秀吉の兵糧攻め炸裂!
人馬を食い漁る「鳥取の渇え殺し」
【鳥取城攻め】
信長の中国方面司令官である「羽柴秀吉」は、安芸(広島)の「毛利」を攻め立てるために、1581年(天正8年)に鳥取城を攻めます。
備中(岡山)までは来たものの、この先、安芸(広島)への侵攻は毛利側の抵抗も激しくなり、そう易々とはなりません。
そこで秀吉は、中国地方の北部から攻め、毛利を追い詰めようと考えます。
1581年(天正9年)6月、秀吉は鳥取城攻略のため2万の大軍で姫路城を出陣しました。
そして始まった合戦が「鳥取城攻め」と言われるものです。
鳥取城攻め 場所 アクセス
鳥取城は、現在の鳥取市中心にあり、国の史跡に指定され、別名は久松山城といわれています。
鳥取城兵糧攻め 秀吉軍の動き
秀吉軍が姫路城を出陣したことを知った、鳥取城の「吉川経家(きっかわつねいえ)」は、支城である丸山城に「塩屋高清(えんや たかきよ)」入れ抗戦の構えを見せます。
秀吉は「鳥取城」攻略に、鳥取城周辺の米を通常の2倍での高値で買い占めさせるよう指示します。
鳥取城下の人々は、その破格の値段に喜び、次々と米を売り払い、その噂を聞いた「鳥取城」の城番たちも城の備蓄米まで売ってしまいます。
家臣たちはそれで得た金で、すぐにでも兵糧を買えばよいと考えていましたが、すでに城下には米は無く、その後間もなく、秀吉軍から城の周りを包囲されてしまいます。
秀吉はこの時、「鳥取城」への兵糧の補給路を完全に封鎖し、吉川経家は海上からの補給を試みるも、秀吉の水軍に阻まれ失敗。
「鳥取城」は一粒の米も補給できないまま籠城戦へと持ち込まれます。
秀吉の得意とした兵糧攻めが始まったのです。
鳥取城攻め 織田軍軍vs毛利軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
2万 | 1400(城兵)+2000(町民ら) |
戦闘目的
【織田軍】 | 【毛利衆軍】 | ||
鳥取城攻略 | 攻略阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
羽柴秀吉・羽柴秀長・黒田官兵衛・堀尾吉晴・宮部継潤 他 | 吉川経家・中村春続・森下道誉・塩屋高清 他 |
合戦のゆくえ 「人」「馬」も喰らう秀吉軍の兵糧攻め
秀吉は、2万の大軍で、「鳥取城」にねずみ一匹すら入る隙間もないほどの、頑丈な包囲網をめぐらし完璧な兵糧攻めを敷きます。
秀吉は軍を右翼軍、左翼軍、平地軍の三軍に分け鳥取城の周辺を囲みます。
ゆっくりと時間をかけ「鳥取城」内の兵糧が尽きるのを待つ作戦です。
1か月が過ぎ、、、
2か月が過ぎる頃には、戦闘用の騎馬を殺し食い、城内の草・木も食べつくされ、虫やトカゲ、蛇など捕まえてを食う状況です。
3か月が過ぎたころ「餓死者」が出るほどになり、生きている者は、その餓死した「人」までも食うようになりました。
始めのうちは、五日に一度、あるいは三日に一度、鐘を突き、それを合図に、雑兵が全員で棚きわまで出てきて、木の葉や草を取った。
特に稲の切り株は上々の食い物であったようであるが、後にはこれらも取りつくし、城内で買っていた牛馬を殺して食い、寒さも加わって、弱いものは餓死していった。
餓鬼のように痩せ衰えた男女が、棚ぎわへ迷い寄り、苦しみ喘ぎつつ「引き出して、助けてくれ」と悲しく叫ぶ様子は、哀れで見るに堪えなかった。
これらの者を鉄砲で撃ち倒すと、まだ息のある者が群がり、手に持った刃物で手足をばらし肉を剥がした。
五体の中でも特に頭部は味が良いと見えて一つの首を数人で奪い合い、取った者は首を抱えて逃げていった。
まったく、命を守る瀬戸際となると、こんなに情けないことになるのであった。
包囲して4か月、この状況を見るに見かねた城主の「吉川経家」は、もはやこれまでと切腹を条件に開城降伏しました。
討死武将
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
不明 | 吉川経家・中村春続・森下道誉・塩屋高清 他 |
【織田軍】 | 【毛利軍】 | ||
兵糧攻め | 兵糧攻めの前に降伏 |
鳥取城攻め その後 まとめ
城内の、「人が人を食う」といった地獄のような光景に、城主の「吉川経家」は、家臣・領民の助命を条件に城を開城降伏し、10月25日自刃しました。
「鳥取城」の開城後、あまりに様子が悪そうなので、秀吉が食い物を与えたら、空腹の上に勢いよく食べたせいか、半数以上の人が死んでしまい、まるで餓鬼のようにやせ衰えてしまい、哀れな有様だったと語っています。(信長公記)
十月廿五日
取鳥籠城之者扶被出餘に不便に被存知食物與へられ候へは食にゑひ過半頓死誠餓鬼之如く痩衰へて中々哀成有様也(後略)
信長公記 因幡国取鳥果口之事
「鳥取城攻め」はこうして織田方の勝利に終わり、織田軍の毛利攻略の大きな布石となりました。
高野聖(勧進僧)処刑から高野山攻め勃発!信長バトル86【高野山制圧戦】
コメント