美濃攻略の拠点を作れ!
十四・軽海の戦い!
1561年5月14日「森部の戦い」で勝利した信長は、「墨俣砦」を改修しさらに「十九条」(墨俣砦より北西へ約2km)にも砦を築き、美濃攻略の拠点に置きます。
十九条砦には、犬山城主の織田信清の弟「信益」を置き守りを固めます。
すると23日に、砦を築かれたことを察した斉藤龍興は稲葉山城から出撃し「十四条」に布陣。
両軍対峙した後、合戦となり続けざま、軽海地区まで及んだ合戦が「十四条・軽海の戦い」です。
十四条・軽海の戦い 場所 地図
十四条の戦いの場所は現在の岐阜県本巣市十四条にあり、墨俣城からは北西に7~8kmの場所にあります。(十九条砦から北に約2km、清州城から北西に約30km弱)
現在は戦いの跡地を示す石碑などなく、田畑の広がる平野となっています。
現在の墨俣城は秀吉で有名になった「墨俣一夜城」があります。
合戦当時は、まだ秀吉の存在も薄く、平城砦でした。
十四条・軽海の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較
合戦図
墨俣と十九条に信長に美濃攻略の拠点を作られ、それを知った「斉藤龍興」軍。
怒り心頭の龍興はすぐに稲葉山城から出陣し、信長も墨俣と十九条から出陣し、両軍は十四条の地で対峙します。
先の数日前に、森部の戦いで敗れた「龍興」ですが、さすがに連敗してしまうと美濃の存亡にも影響しかねません。
斉藤軍の猛攻はすざましく、信長自身出陣して戦うものの、十九条砦を任せた「織田信益」が討ち取られます。
ジリジリと押される信長軍、血気盛んに兵の士気が上がる斉藤軍。
信長は一旦後退しながらも、再び両軍は軽海の地で対峙します。
兵力差
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
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1000 | 不明 | ![]() |
戦闘目的
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
![]() |
美濃侵攻 | 侵攻阻止 | ![]() |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
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織田信長・織田信益・池田恒興・佐々成政 他 | 真木村牛介・稲葉又右衛門・稲葉一鉄 他 | ![]() |
十四条・軽海の戦い 合戦 ゆくえ
十四条では信益を討ち取られた信長ですが、軽海では足軽合戦となり午後から始まった戦いが夜になっても続いています。
両軍負けられないこの戦いですが、ついに斉藤方の重臣であった「真木村牛介」を負い崩し、稲葉一鉄の叔父である「稲葉又右衛門」を織田軍の池田恒興と佐々成政の2人がかりで討ち取り、斉藤兵は夜陰に紛れて撤退し、信長も墨俣へ兵を引き上げました。
討死武将
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
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織田信益 他 | 真木村牛介・稲葉又右衛門 他 | ![]() |
十四条・軽海の戦い 結果
1561年(永禄4年)5月23日に起こった合戦ですが、序盤(十四条合戦)は斉藤軍に押され「織田信益」が討ち取られたものの、後の軽海では重臣「真木村牛介」と「稲葉又右衛門」を討ち取る戦果を挙げています。
その後両軍とも兵を引き上げていますので、お互い痛み分けで「引分け」といった所ですが、戦後信長は美濃安八軍平野荘に禁制を掲げており同地域は獲得しているため、信長の判定勝ちとしました。
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
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【勝因】 安八郡は獲得のため判定勝ち |
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【敗因】 重臣を討ち取られた |
十四条・軽海の戦い まとめ
1561年5月23日、5月に入り続けざまの美濃侵攻をした信長。
森部の戦いに続く、十四条・軽海の戦いでも勝利することが出来ました。
これで美濃侵攻も容易になると思いきや、身内の謀反や反乱に合い、しかも稲葉山にはあの有名な軍略家「竹中半兵衛」もいたのです。
なかなか思うに任せない美濃侵攻。
この先信長は、苦戦に続く苦戦を強いられることになるのです。
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