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信長全合戦

【西美濃侵攻戦】道三亡き後、斉藤義龍強し!信長二度による美濃攻略も失敗!!

今川義元討死! 次なるターゲットは美濃制圧! 「桶狭間の戦い」で一躍戦国の表舞台に立った信長は、今川義元に勝利した余韻もなく、次なるターゲットである義父「斎藤道三」を殺した嫡男「斎藤義龍」の所領である西美濃に侵攻します。 それは「桶狭間の戦い」からわずか10日後の事でした。 西美濃安八郡を焼き払い、多岐「丸茂」氏、池田「市橋」氏と交戦します。 今川義元に勝利し、勢いずくも美濃勢に思わぬ苦戦を強いられます。 この戦いが「西美濃侵攻戦」といわれています。(総見記) 西美濃侵攻戦 場所 合戦図 場所は現在の名古屋市安八郡に位置し、名古屋から北西に約35kmの所にあります。 現在ではのどかな田園風景となっています。 1560年(永禄3年)6月と8月の2回に渡り、信長は道三のいない美濃への侵攻を開始します。 道三亡き後は、嫡男の「斎藤義龍」が美濃を収めており、今川義元を破った信長は、手始めに尾張中嶋郡から木曽川を超えて西美濃に侵攻したとあります。(総見記) 西美濃侵攻戦 織田軍vs斉藤軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【斉藤軍】 1000 不明 戦闘目的 【信長軍】 【斉藤軍】 美濃攻略に先駆けた西美濃侵攻 美濃防衛 主な参戦武将 【信長軍】 【斉藤軍】 織田信長 他 丸茂氏・市橋氏・長井甲斐守 他 西美濃侵攻戦い 経緯 勝敗 桶狭間の戦いからわずか10日後の6月2日、西美濃侵攻の為、手始めに美濃安八郡の村々に放火し、多岐の「丸茂」氏、池田の「市橋」氏と交戦。 そこへ、大垣城の「長井甲斐守」が丸茂・市橋氏の援軍に駆け付け、信長軍は桶狭間快勝の慢心もあったのか大敗してしまいます。 続く8月にも、敵領の収穫に打撃を与える目的で侵攻するものの、待ち構えていたかのように敵兵が守っており、ほとんど戦わずして撤退をしています。 道三の後を継いだ「斎藤義龍」が、思いのほか手強い相手であることを思い知らされた戦いでした。 討死武将 【信長軍】 【斉藤軍】 【不明】 【不明】 勝敗 【信長軍】 【斉藤軍】 【敗因】 1回目:斉藤側に援軍参加 2回目:斉藤側の強固な守り 【勝因】 2合戦とも信長の行動を事前に把握 西美濃侵攻戦 まとめ
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【丸根砦の戦い】佐久間盛重玉砕!松平元康(家康)が急襲!

佐久間盛重、元康(家康)の急襲を受け玉砕! 桶狭間前哨戦! 1560年(永禄3年)5月19日「桶狭間の戦い」が起こる日の早朝、桶狭間前哨戦として「鷲津砦の戦い」と同じくして「丸根砦の戦い」は始まります。 信長守備隊は「佐久間盛重(大学)」、攻める今川軍は「松平元康(家康)」19歳です。 信長は、すでに今川に落ちている「大高城」の抑えとして、丸根砦と鷲頭砦を築いていますが、明朝(19日)には「丸根・鷲津」が攻撃されることが分かっていました。 策はすでに信長の頭の中でだけは練られていましたが、家臣の誰一人信長の考えを知るものはいませんでした。 そして5月19日午前3時、信長は「丸根・鷲津」が今川の急襲に合っている報せを居城の清州城で聞きます。 信長は人間五十年…の節である「敦盛」を舞い、立ったまま湯漬けを食い、数騎の共を連れ熱田神宮へ駆け出します。 その頃、丸根砦を守備し、近隣の鷲津砦と連携して今川方の尾張侵攻の拠点である大高城を牽制する任を担っていた「佐久間盛重」は、当時、今川方の部将であった「松平元康(後の家康)」勢と間で、激しい戦いとなり、一時は松平勢(元康)を追い返すも、後に一斉攻撃(急襲)を受け玉砕しています。 数時間後に起こる「桶狭間の戦い」の前哨戦となった「丸根砦の戦い」紐解いてまいりましょう。 丸根砦の戦い 場所 合戦図 場所は名古屋市緑区大高町丸根にあります。 現在は「丸根砦碑」が建立されています。 丸根砦の戦い 信長軍vs今川軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【今川軍】 700 2000 戦闘目的 【信長軍】 【今川軍】 丸根砦防衛 尾張侵攻 主な参戦武将 【信長軍】 【今川軍】 佐久間盛重 他 松平元康(家康)・石川家成・酒井忠次 他 丸根砦の戦い 経緯 家康の巧みな戦術 丸根砦はもともと、今川側に落ちている「大高城」の付城としての役割と、「鳴海城」との間を分断する役目を持っていました。 「丸根砦」と「鷲津砦」は、猛将で知られる織田方の「佐久間盛重」が守備しています。 侵攻する松平元康(家康)の任務は、味方である「大高城」へ兵糧を届ける事でしたが、そのまま進軍しては織田方(佐久間信盛)の兵の攻撃を受けてしまいます。
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【鷲津砦の戦い】桶狭間合戦早朝!大高城と鳴海城を分断する鷲津・丸根を死守せよ!

