合戦場には、現在も石碑がひっそりと建立されています。
萱津古戦場石碑(参考出展:Yahoo!ブログ)
「いにしへの 萱津が原に名をとどむ もののふどもの 夢のまた夢」
コメント