admin

信長全合戦

【観音寺城の戦い】足利義昭上洛に添い「織田・徳川・浅井」連合軍で「六角承禎」軍を殲滅せよ!

天下布武! 武を以て、天下を制す! 1568年(永禄11年)9月12日に、「観音寺城」と中山道を挟む小山の「箕作城」を攻略した信長軍は、その日(夜)はそのまま箕作城で野営し、軍はひとときの休息を取り、明日に迎える決戦の時を待っていました。 敵対する「六角承禎(ろっかくしょうてい)」とは、目前の「観音寺城」と対峙する格好となっています。 六角承禎は近江国の守護大で、観音寺城を居城としており、付近には18の支城を構えており南近江をほぼ制圧しています。 特に近江以東から京へ続く近江路「中山道」を牛耳っており、信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角承禎が敵対した為に、信長は力ずくでもこの中山道を通らねばなりませんでした。 この時、信長と六角承禎の間で起こった戦いが「観音寺城の戦い」で、昨夜陥落した「箕作城」の戦いと同じ一連の合戦の事を言います。 実はこの戦い、信長が美濃を治め「天下布武」を掲げた最初の戦いともいわれ、その後信長が足利義昭を奉じ上洛し、京都・畿内を平定し事実上の天下人として名乗りを上げる戦でもありました。 観音寺城の戦い 場所 地図 アクセス 現在の滋賀県近江八幡市安土にある山城です。(現在は国の史跡に指定されています) 観音寺城の戦い 織田信長vs六角承禎 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月13日、前夜に観音寺城の目の前にある「箕作城」を多大な損害を出しながらも陥落させることに成功しました。 箕作城を陥落させたのが夜(夜襲)でしたので、信長軍はそのまま箕作城で野営し、六角承禎の「観音寺城攻め」は夜が明けた次の日ということになります。 合戦図 信長は上洛のためには、上洛路である南近江(中山道)を通らねばならず、敵対する「六角氏」を討伐する必要がありました。 当時の「六角氏」は「観音寺城」を主城として、中山道を挟み18もの支城で囲み、南近江一帯を制圧する有力豪族でもありました。 そこへ信長が足利義昭を奉じ上洛しようとしたところを、そうはさせまいと敵対したのが「六角承禎」だったのです。 信長は、「徳川家康」と北近江の「浅井長政」の協力を得て、援軍を加えた5万を超える軍勢で「六角承禎」の討伐に乗り出します。
信長全合戦

【箕作城の戦い】信長、足利義昭を奉じた上洛に暗雲が…!合戦最多の戦死者!六角承禎立ち塞がる!

1500名を超える討死者! 六角承禎強し! 難攻不落の要害「稲葉山城」を落とし美濃を統一させ、北伊勢の有力豪族であった神戸氏・永野氏とも臣従することに成功した信長。 その年(1568年永禄11年)9月、信長は「足利義昭」を奉じ上洛します。 上洛には近江路を通る必要があり、近江には依然として信長に敵対するものがいました。 北近江は信長の妹である「お市」が「浅井長政」に嫁いでいたこともあり同盟関係であったものの、南近江は現将軍(足利義栄)を擁する立場にあり信長とは敵対している「六角承禎義賢(ろっかくしょうていよしかた)・義治(よしはる)」父子が、行く手を遮っていました。 信長は、事前に「六角承禎」に足利義昭の使者を通じ、京都守護職と領地の安堵を与えることを条件に、上洛の安全と協力を願い出ていました。 交渉も最初から低姿勢であり、しかも領地の安堵や京都守護職を与えるなどの好条件にもかかわらず、「六角承禎」はこれを拒否。 信長は力攻めで上洛することを決め、「徳川家康」「浅井長政」の援軍を率いて近江国に侵攻するのでした。 この時、上洛路の途中(南近江)にある「箕作城(みつくりじょう)」で六角承禎と戦となったのが「箕作城戦い」です。 信長の合戦の中で、最多の戦死者を出した戦いと言われています。 箕作城の戦い 場所 地図 現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山頂。(現在は廃城) 六角氏の主城となっていました。 手前が箕作山(箕作城)、正面が繖山(観音寺城)。 山間が信長と足利義昭が通った上洛路(南近江路中山道)です。 箕作城の戦い 織田信長vs六角軍 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月7日信長は、足利義昭を奉じて岐阜城を出発、上洛の途につきます。 途中「徳川家康」「浅井長政」の援軍を得て5~6万の軍勢に膨れ上がっていました。 対する六角方は、居城の箕作城と観音寺城を中心に18の支城に籠って抗戦します。 箕作城の戦い 合戦図 信長は、「徳川家康」と「浅井長政」の援軍を率い「佐和山城」から進軍を開始します。 行く道程には、六角方の支城が待ち構えます。 しかし、信長軍はその支城には一切目も触れず、9月12日に観音寺城(繖山)と中山道をはさんで対をなす「箕作城」に進軍します。 そして戦いは午後4時に始まるのです。 兵力差
信長全合戦

