信長、美濃が危ない!
信玄後継の「武田勝頼」が東美濃に侵攻!
1574年(天正2年)1月27日、今では信長の領地となっている東美濃に、今は亡き信玄の後継者である「武田勝頼」が、山県昌景ら甲斐・信濃など5箇国の兵を率いて美濃、尾張、三河、遠江攻略の拠点となる「明知城」を、1万5千の兵で侵攻します。
それに対抗すべき信長は、尾張・美濃の各諸将に救援に向かわせ、自らは2月5日に岐阜城を出陣します。
信長にとって東美濃の重要拠点である「明知城」は、武田勝頼も美濃から近江、京へと向かう重要拠点と考えられ、ここで両者の戦いが始まります。
こうして1月27日から始まった「信長軍」と「武田軍」との合戦が、「明知城の戦い」です。
明知城の戦い 場所 地図 アクセス
明知城は、現在の岐阜県恵那市明智町にあった山城です。
別名城鷹城と言われ岐阜県の指定史跡となっています。
明知城の戦い 信長の動き
信長は嫡男「信忠」を率い2月5日に岐阜城を出陣し、明知城の以東約10キロほどの御崇(鶴岡山)に布陣。
翌日の6日には、包囲されつつも未だ奮闘する明知城主「遠山一行(とおやまかずゆき)」と叔父の「遠山友治(ともはる)」らと共に、武田勢を挟撃する手はずとなっていました。
明知城の戦い 織田軍vs武田軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
3万 | 1万5000 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
侵攻阻止 | 東美濃侵攻 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
織田信長・織田信忠・河尻秀隆・池田恒興・遠山一行 他 | 武田勝頼・山県昌景・秋山信友 他 |
翌日の6日、武田軍を討つはずの「明知城」内で、飯羽馬右衛門(いいばまうえもん)が謀反。
援軍として明知城に在城していた「坂井越中守」を討ち、城郭・城下を火の海とされ、明知城は完全に武田軍包囲されてしまいます。
武田軍への進軍のきっかけを失った信長は、明知城にほど近い「神篦城(こうのじょう)」に河尻秀隆を、「小里城」に池田恒興を置き、一旦岐阜に撤退(2月24日)。
その間も武田軍は、織田方の苗木城、明照城、大井城、串原城、今見砦、神篦城、妻木城を陥れ、明知城も落城寸前にまで追い込みます。
風前の灯となった明知城を死守する、遠山一行の叔父「遠山友治」は、一行らを城から脱出させたものの戦死者500名以上を出します。
ついに追い詰められた明知城に、信長は池田恒興、蜂屋頼孝、河尻秀隆、など3万の兵で救援に向かうも、武田軍の山県昌景が鶴岡山の山麓を廻り、信長軍の進路を遮ると、信長は兵を退いて布陣するしかありませんでした。
これにより明知城の遠山友治は織田軍の救援を受けられず討死し落城となりました。
「明知城」は遠山十八城のうち17番目に落城となりました。
討死武将
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
遠山友治 他 | 不明 |
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
武田軍の采配に東美濃を失う完敗 | 東美濃18城を制圧する圧勝 |
明知城の戦い まとめ
武田信玄の後継者である「武田勝頼」の采配に、手も足もだせないままに東美濃18城を奪われた信長。
この度の合戦は、完膚なきまでに打ちのめされた格好となりました。
東美濃を奪われ武田軍の脅威が迫る中、信長の心情は穏やかではありません。
果たしてこの先どうなるのか。
武田軍の勢いはさらに増し、次なる狙いは三河の「高天神城」。
「高天神を制する者は、遠州を制する」と言われた要害の地でした。
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