桶狭間前哨戦! 今日、歴史が動く! 1560年(永禄3年)5月19日「桶狭間の戦い」が起こる日の早朝、桶狭間前哨戦として「鷲津砦の戦い」は始まります。 すでに「鳴海城」「大高城」を手中に収めている今川義元軍に対し信長は、「鳴海城」に対し丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに「大高城」と「鳴海城」の間を遮断するために丸根砦と鷲津砦を築いて対抗していました。 5月19日桶狭間の戦いが起こる数時間前、今川軍の「朝比奈泰朝」の攻撃を受け戦ったのが「鷲津砦の戦い」です。 この戦いは、数時間後に起こる「桶狭間の戦い」の前哨戦となり、信長の大叔父である「織田秀敏」「飯尾定宗・尚清親子」が守備していました。 鷲津砦の戦い 場所 合戦図 場所は名古屋市大高町鷲津山にあります。 現在は「鷲津砦址の碑」になっています。 鷲津砦はもともと、今川側に落ちている「大高城」の付城としての役割と、「鳴海城」との間を分断する役目を持っていました。 決戦の前夜(18日)、今川軍が「鷲津砦」を攻撃するという確かな情報が信長には入っていましたが、その夜の軍議で信長は、家臣たちに「この攻撃にどう対応するのか」の決断をしていません。 その上、「今夜は遅くなったから皆はもう帰れ!」と家臣たちに言っています。 何も言わない信長に、家臣たちは「呆れ果てた」といいます。 いったい信長は、何を考えていたのでしょうか…。 鷲津砦の戦い 信長軍vs今川軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【今川軍】 400 2000 戦闘目的 【信長軍】 【今川軍】 鷲津砦防衛 尾張侵攻 主な参戦武将 【信長軍】 【今川軍】 織田秀敏・飯尾定宗・飯尾尚清・山崎多十郎 他 朝比奈泰朝・本多忠勝・本多忠真 他 鷲津砦の戦い 経緯 勝敗 5月19日早朝、信長の大叔父「織田秀敏」と「飯尾定宗・尚清親子」で守備する「鷲津砦」ですが、昨夜の情報通り、今川軍の「朝比奈泰朝」に攻撃を受けます。 信長はその報せを聞き「人間五十年…」の節である敦盛を舞い、立ったまま湯漬けを食い、数騎の共を連れ「熱田神宮」へ疾走したといいます。
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【吉良の地侵攻】桶狭間の戦いの真実!今川義元が桶狭間出陣を決断した信長の挑発行為とは…⁉

