恐るべし竹中半兵衛!
信長、半兵衛策略に嵌る!
1561年5月に美濃の「斎藤義龍」が病死し、3日後の「森部の戦い」に続く「十四条・軽海の合戦」では勝利したものの、1か月後の「小口城合戦」「稲葉山城攻め」では完敗した信長。
信長にとって美濃は是が非でも攻略したい場所。2年もの歳月を費やした1563年(永禄6年)4月、再び「稲葉山城」攻略のため出陣します。
美濃には軍師「竹中半兵衛」が存在する中で、満を持しての合戦。
稲葉山城南に位置する新加納の地で合戦となったのが「新加納の戦い」です。
新加納の戦い 場所 地図
場所は現在の岐阜県各務原市那加新加納町の辺りと言われています。(写真は日吉神社他、清州城からは北に25km位の場所にあります)
新加納の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較
この戦い、信長の史記として最も信憑性の高い「信長公記」には記載がありませんが、「総見記」に記載がありますので解説します。
合戦図
信長は、織田信清の居城犬山城をわき目も降らず木曽川を渡り、稲葉山城へと進軍します。
その進軍を知った稲葉山城の竹中半兵衛も、すぐさま兵を稲葉山から新加納の地へ移します。
新加納の地で両軍は激突します。
兵力差
【織田信長軍】 | 【斎藤龍興軍】 | ||
5700 | 3500 |
戦闘目的
【織田信長軍】 | 【斎藤龍興軍】 | ||
美濃侵攻 | 侵攻阻止 |
主な参戦武将
【織田信長軍】 | 【斎藤龍興軍】 | ||
織田信長・坂井政尚・池田恒興・柴田勝家・森可成 他 | 竹中半兵衛・長井道利・日根野弘就・日根野盛就・牧村半之助 他 |
新加納の戦い 合戦の行方 信長正規軍であったが敗色濃厚に奇策が…
織田軍の兵力は5700に対し、斉藤軍は3500。
【織田信長軍】
先陣…池田恒興・坂井正尚
二陣…森可成
三陣…柴田勝家
四陣…丹羽長秀
大将…織田信長
先陣から大将まで、豪華武将が揃った信長正規軍。信長の気合が感じられます。
対する斉藤龍興軍ですが、
【斎藤龍興軍・軍師竹中半兵衛】
先陣…牧村半之助
二陣…日根野弘就・日根野盛就
三陣…長井道利
信長軍は兵数で有利、しかも兵農分離された勇猛果敢な隊陣、信長もこの陣立てであれば「必ず勝てる」と思ったに違いありません。
しかし、合戦が始まると信長の思惑通りには行きませんでした。
戦いは序盤から斉藤勢に押されるのです。
まず最初に、先陣の池田・坂井隊が崩され、次いで二陣の森隊、三陣の柴田隊も粘りますが日根野の軍勢に圧倒され敗色濃厚となります。
これもすべて斉藤方の軍師竹中半兵衛の計略「伏兵策」というものでした。
*「伏兵策」
あらかじめ兵を、戦闘が起こるであろう場所に待機させ、そこへ敵を追い込み殲滅させること。
しかし、織田軍にも並みの軍師には真似のできない「機転の利く」者がおりました。
その者は、味方が敗色濃厚となった今、夕方の稲葉山の尾根続きに大量の松明を灯し稲葉山方面に織田の援軍が来たと思わせたのです。
その様子を見た斉藤龍興軍は、これ以上の合戦は無意味と兵を引き上げたため、信長軍は窮地を脱したと言います。
その「機転の利く者」こそが、後に竹中半兵衛を軍師にした「木下藤吉郎(秀吉)」だったのです。
これ以上の負け戦を、最小限の被害に押さえ、敵側から引き揚げさせる、藤吉郎(秀吉と川並衆)がとった奇策でもありました。
討死武将
【織田信長軍】 | 【斉藤龍興軍】 | ||
不明 | 不明 |
新加納の戦い 結果
1563年(永禄6年)4月、2年の歳月を費やし、織田軍最強の正規軍を出陣させた信長でしたが、またしても「竹中半兵衛」の策に嵌り、敗戦となりました。
【織田信長軍】 | 【斉藤龍興軍】 | ||
【敗因】 計略に完敗 |
【勝因】 竹中半兵衛の策により勝利 |
新加納の戦い まとめ
再び、竹中半兵衛の計略により敗戦となった信長。
藤吉郎(秀吉)の奇策で大きな被害は免れたものの、信長正規軍での敗退は相当の痛手となりました。
その後信長は、美濃攻略を稲葉山城への正攻法を諦め、回りの支城から攻略していく方針に転換することになります。
その方針転換も、あの「竹中半兵衛」の存在が大きかったと考えられています。
その半兵衛ですが、この合戦の翌年(1564年)2月に、たった16名の近習達で斉藤龍興を追い出し「稲葉山城」を奪い取ってしまいます。
斎藤龍興が、多大な勝利に貢献した竹中半兵衛の軍略を重用しなかったため、と言われています。
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