織田家当主「信長」初戦!
1552年父信秀の病没後、信長は家督を譲り受け「織田家当主」となります。
織田家当主となった信長の初めての合戦が、その年1552年4月に起きた「赤塚の戦い」です。
そこへ、早くも裏切者が現れ、信長は当主としての手腕が試されることになります。
19歳となった新当主「信長」の手腕はいかに…。
織田家の新当主となった信長最初の戦い「赤塚の戦い」をお伝えしてまいります。
赤塚の戦い 戦況
新当主になったとはいえ、当時の信長は回りの家臣から「大うつけ」という不名誉な噂があります。
父信秀が織田一族で頭角を現しながら死去したわずか1か月後、信長を見限り今川へ寝返った者がいました。
鳴海城守の「山口教継・教吉」親子です。
2人は領土が三河の国境に接していたという事もあり、この先不安な信長よりも、もはや大大名である今川義元に付きます。
その直後の4月17日、信長は山口親子の寝返りを諫めるため那古野城から出陣し、天白区の中根から緑区古鳴海を経て「三の山」に陣取り、鳴海城の山口教継・教吉に対陣します。(三の山は現在の緑区鳴海町山王山)
赤塚の戦い 場所 合戦図
「赤塚の戦い」の場所は、現在の名古屋市緑区鳴海町赤塚にあります。
地図で示した位置は、信長が陣取りした「三の山」(現在の千句塚公園)で、相手である山口親子は、真南(下)に約500mほど行った所の「鳴海城」(現在の鳴海城後)です。
「合戦場所」は、ちょうどその真ん中あたりになります。(参考:Googleマップ)
信長「三の山」・山口親子「鳴海城」に対峙した後、1552年4月17日午前10時、いよいよ合戦の火ぶたが落とされます。
赤塚の戦い 信長vs今川軍(山口親子) 戦力比較
では、当時の織田軍(信長)と今川軍(山口教継・教吉親子)の戦力差を見てまいりましょう。
兵力差
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
800 | 1500 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
離反鎮圧 | 反目侵攻 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
織田信長・内藤勝介・蜂屋般若介・荒川与十郎・長谷川橋介・青山藤六・戸田宋二郎・賀藤助丞 | 山口教吉・清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原丞十郎・成田弥六・成田助四郎・柴山甚太郎・中島又次郎・祖父江九介・横江孫八・荒川又蔵 |
赤塚の戦い 戦況 結果
午前10時に火ぶたが落とされた戦いは、両軍の差わずか3~4間(5m程)程の「超接近戦」。
矢戦から始まり、続き槍戦となり、落馬した者を両軍で引っ張り合うといった光景の中、あまりにも両軍が接近し入り乱れた戦のため、馬上での戦いには不向きとなり下馬して敵方へ攻め込んだといいます。
お互いが知り合うほどの仲、戦いは2時間程で終わり、信長軍は30余名が討死し、生け捕りとなった者も大勢いたといいます。
結果は互いに痛み分けとなり「引分け」。
戦後は、お互い生け捕った捕虜や馬を交換し合って帰陣したと言います。
討死武将
【織田・徳川軍】 | 【今川軍】 | ||
【人数30余】
荒川与十郎 他 |
【人数不明】
萩原助十郎・中島又三郎・祖父江九介・横江孫八・水越助十郎 他 |
赤塚の戦い 結果
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
【引き分け】 両者痛み分け |
【引き分け】 両者痛み分け |
赤塚の戦い まとめ
1552年(天文21年)、信長が織田家当主となった直後で起こった「赤塚の戦い」。
「大うつけ」の異名をとる信長(織田家)の将来に不安を感じた「山口享継・教吉」親子の今川側への寝返りが発端となりました。
信長は、こうした寝返りが今後出ないためにも意思表示となる戦いであったといえるようです。
30数名の討死者を出したものの、この戦いで織田家の結束は高まったと言われます。
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