【北伊勢侵攻戦②】二度目の伊勢侵攻戦!織田信孝と織田信包を入れ伊勢を平定せよ!

1567年(永禄10年)9月についに美濃統一を果たした信長。 難攻不落の稲葉山城を攻め、斎藤龍興は伊勢長島へ落ち延びました。 そして翌年1568年(永禄11年)2月、昨年の8月に落とせなかった北伊勢の「高岡城」を再び侵攻します。 その後、「神戸城」・「長野城」・「安濃城」・「大河内城」を立て続けに攻め、2度目の伊勢平定の戦を「北伊勢侵攻戦②」と呼んでいます。 北伊勢侵攻戦② 場所 地図 北伊勢侵攻戦②が行われた場所は、信長が昨年落とせなかった「高岡城」から開始され、「神戸城」、「長野城」、「安濃城」、「大河内城」の近隣の城々へと進軍することになります。 「高岡城」は現在の三重県鈴鹿市高岡町字茶山「高岡城址公園」にあります。(廃城) 「神戸城」三重県鈴鹿市神戸本多町。(石垣存) 「長野城」三重県津市美里町桂畑。(廃城、石碑のみ) 「大河内城」三重県松阪市大河内町城山。(廃城) 北伊勢侵攻戦② 織田信長vs伊勢国人衆 布陣 戦力比較 昨年の1567年(永禄10年)8月信長は、北伊勢に侵攻し、桑名・朝明・員弁と制圧したものの三重(鈴鹿)の「高岡城」だけは、名将と言われる「山路弾正」の守りを破ることができず撤退していました。 丁度このころ、信長は「稲葉山城」も同時に侵攻しており、兵も2分割していたこともあり深追いはしませんでした。 9月には「稲葉山城」も陥落させ美濃を統一した信長は、半年後の2月に再び伊勢侵攻を再開するのでした。 その前哨戦となったのが、昨年撤退していた「高岡城」が最初のターゲットとなったわけです。 合戦図 「高岡城」を守るのは名将の「山路弾正(やまじだんじょう)」。 昨年は、その固い守りを破れずに撤退していましたが、今回は4万の大軍勢を率いて臨んだ信長。 北伊勢平定への執念が伺われます。 兵力差 【織田信長軍】 【伊勢国人衆】 40000 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【伊勢国人衆】 伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【伊勢国人衆】 織田信長・滝川一益 他 神戸具盛・山路弾正・長野具藤・細野藤敦 他 北伊勢侵攻戦② 合戦の行方 4万の大軍勢を率い、再び北伊勢に侵攻した信長。 最初の合戦は、昨年敗れた山路弾正が守る「高岡城」です。
信長全合戦

【稲葉山城の戦い】斎藤龍興vs織田信長 稲葉山城ついに陥落!信長、天下統一へ!