今川義元へ宣戦布告か⁉ 吉良侵攻! 前年の1559年(永禄2年)3月に岩倉城攻略でついに「尾張統一」を果たした信長ですが、尾張の東方である愛知郡から知多郡にかけての「鳴海城」「大高城」「沓掛城」は今川方の城となっています。 そこで信長は、「鳴海城」に丹下・中島・善照寺砦を築き「大高城」との間を遮断します。 その上、今川義元の怒りを買うような大胆な攻撃にでます。 敵陣である三河の奥深く「吉良」の地まで出撃し、今川の出鼻を挫くかの如く、領内を放火し物資を奪い退却します。 大国である今川相手に奇抜な行動をとった信長。 通常であれば、隣の大国に対し、手を出さずそっとしておくのが慣例とも思えますが、「吉良の地侵攻」は、信長にしか考え付かない、今川義元への宣戦布告の侵攻となります。 吉良の地侵攻 場所 合戦図 場所は愛知県西尾市吉良町にあり、清州城から約60kmのところにあります。 信長の居城である清州城から、合戦場となる吉良の地まではおよそ60km。 その間には、すでに今川に落ちている「大高城・鳴海城・沓掛城」がありますが目の前を通るわけにはいきません。 そこで信長は、それぞれの城に、味方となる「砦」を築き「*中入り」の戦術で、吉良の地を攻撃します。 *中入りとは、目の前の敵と対峙したまま、別同部隊を迂回させ目的地へ向かう戦術をいう 隣国の大国を相手に、まさかとも思える信長の作戦。 なぜ、「寝た子(今川義元)を起こす」とも思える作戦を取ったのでしょうか…? 吉良の地侵攻 信長軍vs今川軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【今川軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【今川軍】 三河侵攻(今川への牽制か?) 偶発 主な参戦武将 【信長軍】 【今川軍】 織田信長 他 不明 吉良の地侵攻 経緯 勝敗 「中入り」の戦術で、三河の吉良の地を焼き払った信長。 今川義元は、この報せを知った時、「自分に歯向かうとは…」と、大激怒したと言います。 そして義元は、今川の大軍2万5000を率い、上洛途中にある尾張信長を討伐することを決意するのです。 討死武将 【信長軍】 【今川軍】 【不明】 【不明】 勝敗 【信長軍】 【今川軍】 吉良の地焼き払い
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【岩倉城攻略戦】岩倉織田家「信賢」降伏!信長、ついに尾張統一なる!

信長 尾張統一へ! 前年の1558年(永禄元年)7月に浮野の戦いで壊滅的打撃を負わせていた岩倉織田家「織田信賢」に対し、信長は年が明けた半年後の1月に、いよいよ掃討への仕上げとなる総攻撃を仕掛けます。 岩倉城をぐるりと包囲し、城下には火を放ち、籠城する「信賢」軍に対し、「火矢」「鉄炮」を連日のように浴びせ攻撃したのが「岩倉城攻略戦」です。 信長の念願であった「尾張統一」を目前とした戦いです。 岩倉城攻略戦 場所 合戦図 場所は愛知県岩倉市下本町城址122にあり、名古屋駅から電車で約15分位のところにあります。 現在は「岩倉城址」になっています。 半年前の7月「浮野の戦い」で岩倉織田家に壊滅的打撃を与えていた信長は、尾張統一へいよいよ総仕上げとなる最後の合戦を決意します。 1559年永禄2年正月「織田信賢」の居城である岩倉城下に火を放ち裸城にした上、四方を鹿垣(ししがき)で二重三重に囲み完全に包囲し、兵糧攻めに出ます。 2~3か月に及ぶ包囲の中、信賢は必死に持ち堪えていましたが、信長は連日のように絶えず鉄砲や火矢を撃ち続けた結果、信賢はついに降伏し開城することになります。 岩倉城攻略戦 信長軍vs信賢軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長清軍】 【織田信賢軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【織田信賢軍】 尾張統一へ向けた岩倉織田討伐 岩倉城防衛 主な参戦武将 【信長軍】 【織田信賢軍】 織田信長 他 織田信賢・山内盛豊・堀尾泰晴 他 岩倉城攻略戦 合戦 経緯 勝敗 当時の岩倉城は、高さ10m程の高台上に築かれた城で東西約105m、南北約170m程の堅固な平城でした。 信長は無駄な力攻めはせずに、城の周りを完全に包囲し、城への物資の供給を完全にストップさせる「兵糧攻め」に徹します。 信賢側も2~3ヵ月の間、必死に耐えますが、その間も信長の執拗な攻撃(火矢・鉄炮・石)は止まりません。 岩倉城内の兵糧もやがて底をつき、兵たちの士気も限界がきて、やむなく降伏となり開城となりました。 討死武将 【信長軍】 【織田信賢軍】 【不明】 ほぼゼロ 【不明】 餓死者・山内盛豊(山内一豊父) 他 勝敗 【信長軍】 【織田信賢軍】 【勝因】 兵糧攻め 【敗因】
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【浮野の戦い】信長、犬山城「織田信清」と結んで、岩倉城「織田信賢」に大勝利!

