斉藤義龍、病死!
好機到来!
1561年5月上旬に西三河賀茂地域を制圧した信長ですが、その1週間後の5月11日に、最大の敵であった美濃の斉藤義龍が35歳の若さで病死します。
信長はそれを絶好の好機として、即座(13日)に兵を出し木曽川・長良川を越え西美濃への侵攻を開始します。
対する斉藤方は、後継に嫡男の「龍興」(当時14歳)を据え、長井甲斐守(ながいかいのかみ)・日比野下野守清実(ひびのしもつけのかみきよざね)が、墨俣砦から出陣して「森部」の地で激突しました。
この合戦が「森部の戦い」といわれています。
昨年の2月と6月に2度にわたる「西美濃侵攻」を繰り返した信長でしたが、斉藤義龍の前に辛酸を舐めていました。
その義龍の死に、「次こそは…」と士気の上がる織田軍ですが、戦いの行方はどうなるのでしょうか…。
森部の戦い 場所 地図
場所は現在の岐阜県安八郡安八町森部薬師堂(長良川畔)にあり、信長の清州城から北西に約20kmの場所にあります。
名古屋からもほど近く、「墨俣砦」からは約3km程度。稲葉山城(岐阜城)からは10km強。
森部の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較
合戦図
「斉藤義龍」病死の知らせを聞くと、信長はすぐさま兵を集結し、木曽・長良川を越え勝村(海津市平田町)に布陣します。
対する斉藤方は墨俣砦より、長井・日比野が出撃し5月14日、両軍が森部の地で相対します。
「織田軍」1500に対し「斎藤軍」は6000余り。
数で劣る信長に勝算は…!?
兵力差
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
1500 | 6000 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
美濃侵攻 | 侵攻阻止 |
主な参戦武将
【織田・徳川軍】 | 【斉藤軍】 | ||
織田信長・前田利家・服部平左衛門・河村久五郎 他 | 長井甲斐守・日比野下野守・足立六兵衛・日根野盛就・神戸将監 他 |
森部の戦い 開戦 ゆくえ
合戦当日の5月14日は雨、信長は「これぞ天の与えた好機」と言い、少数精鋭の織田隊(1500)が斉藤軍(6000)へと突っ込んでいきます。
斉藤方は鶴翼の陣(鳥が両手を広げる)で応戦し、信長も隊を3つに分け、両軍が「槍」を打ち合っての合戦。
数時間が経過した後、斉藤方「長井甲斐守」「日比野下野守(清実)」「神戸将監」他170名余りが討ち取られ敗走。
織田(信長)軍の(美濃戦)初勝利となりました。
討死武将
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
不明 | 【170名余】
長井甲斐守・日比野下野守・足立六兵衛・神戸将監 他 |
森部の戦い 結果
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
【勝因】 義龍死による機を見た出陣 |
【敗因】 義龍死による兵の士気低下 |
森部の戦い 前田利家の出世合戦となった…
加賀100万石の礎を作った「前田犬千代(利家)」ですが、この戦いは利家にとって重要な合戦となりました。
以前から信長に出仕していたものの、合戦の2年前に信長の同朋衆の「拾阿弥(異母弟)」と喧嘩になり斬ってしまいます。これが信長の逆鱗に触れて現在は出仕停止の身分です。
名誉挽回とばかり、翌年の「桶狭間の戦い」では、無断で出陣し首級3つを差し出すものの、無断で出陣した旨を咎められ許されません。
これでも諦めないのが犬千代(利家)のすごいところ。続くこの戦い(森部の戦い)でも無断で出陣したのです。
そしてついに、「首取り足立」という敵の豪傑(足立六兵衛)を討ち取り、信長に首級を差し出したところ、「この猛将を討ち取るは城一国の価値あり」として帰参を赦されます。
現在の森部古戦場は、利家が出世した場所として「出世の松」が植樹され市民の憩いの場となっています。
森部の戦い まとめ
1561年5月14日、宿敵「斉藤義龍」の病死からわずか3日後、信長は絶好のチャンスとばかり急遽兵を上げ西美濃へ侵攻しました。
当時の兵は、足軽や農民などは兼用兵であり、すぐさま戦の準備は出来ないものでした。
それがわずか3日(義龍の死を知ってからはもっと少ない1~2日程度)で出陣したのですから、いかに信長が用意周到であったかを思い知らされます。
美濃は妻濃姫の郷里であり、舅道三を殺した最大の敵(斎藤義龍)をどうしても獲らねばならない領地でした。
このわずかなチャンス(義龍の死)を生かした信長ですが、この戦が足掛かりとなりいよいよ美濃攻略が本格化していくのです。
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