信長全合戦 【第一次長島一向一揆】信長、本願寺弾圧!総勢2万人を超える殺戮のはじまり!
「長島一向一揆」総勢2万人を超える殺戮のはじまり! 長島一向一揆(ながしまいっこういっき)とは、1570年ごろから1574年にかけての反信長蜂起(石山合戦)に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした本願寺門徒衆らが蜂起した一向一揆のことを言います。 織田信長との間で三度に渡る激しい合戦が起こりました。 三度目の合戦では、2万人を越える本願寺門徒衆の死者を出し、信長戦史でも死者数が多い合戦のひとつとなっています。 その最初の戦いとなった合戦は、信長は思わぬ苦戦を強いられてしまいます。 さて、どのような経過となったのか…「第一次長島一向一揆」を紐解いてまいりましょう。 第一次長島一向一揆 1570年(元亀元年)9月に、石山本願寺「顕如」の反信長蜂起(檄文)に伴い、長島でも門徒衆が一斉に蜂起します。 その年11月、本願寺より派遣された「下間頼旦」に率いられた数万に及ぶ一向一揆勢は、まず最初(16日)に「長島城」を攻め落とし城を奪うと、尾張小木江城「織田信興(おだのぶおき・信長弟)」を攻め込みます。 小木江城に隣接していた「桑名城」の滝川一益(たきがわかずます)も、一旦は応戦するも圧倒的兵数の一揆勢に敗走します。 この時信長は「志賀の陣」の最中で救援に向かうことができず、信興は一揆勢の猛攻に合い自害(21日)に追い込まれてしまいます。 実の弟を討ち取られた信長はこれに怒り、翌年(1571年)5月12日、5万を超える兵で長島一向一揆討伐に向かいます。 これにより「第一次長嶋一向一揆」が勃発することになるのです。 第一次長島一向一揆 場所 長島(現三重県桑名市)の場所とは、当時で言う尾張と伊勢の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指します。 木曽川河口の、いくつにも枝分かれした地域で、信長公記では「尾州河内長島」とあり尾張国河内郡と認識されていました。 第一次長嶋一向一揆 織田軍vs一向一揆勢 布陣 戦力比較 1571年(元亀2年)5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入ります。