難攻不落「稲葉山城」 斎藤道三嫡男「龍興」vs「織田信長」 1560年(永禄3年)に桶狭間で「今川義元」を討ち取って依頼、その後美濃制圧に力を注いできた信長ですが、1567年(永禄10年)8月に、ついに「稲葉山城」を包囲します。 攻めては負けを繰り返し、何度も煮え湯を飲まされた要害です。 正妻である帰蝶の父であり舅である「斉藤道三」が築城した難攻不落の名城ですが、その道三も嫡男の斉藤義龍に討たれ、その義龍も病死し、今は道三の孫である「斎藤龍興」が城主となっています。 今川義元を討ち取ってから足掛け7年の歳月をかけた、美濃侵攻の最終決戦となった戦い。 信長が天下統一に名乗りを上げた「稲葉山城の戦い」を紐解いてまいりましょう。 稲葉山城の戦い 場所 地図 アクセス 稲葉山城(現在は岐阜城)は岐阜県岐阜市天主閣18にあります。 岐阜長良川沿い金華山の山頂にある山城です。 稲葉山城の戦い 織田信長vs斉藤龍興 布陣 戦力比較 1567年(永禄10年)8月1日、西美濃三人衆と呼ばれた「安藤守就(あんどうもりなり)」「稲葉一鉄(いなばいってつ)」「氏家卜全(うじいえぼくぜん)」が、木下藤吉郎(後の秀吉)の調略もあり、3人揃って信長に帰順の意を表してきました。 東美濃にある宇留摩(鵜沼)城・猿啄城・堂洞城のそれぞれの合戦で勝利し、美濃国の東半分はすでに制圧していたものの、西美濃の有力豪族である西美濃三人衆には手を焼かされていた信長は、これで美濃の本丸である稲葉山城攻略への道が開けます。 稲葉山城の戦い 合戦図 通常、恭順の意を示した場合、人質を出すのが慣例で三人衆も通例に従い信長に人質を差し出します。 それに対し信長は、「村井貞勝」「島田秀満」を受け取りに向かわせます。 本来であれば、人質受け取った(確認した)後で「事」を起こすものですが、信長は人質が到着する前に、すぐ兵を収集し稲葉山と尾根続きの瑞龍寺山に一気に攻め上がります。 兵力差 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 稲葉山城攻略 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 織田信長・木下藤吉郎・柴田勝家・佐久間信盛・安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全 他 斎藤龍興・日根野弘就・長井道利 他
信長全合戦

【高岡城攻め】信長窮地!背後が危ない!「山路弾正」の策略に辛酸をなめる!

背後に、敵襲あり! 山路弾正の策略に、信長後退! つい数日前に、近隣の「楠城」を制圧した信長は、間髪入れずに神戸具盛(かんべとももり)の重臣である「山路弾正(やまじだんじょう)」の守る「高岡城」を攻めています。 「楠城」からわずか1キロ程西に位置する「高岡城」は、楠城勝利の勢いのまま攻撃したと言えそうですが、「山路弾正」の高岡城は、そうやすやすとは崩れません。 稲葉山城攻撃と同じ時期に、繰り広げられた信長方「滝川一益」vs伊勢国人衆神戸具盛方「山路弾正」の合戦「高岡城攻め」を紐解いてまいりましょう。(勢衆軍記) 高岡城攻め 場所 地図 高岡城は現在の三重県鈴鹿市高岡町字茶山の高岡城跡公園にあります。 鈴鹿川沿いの小高い山頂にあります。現在は高岡城址公園となっています。 高岡城攻め 織田軍v山路弾正 布陣 戦力比較 合戦図 1567年(永禄10年)8月、楠城を攻め落とした信長は、そのまま「高岡城」に進軍します。 楠城からは西側へおよそ1キロほどの場所に位置する「高岡城」攻略は、楠城を落とした信長にとってはもはや当然の進軍でした。 守備する高岡城の「山路弾正(やまじだんじょう)」は、名将と呼ばれ大軍で押してくる織田軍に抵抗の構えを見せます。 兵力差 【織田軍】 【山路弾正軍】 2~3万 不明 戦闘目的 【信長軍】 【山路弾正軍】 伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【山路弾正軍】 滝川一益 他 山路弾正 他 高岡城攻め 合戦の行方 楠城を落とした勢いのまま、信長軍は「山路弾正」の守る「高岡城」一気に攻め込みます。 しかし「山路弾正」の頑強な抵抗にあい、信長2万もの軍勢でもなかなか城を落とすことが出来ません。 攻防は10日も続きますが決着がつかず、信長方の「滝川一益」を派遣して降伏(和議)を促します。 しかし、「山路弾正」はそれを断り、徹底抗戦の構えを見せます。 信長、背後が危ない! 山路弾正の策略勃発! 合戦当時信長は、稲葉山城も包囲し美濃制圧の最終段階でもありました。 つまり、信長はこの時期、2箇所で合戦をしていたのです。 それを知っていた「山路弾正」は、窮地に押されながらも起死回生の策略を放ちます。
信長全合戦

【楠城攻め】稲葉山城とともに「楠城」も攻めよ!伊勢侵攻戦!

