今川か、織田か、動かぬ元康(家康)。
「清州同盟成立」へ
1561年5月、梅ヶ坪城・伊保城・八草城の各城攻めから一か月後、信長は一気に西三河の賀茂郡へ侵攻し、西三河全体を制圧しようと「拳母城」を攻めます。
尾張と三河の国境に近い拳母城は、長年にわたり高橋の庄を支配する中条氏の居城であり、信長に対抗する動きがあったとして、これを大義に攻め立てます。
この戦いが「拳母城攻め」といわれています。
この時、三河の松平元康(家康/今川方)は、この合戦に参戦せずじっと見守ることになります。
真の家康の狙いはどこに…。
早速紐解いてまいりましょう。
拳母城攻め 場所 合戦図
場所は現在の愛知県豊田市小坂本町8丁目「豊田美術館敷地内」にあり、名古屋から南東に約30kmの所にあります。
現在は1978年に復元された挙母城の隅櫓(やぐら)があり、江戸時代に挙母藩が築城し「七州城」という通称で知られ、城跡公園として公開されています。
拳母城攻め 織田軍vs中條軍 布陣 戦力比較
兵力差
【信長軍】 | 【中條軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【中條軍】 | ||
西三河侵攻 | 拳母防衛 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【中條軍】 | ||
織田信長 他 | 不明 他 |
拳母城攻め 経緯 勝敗
梅ヶ坪城・伊保城・八草城の城攻めから一か月後、信長に対抗する動きありとして侵攻した信長。
拳母城主の中條氏は信長の侵攻に籠城の構えで守城するも、猛攻に耐え切れず一族とも討死したと言われています。
この合戦後、信長は矢作川支流の巴川から以西の「西加茂地区」(ピンク色)を制圧することになります。
この合戦場にほど近い(南に約15㎞)元康(家康)は、ここでも動かずジッと静観しています。
討死武将
【信長軍】 | 【中條軍】 | ||
前野義高 | 中條氏 他 |
勝敗
【信長軍】 | 【中條軍】 | ||
【勝因】 信長軍の猛攻 |
【敗因】 猛攻に耐え切れず |
なぜ動かない元康(家康)!真の狙いとは…?
1561年(永禄4年)5月、梅ヶ坪城・伊保城・八草城攻めの一か月後に「拳母城」を攻めた信長ですが、この合戦により西三河加茂地域を掌握しました。
元康(家康)においては、自らの領地を信長に侵攻され、このままだと居城の岡崎城でさえ危うい気配すら感じさせるのですが、この合戦でも全く動く気配を見せませんでした。
いったいこの時何を考えていたのでしょうか…。元康の(家康)の真の狙いとは…。
今川(氏真)か…?織田(信長)か…?
昨年の桶狭間合戦で今川義元が織田信長に討たれて以来、後継の氏真は信長に対し、未だ弔い合戦の声を上げません。
家臣たちの業を煮やす中、元康(家康)もこのうちの一人であったと考えられます。
この一ヵ月間、信長から自らの所領地の城が攻められる中、全く動かなかった元康(家康)。
真の狙いは、このまま今川に付き織田と敵対するか、それとも織田に付き今川からの後ろ盾を作るか…を計っていたのではないでしょうか…。
1562年永禄5年正月「清州同盟」成立
「拳母城攻め」が終わった後、信長と元康(家康)の間には和議が成立しています。
織田・松平の国境の取り決めを改めて行うといった事が目的で、織田方から「林秀貞」、松平方から「石川数正」が鳴海城で会見しました。
この和議が2人(信長・家康)の関係を良好にし、翌年正月に「清州同盟」が成立することになるのです。
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