内輪の争いは止めて 尾張を統一せよ! 「品野城の戦い」で痛い敗戦を喫した信長ですが、方針を一転し「尾張統一」を目指します。 すでに、清州織田家の「織田信友」を滅ぼし弟の織田信行(信勝)も謀殺して以来、尾張下四郡を手中にしている信長ですが、残る尾張上四郡は岩倉織田家「織田信安」が支配していました。 この頃、尾張以東の今川(義元)の動きが活発となり、もはや駿河国・遠江国・三河国の3国を支配しており、次は尾張への侵攻も時間の問題となっています。 尾張上四郡を平定し「尾張統一」を急ぎたい信長にとって、岩倉家「織田信安」は何としても倒したい相手でした。 そこへ、岩倉織田当主「信安」が長男の「信賢」ではなく次男の「信家」に、家督を継がせようと騒動が起こります。 腹を立てた長男の「信賢」が、父の「信康」を追放するクーデターとなり、この内紛の隙に乗じた信長が、従兄弟の犬山城主「織田信清」と組んで、クーデターで勝利した「信賢」と争ったのが「浮野の戦い」(1558年永禄元年)です。 浮野の戦い 場所 合戦図 場所は愛知県一宮市千秋町浮野海道にあり、岩倉城(織田信賢)から北西に3km程行った場所が浮野の戦い合戦場です。 現在は「合戦場碑」が建立されています。 岩倉織田「織田信安」が次男に家督を継がせようと、これに反した長男の「信賢」は、父信安と次男の信家を追放します。 この内紛の隙に乗じた信長は、従兄弟の犬山城主「織田信清」と組んで、岩倉織田家を倒そうと画策します。 当時の「織田信清」は居城である犬山城(織田信清)が尾張上郡に位置するため、当時は岩倉「織田信安」に属していました。 通常であれば「信清」は岩倉方へ組するのが当然ですが、しかし「信清」は信長の姉(犬山殿)を娶っていたのです。 迷う「信清」に信長は、勝利の後には尾張上を任せるといった密約も交わされていたとされ、「信清」は主家(岩倉織田家)に背き信長に組することにしたのです。 そして1558年(永禄元年)7月20日、浮野の地で「浮野の戦い」は始まるのです。 浮野の戦い 信長・信清軍vs織田信賢軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長・信清軍】 【織田信賢軍】 「信長2000」 「信清1000」 信賢3000 戦闘目的 【信長・信清軍】 【織田信賢軍】 岩倉織田家討伐 上尾張防衛
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【稲生の戦い】信長vs信行!柴田勝家・林ら信長に背く!

実弟「信行」との家督争い! うつけ信長は不利に…? 戦国の世は、たとえ兄弟であっても家督争いでは「命」を取り合うもの! 信長も、兄弟争いに巻き込まれ、弟や兄を殺しています。 「稲生の戦い」(1556年弘治2年)は弟「信行(信勝)」との家督争いの中で起こった戦いです。 後の信長にとって重臣となる「柴田勝家」や「林秀貞」は、当時は信長よりも優秀で家臣からの人望も厚かった弟の信行(信勝)を、織田の当主に相応しいと企み、兄弟での争いとなったのが「稲生の戦い」です。 信長23歳、信行(信勝)21歳の時でした。 稲生の戦い 場所 合戦図 場所は名古屋市西区名塚1丁目庚申塚で、上記の図は「稲生原古戦場跡」です。 下記は各武将がいた居城の位置です。 清州城「信長」・名塚砦「佐久間盛重」・稲生原「合戦場」・下社城「柴田勝家」・末森城「織田信行(信勝)」 「林秀貞」と「柴田勝家」は信行(信勝)を織田当主にしようと画策します。 その不穏な動きに対し、信長は名塚に砦を築き「佐久間盛重」を配置し牽制します。 そして両者は、於多井川(庄内川)を渡った「稲生原」の地で激突します。 稲生の戦い 信長vs信行(信勝)軍 布陣 戦力比較 信長軍 信行軍 兵力差 【信長軍】 【信行軍】 700 劣勢 1700 優位 戦闘目的 【信長軍】 【信行軍】 離反鎮圧 信長抹殺 主な参戦武将 【信長軍】 【信行軍】 織田信長・佐久間盛重・丹羽長秀・佐久間信盛・前田利家・森可成・織田信房・佐々孫介 織田信行(信勝)・柴田勝家・林秀貞・林美作・角田新五 稲生の戦い 合戦 経緯 1551年、父の信秀が死に信長が家督を継ぐも、未だ終わりを統一出来ないでいる信長。 前年(1555年)の清州城攻めでは、敵対していた「織田信友」を切腹させ、尾張下四郡を統治下に収めていたものの、「大うつけ」呼ばわりされている信長の周りには、敵視する織田同族が大勢いました。 1556年(弘治2年)、信長の筆頭家老であった「林秀貞」とその弟の「林通具」、そして「柴田勝家」の3人が信行(信勝)を担ぎ、信長討伐を持ちかけます。
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【品野城の戦い】桶狭間前哨戦・信長初黒星!松平家次を攻めるも三河武士(家康)に完敗!