数で圧倒! このまま一気に押しつぶせ! 半年ほど前(1567年2月)に、滝川一益に命じ北伊勢を侵攻し、桑名・員弁・朝明を制圧した信長。 南美濃の国境であった北伊勢の脅威も無くなり、いよいよ美濃制圧も大詰めを迎えていました。 その年8月信長は、全軍を率い稲葉山城を包囲するとともに、ほぼ同時期に伊勢の「楠城」に侵攻しています。 美濃同様、伊勢をも完全に制圧を目論んでいる信長の奇襲ともいえる合戦といえます。 この合戦も信長の史実として良質の「信長公記」には記述がありませんが、「勢州軍記」にありますので取り上げてみました。(勢州軍記*) 楠城攻め 場所 地図 楠城は現在の三重県四日市市楠町本郷にある「楠村神社」の東側辺りに築かれていました。 辺りは高い建物などはなく、石碑と案内板が建てられ小公園となっています。 楠城攻め 織田軍v楠貞孝 布陣 戦力比較 合戦図 1567年(永禄10年)8月、すでに北伊勢を落としている滝川一益は「桑名城」を拠点に、信長が稲葉山城を攻めるとほぼ同時期に「楠城」を攻めます。(勢州軍記) 守備する楠城の「楠貞孝(くすのきさだたか)」は、北伊勢の豪族たちを束にして攻めてくる織田軍に抵抗の構えを見せます。 兵力差 【織田軍】 【楠貞孝軍】 2~3万 不明 戦闘目的 【信長軍】 【楠貞孝軍】 伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【楠貞孝軍】 滝川一益 他 楠貞孝 他 楠城攻め 合戦の行方 滝川一益は、桑名城を拠点に、周辺の神社や諸城、田畑を焼き払い「楠城」に進行していきます。 守る楠城「楠貞孝」も、一時抵抗を見せるものの、数で圧倒する信長軍の猛攻に押され、やむなく降伏し開城します。(勢州軍記) しかし、現地の案内版では城主は「楠正具(くすのきまさとも)」とされており、信長には降伏せずに「治田城(はるたじょう)」(三重県いなべ市北勢町奥村)に籠って抗戦し、転戦を繰り返し「石山合戦*」で戦死したとされています。(*石山合戦:1570年元亀元年から1580年天正8年にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い) また、「紹巴富士見道記(じょうはふじみみちのき)」では、楠城を攻める直前に、一向一揆の国とされる長島付近に放火し一揆衆を刺激しています。
信長全合戦

【北伊勢侵攻戦】滝川一益、北伊勢に侵攻し美濃を完全包囲せよ!(勢州軍記)

北伊勢制圧で、美濃を包囲せよ! 昨年(1566年閏8月)の、「河野島の戦い」で木曽川洪水の為、美濃斉藤軍に手痛い敗戦を喫した信長ですが、翌年1567年2月に家臣の滝川一益に美濃と国境を接する北伊勢侵攻を命じます。 当時の北伊勢は、南美濃と国境を接しており、北勢四十八家と呼ばれる地豪族が割拠していました。 なかでも長島には、手ごわい一向一揆が存在しており本願寺の強い影響力の元、一向一揆国を形成していました。 そうした地豪族や一向一揆がいつ信長に反旗を翻すとも限らず、お互い手を結ばれ反信長軍を形成されては、美濃攻略にも支障が生じるため、信長は美濃攻略を進める上ですぐにも北伊勢を制圧する必要がありました。 その際に、家臣の滝川一益に命じ、北伊勢地区を侵攻した合戦が「北伊勢侵攻戦」と言われています。 「信長公記」にはない合戦ですが、美濃攻略に重要な意味を持つ合戦ですのでご紹介してまいります。(勢州軍記*) 北伊勢侵攻戦 場所 地図 1567年2月、最初に滝川一益が着手した北伊勢の場所が、今の現在の三重県桑名市・いなべ市・四日市市と言われています。(名古屋市内からおよそ20km程、電車で20~30分位) 写真の河口三角州の場所が「長島」(一向一揆)で、滝川一益は、この場所は迂回したと言われています。(写真右が名古屋) 北伊勢侵攻 織田軍v伊勢国人衆 布陣 戦力比較 1567年(永禄10年)2月、美濃攻略に、北伊勢の重要性を知った信長は、家臣の「滝川一益」に命じ北伊勢の侵攻を開始します。 当時の北伊勢には「北勢四十八家」と言われる豪族が割拠していました。(長島には一向一揆) 合戦図 信長は当時蟹江城にいた「滝川一益」に北伊勢侵攻の大将に命じ、4000の兵を預け従軍の中には「明智光秀」も加えている。 また、長島には一向一揆がいるため、一切手出しはせずに迂回して北伊勢を侵攻するようにと命じた。 兵力差 【織田軍】 【北伊勢国人衆】 4000 不明 戦闘目的 【信長軍】 【北伊勢国人衆】 北伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【北伊勢国人衆】 滝川一益・明智光秀 他 上木氏・木股氏・持福氏 他 北伊勢侵攻 合戦の行方
信長全合戦

