越前「朝倉家」滅亡!
1573年(天正元年)8月14日に、3000人以上の討死者を出した「刀根坂の戦い」から勝利した信長は、4日後の18日、刀根坂から撤退していた「朝倉義景」を追い、一乗谷の龍門寺に陣を置き、ついに義景を追い詰めます。
1571年の「比叡山焼討ち」以降、幾度となく信長の挑発に乗ってこなかった「朝倉義景」でしたが、この時ばかりは信長に追い詰められます。
1573年(天正元年)8月18日、一乗谷で起こった「織田信長」と「朝倉義景」の間で起こった戦いを「一乗谷城の戦い」と言います。
どのような合戦となったのか…、さっそく紐解いてまいりましょう。
一乗谷城の戦い 場所 地図 アクセス
現在の福井県大野市泉町に。
現在では、「朝倉義景墓所」公園となっており、市民の憩いの場となっています。
朝倉義景の刀根坂の戦いでの敗戦から撤退まで
つい4日前の「刀根坂の戦い」で、織田軍3万の軍勢に対し朝倉軍は2万。
義景は兵数で勝ち目がないことを知り、「撤退」を決断したまでは良かったが、それを見越していた信長は、朝倉軍が撤退するいなや、自ら本隊を率い義景の背後を襲います。
義景は「殿」(しんがり)に重心を据え、自ら疋田城に向け撤退を開始しますが、「刀根坂」で信長軍の追討を受け3000人を超える討死者を出します。
その中には、北庄城主「朝倉景行」や「朝倉道景」といった一門衆を含め、「山崎吉家」、「斎藤龍興」、「河合吉統」など朝倉家の軍事中核を成していた名将が数多く討死しました。
重臣を失った義景は、少数の供回りのみで一乗谷へ帰還するも、朝倉家の直属軍と部将はほぼ壊滅状態となっていました。
この好機を逃す信長ではありません。
15日16日にかけて、信長は兵たちを休め、17日に大軍を整えついに義景のいる越前入りを果たします。
一乗谷城の戦い 織田軍vs朝倉軍 布陣 戦力比較
18日、信長軍は「柴田勝家」を先陣に一乗谷へ攻め込みます。
100年以上、往時は1万人を超える人口にて栄華を誇った一乗谷は、織田軍の手により焼討ちされて灰燼に帰してしまいます。
兵力差
【織田軍】 | 【朝倉軍】 | ||
3万 | 500 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【朝倉軍】 | ||
朝倉討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【朝倉軍】 | ||
織田信長・柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・前波吉継 他 | 朝倉義景・朝倉景鏡・朝倉景健 他 |
肝心の「義景」はというと、もはや勝ち目はないと思ったのか、「朝倉景鏡(あさくらかげあきら/義景従弟)」先導のもと、すでに一乗谷を離れ大野郡(六坊賢松寺)に逃れていました。
当時の戦国武将としては、「何と往生際の悪い大将」としか言いようがありませんが、それでも義景には再決起するチャンスを伺っていたのかもしれません。(想像ですが…)
しかし信長軍は20日に、義景の隠れている六坊賢松寺に追いつき、その周囲をぐるりと囲みます。
朝倉景鏡(かげあきら)が突然…
その時、朝倉方であったはずの「朝倉景鏡」が、手のひらを変え手勢で義景を囲みます。
そう、義景を裏切ったのです。
義景の少ない供回り近習らが、景鑑勢に対し、奮戦・討ち死にする中で、ついに義景も覚悟を決めます。
その後、「朝倉義景」は切腹自害となり、ここに500年に渡り越前に君臨した名門「朝倉氏」は滅びました。
後に景鏡は、義景の首を持参し信長に降参するのでした。
討死武将
【織田軍】 | 【朝倉軍】 | ||
不明 | 朝倉義景 他 |
【織田軍】 | 【朝倉軍】 | ||
朝倉氏討伐の完成 | 逃げ回った挙句の裏切り |
一乗谷城の戦い まとめ
元号が「元亀」から「天正」へと変わった直後の節目となった「朝倉氏滅亡」。
「一乗谷城の戦い」は、朝倉氏が戦った合戦の中で、自らを滅ぼす合戦となりました。
信長にとって、浅井朝倉軍の一角である、朝倉氏の滅亡は、次なるターゲット「浅井氏」への大きな布石となった事は間違いありません。
すでに信長は、小谷城「浅井長政」討伐への狼煙を上げていたのです。
鬼神信長!次はお前だ「長政」!信長バトル59【小谷城攻略戦】
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