三河武士強し! 奇襲に後退! 「品野城」は尾張領内にありながら、信長父「信秀」の時代に、松平清康(家康祖父)が攻略した城です。 当時の松平家は、すでに今川義元の支配下にあり、信長としては、いつ今川が侵攻してきてもおかしくない状況でした。 そこで信長は、三河に続く今川攻略として1558年(永禄元年)3月、この品野城を攻略すべく、五輪の山に砦である「山崎城」を築き合戦となったのが「品野城の戦い」です。 品野城の戦い 場所 合戦図 場所は愛知県瀬戸市上品野町秋葉山の山頂辺りにあり、写真の鳥居は稲荷神社の入り口となっていますが、品野城はこの奥にあったとされています。 現在は東海環状自動車道が通っており立入禁止になっています。 品野城の戦い 信長は「品野城」を攻略するために、まずは傍の山中に砦となる「山城城」を築きます。 城主には「竹村長方」と兵1000を置き、品野城攻めへのチャンスをうかがいます。 品野城主は勇猛果敢で知られる三河の「松平家次」。 当時の松平元康(家康)の命で城の守りを固めます。 そして1558年(永禄元年)3月、信長は一気に品野城へ攻め込むのです。 品野城の戦い 織田信長vs松平家次軍 布陣 戦力比較 信長軍 信行軍 兵力差 【信長軍】 【松平家次軍】 1000 不明 戦闘目的 【信長軍】 【松平家次軍】 失地回復 城防衛 主な参戦武将 【信長軍】 【松平家次軍】 竹村長方 他 松平家次 他 品野城の戦い 合戦 経緯 勝敗 砦の山崎城から一気に攻め込んだ信長軍ですが、相手は屈強の三河武士「松平家次」もひるまず応戦します。 信長軍1000に対し、松平家次軍は籠城のため実際の兵数が分かりません。 頑強に抵抗する松平軍に対し、一旦兵を山崎城へ戻し体制を立て直しかけたその時、夜陰の豪雨に紛れて松平軍が「夜襲」を掛けてきました! 豪雨に紛れ突然の急襲をかけてきた松平軍に、信長軍は竹村長方をはじめとする50余名の戦死者を出し山崎城から敗走。 品野城攻略どころか、砦の山崎城まで奪われる痛い敗戦となりました。 討死武将 【信長軍】 【松平家次軍】 【約50名】 竹村長方 他 不明 ほぼ無し 勝敗 【信長軍】 【松平家次軍】 【敗因】 夜襲は無いと油断
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【大良河原の戦い】信長、救援失敗!斉藤道三(濃姫父)を救えず!