【河野島の戦い】信長公記に無い幻の合戦!木曽川の増水により信長苦戦!美濃攻略に暗雲が…。

信長不覚! 美濃攻略に暗雲が…。 昨年(1565年9月)の、「堂洞合戦」により、「中農三城盟約」を打ち崩し、堂洞城・加治田城・関城を開城させ中濃地域を制した信長ですが、翌年(1566年永禄69年)の4月には加賀見野(今の各務原市)へ侵攻するも、斎藤龍興との間で決着はつかず、ひとまず撤退しています。 タイトルにもあるように、「河野島の戦い」というのは、信長史を語る上でもっとも信頼性の高い史料「信長公記」には記載がなく、合戦としての資料は斉藤方に残る連判状しか存在していません。 この書状というのが、美濃三人衆である「安藤守就(あんどうもりなり)」・「稲葉一鉄(いなばいってつ)」「氏家卜全(うじいえぼくぜん)」と「日根野弘就(ひねのひろなり」「竹腰尚光(たけこしなおみつ)」の連版した書状の中の一つで、甲斐国「快川紹喜」に宛てた書状に記載されています。(中島文書) 書状の内容は、「足利義昭公上洛の際に信長が付き添い、斉藤方は美濃を安全に通れるようにしたものの、信長がまったく動こうとしない旨、信長は天下の笑いものになっている。・・・」と続き、内容はさら後半へと続いています。 その後半部分の文章に、「河野島の戦い」に関する文章が残っているのです。以下後半の部分を記します。 この連版状の後半部分に書かれた文章が「河野島の戦い」が実際に行われたという唯一の文章です。 今では、河野島という地名が無く、場所もはっきりとしませんが、大まかでは現在の岐阜県各務原市と言われています。 美濃との国境であった「河野島」とはいったいどの辺りをいうのでしょうか。 河野島の戦い 場所 地図 資料が乏しく確定はできませんが、「木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった」という文章からして、場所は現在の岐阜県各務原市木曽川辺りと言われています。 木曽川は以前より増水が起こりやすく治水に困難な地形だったようです。 河野島の戦い 織田軍v斉藤軍 布陣 戦力比較 1566年(永禄9年)閏8月8日(9月21日)に洪水となった木曽川の増水が治まり、信長は撤退を始めますが、それを気に斉藤方が川際で迎え討ちします。 合戦図 兵力差 【織田軍】 【斉藤軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【斉藤軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将
信長全合戦

【堂洞合戦】関城・加治田城・堂洞城の「中農三城盟約」を打ち崩せ!信長の壮絶なる戦い!

