因縁の本願寺戦!【第二次長島一向一揆討伐!】
1570年から始まった本願寺(長島一向一揆)との第二次ラウンド!
本願寺下間頼成の「檄文」により反信長蜂起に伴い、一揆勢が信長に抵抗するようになってから早3年、今年(1573年天正元年)の8月に、ついに朝倉家・浅井家を滅亡(小谷城の戦い)させた信長ですが、休む間もなく一月後の9月に、2度目となる長島一向一揆軍討伐を開始します。
「織田信長」vs「一向一揆軍」
1573年(天正元年)9月24日、信長は柴田勝家・羽柴秀吉・佐久間信盛らとともに、長島へ侵攻します。
石山合戦本願寺とのこの2度目となる長島侵攻を「第二次長島一向一揆戦」と言います。
信長はこの合戦で思わぬ苦戦を強いられることになります。
早速紐解いてまいりましょう。
長島一向一揆 場所 アクセス
現在の三重県桑名市長島町に。
信長の動き
9月24日、信長は北伊勢に出陣し、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・佐久間信盛ら緒将の着陣を待ちます。
翌25日、数万に膨れ上がった信長軍は、一気に北伊勢諸城に攻め込みます。
第二次長島一向一揆戦 織田軍vs一向一揆軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
8万 | 2万 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
長島一向一揆討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
織田信長・柴田勝家・羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・佐久間信盛・蜂屋頼孝・富田長繁・林通政 他 | 日根野弘就・中島将監・近藤氏 他 |
26日「西別所城」を、羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼孝が攻略に成功、陥落。
10月6日「坂井城」を、柴田勝家・滝川一益によって陥落。
10月8日に信長は東別所へ本陣を移動させると、桑名郡・三重郡の国人衆(萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏)が相次いで降服しますす。
これで、いよいよ河岸の向かいにある「長島一向一揆本陣(砦)」攻めに向かうと思いきや、大湊の船の調達ができず信長軍は停滞せざるを得ません。
信長軍が渡るはずの船の調達状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送らざるを得なくなります。
信長は北伊勢の諸城の中で、最後まで抵抗する中島将監の「白山城」を、佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、10月25日に「矢田城」に滝川一益を入れ美濃へと帰陣を開始することになります。
しかし、退く最中、多芸山(たぎやま)の一本道で一向一揆勢の襲撃に遭遇。
信長は思わぬ襲撃に、「林通政(はやしみちまさ/秀貞の子)」を殿軍(しんがり)としますが、折悪く雨が振り出して火縄銃が使えず白兵戦となり、信長自身も敵を追い払うなどの激戦となってしまいます。
「林通政」や「毛屋猪介」らの奮闘によって、その日の夜には大垣城へと奇人で北信長でしたが、「林通正」は殿戦で討死となります。
一向一揆勢に打撃を与え勝利したものの、退路でまたも大きな痛手を喰らう事になってしまいました。
討死武将
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
不明 | 浅井長政・浅井久政・浅井政勝・浅井椎安・赤尾清綱・海北綱親 他 |
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
一揆軍への打撃を与えるも林通正を失う | 敗れるも一矢を報いた |
第二次長島一向一揆戦 まとめ
1573年(天正元年)9月24に出撃し、約一ヵ月の戦いで10月25日に大垣城へ帰陣した信長でしたが、最終的な目的であった一向一揆の本拠地である「長島砦」への侵攻は出来ませんでした。
「長島砦」に向かう大湊の船の調達が失敗した背景には、長島に肩入れをする会合衆の裏切りに原因があったと言われています。
信長方であったはずの大湊が、敵将の「日根野弘就(ひねのひろなり/一向一揆将)」の要請に応じて、女たちや子供の運搬のため船を出していたことが判明します。
この事実を知った信長は激高、「敵将日根野に加勢した船主共を必ず殺せ」と命じ、敵側に加勢したとされる福島親子が処刑されます。
信長は福島親子の処刑によって「長島に加勢することは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制します。
第二次長島一向一揆戦は、一定の戦果は挙げられたとはいえ、本来の目的である長島砦侵攻まではいかず、手痛い反撃(林通正討死)も喰らう羽目となりました。
第一次に加え、第二次の戦いでも反撃を受け、からがら帰陣した信長は、ついに一向一揆勢のすべてを「殲滅」する、決意をすることになるのです。
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