義父「斎藤道三」の救援も叶わず! 信長、返り討ちに…! 「大良河原の戦い」とは、美濃の「斉藤道三(濃姫父)」と嫡男の「斎藤義龍」の争い(長良川の戦い)後に、勝利した「斎藤義龍」が信長に兵を差し向け、大良河原(岐阜県羽島市)で起こった合戦を言います。 信長の正妻である濃姫の父「斎藤道三」の援軍に向かった信長ですが、大良の地で陣を置いたものの、敵の数の多さに衆寡敵せず(義龍軍1万7500/道三軍2700)の状態で手が出せません。 やがて道三と義龍の戦い(長良川の戦い)は、義父の道三が敗れ義龍の勝利に終わるものの、義龍は信長のいる大良にも兵を向けたのです。 そうして「大良河原の戦い」は始まったのです。 大良河原の戦い 戦況 濃姫の父である「斎藤道三」と嫡男「斎藤義龍」の争いは、道三が義龍の弟である「孫四郎」と「喜平次」を溺愛するあまり、道三と義龍の関係は不仲となり、義龍が謀略により2人の弟を殺したことから始まりました。 信長は道三とは同盟を結んでいるものの、父と争いになった義龍との戦いでは、信長は道三援軍に向かわなければなりません。 信長は兵を出すものの、義龍軍の数(1万7500)は圧倒的優位で、手も足も出せない状況です。 やがて、道三と義龍の決着が付き、これで終戦かと思いきや、勝利で士気の上がっている義龍軍は、父道三の首実検を終えたあと、援軍を出していた信長にも兵を差し向けてきたのです。 大良河原の戦い 場所 合戦図 大良河原の戦いのあった場所は、現在の岐阜県羽島市正木町大浦新田とされていますが、詳細の記述がないために正確ではありません。 ただ、陣を退く際に、大河を背にして味方の兵を先に逃げさせたと「信長公記」に記述がありますので大きな川の河原であった事は間違いないと考えられています。 現在はこんな感じ。大きな川ですので、当時はもっと大きく感じたのでしょうね…。 信長は道三の援軍に来てはいますが、敵対している岩倉織田家の「織田信安」が信長の居城清州城下を*放火したとの報を受けます。 (*当時の岩倉織田家岩倉城主「織田信安」は上尾張四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を収めており、下四郡(海東・海西・愛知・知多)を収めている信長とは敵対していました)
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【三河野寺原の戦い】吉良義昭信長に寝返る…⁉観泉寺所蔵文書に見られ「信長公記」には記述がない『謎』の戦い!

謎の合戦…? 「三河野寺原の戦い」とは、観泉寺所蔵文書に見られるものの、信長の歴史を辿る上で一級資料と言われる「信長公記」には記載がない謎の合戦と言われています。 唯一史料として記述されているのが「観泉寺所蔵文書」ですが、観泉寺は今川氏菩提寺ということから、今川家の記録として残されているものです。 このコーナーでは「信長公記」には見られない「三河野寺原の戦い」を紐解いてまいります…。 三河野寺原の戦い 経緯 合戦の前年(1555年)に叔父であり良き協力者であった織田信光が暗殺され、信長は尾張下四郡(知多・愛智・海東・海西)を支配しているとはいえ、周りには同族でありながら敵対しているものが多い状況です。しかも、東側(三河以東)は今川義元の脅威に迫られています。 この頃の三河は、松平家(家康)はすでに今川傘下に入っており三河は事実上今川領となっていました。 その時家康(当時12歳)は今川家の人質となっていました。 三河には守護「吉良義昭」がいたのですが、今川に従属している状態ですので今川の命には従わねばなりません。 吉良家は足利(幕府)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐと言われた名門の一族です。 いつかは名門吉良家の復活を期していましたが、そのチャンスがついに巡ってきます。 昨年(1555年10月)に今川家の軍師「太原雪斎」が死ぬと吉良義昭は尾張の織田信長に寝返ります。 そして翌年(1556年)3月に、義昭の手引きで信長が三河に攻め入るのです。 三河野寺原の戦い 場所 「三河野寺原の戦い」が行われた場所は、現在では古戦場址などの案内はありませんが、愛知県安城市野寺町野寺だと言われています。 現在はのどかな田園風景となっています。 信長に寝返った「義昭」ですが、今川の侵攻に合い居城である西条(西尾城)を奪われます。 そこへ義昭の手引きを得て信長は三河へ攻め入ります。 しかし、途中にある「鳴海城」は今川に奪われていましたので、信長は「*中入り」戦術で西条まで侵入し、「野寺原」の地で今川軍と合戦となります。 *「中入り」戦術:敵と対峙している隙に、別動隊を敵の懐へ潜り込ませる戦術。 三河野寺原の戦い 織田vs今川 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】
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