岸信周・岸信房 討死! 堂洞合戦! つい1か月ほど前に、「犬山城」の織田信清を降伏させ、中美濃の「宇留摩(鵜沼)城」「猿啄城」「美濃金山(兼山)城」の3城を攻略し、美濃侵攻に光明が差してきた信長ですが、各城で逃れた兵たちは猿啄城から数キロ北に位置する「堂洞城」に逃れていました。 「堂洞城」は当時、岸信周・勘解由左衛門(きしのぶちか・かげゆさえもん)が城守となっており、すぐ側には「加治田城」(佐藤忠能・さとうただよし)、「関城」(長井道利)の3つの城で「中農三城盟約*」が結ばれていました。 *「中農三城盟約」:美濃斉藤軍の反信長勢力 先の合戦の勝利から兵の士気も高い信長軍、勝利の勢いのまま「堂洞城」を包囲するも、さすがに「中農三城盟約」一角に、うかつに手を出すわけにもいきません。 いつ援軍が来てもおかしくない状況です。 そこで信長は、まず近習の「金森長近」を使者として遣わし、それぞれ3城主に投降を促します。 しかし3城とも投降には応じず敵対したものの、加治田城の「佐藤忠能」だけは織田方の「丹羽長秀」と内応し投降に応じます。 加治田城の「佐藤忠能」が織田方に寝返った報せを聞いた斉藤龍興は、「長井道利」を出陣させ堂洞付近で信長軍と合戦となります。 織田信長と投降に応じた加治田城「佐藤忠能」と、斉藤方「長井道利」と堂洞城「岸信周・岸信房父子」の戦いを「堂洞合戦」と言います。 この戦いは、敵ながら奮戦した「岸信周・岸信房父子」の壮絶な討死で終わりを迎えることになるのです。 堂洞合戦 場所 地図 堂洞城の場所は現在の岐阜県加茂郡富加町夕田にあります。 加治田城(佐藤忠能)とは目と鼻の先(1km程)の位置です。 現在は本丸・長尾丸・二の丸後の塀、土塁が残っており、本丸跡には「南無阿弥陀佛」の石碑が建立されています。 「堂洞城由来」の看板には信長が侵攻してきた旨記載されています。 堂洞合戦 織田軍v斉藤軍 布陣 戦力比較 1565年(永禄8年)9月28日、中農三城盟約の内、「加治田城」佐藤忠能の投稿に成功した信長は、残る2城のひとつ「堂洞城」(岸信周・信房父子)の四方を包囲します。 合戦図 織田軍は、「堂洞城」をぐるりと包囲し、西と南に「丹羽長秀」「河尻秀隆」「森可成」を配置し、北に「佐藤忠能」を配備します。
信長全合戦

【猿啄城攻め】丹羽長秀隊先鋒「河尻秀隆」ここにあり!

信長の美濃攻略戦! 猿啄(さるばみ)城と鵜沼(うぬま)城を落とせ! 1565年(永禄8年)8月、信長は中農攻略のため、犬山城のそばにある「宇留摩(鵜沼)城」攻略を開始したと同時に、「猿啄城」(さるばみじょう)にも着手しています。 宇留摩(鵜沼)城を、織田家で頭角を出し始めた「木下藤吉郎」に、この猿啄城には重臣の「丹羽長秀」に任せます。 この2城(中美濃)を攻略し奪取することで、「稲葉山城」と東美濃の勢力を分断することが、信長の最大の狙いでした。 その2城の内の1つである「猿啄城」での戦を「猿啄城攻め」と言われています。 猿啄城攻め 場所 地図 場所は現在の岐阜県加茂郡坂祝町勝山で木曽川沿いの勝山にあります。 この付近の木曽川は急流であり周辺は谷深い山となっています。当時は飛騨国、東美濃から尾張国への重要な地点でもありました。 現在は展望台が設置されています。宇留摩(鵜沼)城からは北東に3km程の場所。 猿啄城攻め 織田信長vs多治見修理 布陣 戦力比較 信長の中農攻略2城の内の1つである「猿啄城」攻めを任せられた丹羽長秀。 難攻不落と言われ堅城ではあるものの、飛騨国、東美濃から尾張国への重要な地点でもあり、信長の中農攻略地点としては是が非でも攻め落としたい城です。 合戦図 木下藤吉郎の「宇留摩(鵜沼)城」攻めと同時に、信長から猿啄城攻めを任された丹羽長秀ですが、堅固な要塞城とされる「猿啄城」に対し策を練ります。 対する猿啄城主「多治見修理」は、堅城の守りをさらに固くし侵攻を容易にさせません。 こうなっては、単に力攻めでは被害甚大も避けられないと考えた長秀は、猿啄城の尾根続きであり猿啄城より高い場所にある「大ぼて山」に上り、猿啄城の給水源を絶つ事を考えます。 丹羽長秀は、大ぼて山にある猿啄城の給水源を完全に断ち切ったところで、隊の精鋭である「河尻鎮吉(秀隆)」が先鋒に名乗りを挙げます。 「河尻鎮吉(秀孝)」にとってこの戦いは、斉藤道三に追われ「大桑の戦い」で父重親が討死した、斉藤方へ対する弔い合戦でもあったのです。 先鋒に命じられた「河尻鎮吉(秀孝)」は、一気果敢に猿啄城に攻め込みます。 兵力差 【織田信長軍】 【多治見修理軍】 不明 約600 戦闘目的 【織田信長軍】 【多治見修理軍】 中農侵攻 猿啄城攻略
タイトルとURLをコピーしました