【甲州征伐】武田家滅亡!ついに追い込まれた「武田勝頼」!

信長全合戦

 

ついに「武田勝頼」を追い詰めた信長軍!

最終決戦「織田信長vs武田勝頼」

【甲州征伐】

1573年(元亀4年)4月12日に「武田信玄」が死去して、その2年後の1575年(天正3年)5月21日に行なわれた「長篠の戦い」で信玄嫡男の「武田勝頼」「信長・家康連合軍」に大敗。

名将であった家臣の多くを失い、武田家は急速に勢力を失います。

1581年(天正9年)3月25日の「第二次高天神城の戦い」でも、城将の「岡部元信」が勝頼に援軍を求めるも勝頼が送らず玉砕。

敗因が、勝頼が援軍を送らず見殺しにしたことで、勝頼の威信は失墜し、武田家の国衆の不信を植え付ける結果となりました。

家臣からの威信が失墜する「武田勝頼」

武田家はますます窮地に追い込まれ、織田・徳川・北条の3方面から挟撃を受けて領国が危機的状況にある中で、勝頼の居城である「躑躅ヶ崎館」では防衛力が十分ではないと考え、現在の韮崎市にある「新府城」を築城し居城を移します。

ただ、この「新府城」は、2ヶ月で完成させた巨城で、余りの国衆や人民に対する負担は大きく、ここからも武田家は「内部崩壊」が始まっていました。

そして1582年(天正10年)2月1日、すでに勝頼への不信が募り、新府城への賦役が増大していたこともあり、ついに「木曽義昌」が織田信長に寝返ります。

木曽義昌は、織田領と武田領の通過点となる木曽谷の領主で、この地がどちらに転ぶかで大きく形勢が変わるほどの重要な地域でした。

信長は、木曽義昌の寝返りを好機ととらえ、2月3日に甲州征伐を決意。

嫡男「織田信忠」を総大将とする先発隊を出陣させます。

こうして始まった、織田信長と武田勝頼の合戦を「甲州征伐」(武田征伐)と言います。

信長
よし、機は熟したっ! 勝頼、覚悟せいっ!

甲州征伐(武田征伐) 場所 アクセス

織田軍と武田勝頼が最後の合戦となった「天目山」は、現在の山梨県甲州市大和町木賊野山になります。

武田勝頼は、上諏訪から新府城、天目山へと後退していきました。

「合戦となった場所(黒)」

躑躅ヶ崎館

新府城

新府城から天目山 位置

武田家滅亡まで 織田軍の動き

当時の甲斐信濃侵攻は、「織田信忠」を総大将に、「池田恒興」、「森長可」、「河尻秀隆」らを主力とした信長軍が編成されており、今回の甲州征伐(武田征伐)は以下のような陣容となりました。

大将:織田信忠

先鋒:森長可、団忠正、木曾義昌、遠山友忠

本隊:河尻秀隆、毛利長秀、水野守隆、水野忠重

付属:織田長益他織田一門衆、丹羽氏次他

軍監:滝川一益

この出陣に当たり、信長は「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状を出しています。

信長
信忠っ、ぬかりなく! 勝頼を成敗してまいれ!
織田信忠
父上、承知いたしました! 勝頼を成敗してまいりまする!

甲州征伐(武田征伐) 織田軍vs武田軍 布陣 戦力比較

兵力差

【織田軍】 【武田軍
高遠城の戦い 3万

天目山の戦い 3000

 高遠城の戦い 3千

天目山の戦い 43

戦闘目的

【織田軍】 【武田軍】
武田征伐 征伐阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【武田軍】
織田信忠・森長可・木曽義昌・河尻秀隆・金森長近 他 武田勝頼・武田信勝・武田信豊・小山田昌行・小山田信茂 他

武田家滅亡まで 合戦のゆくえ

織田信長覇道の全合戦

甲州征伐(武田征伐)は、信忠の本部隊以外に、各方面から出陣する形跡が見られ、勝頼一行が追い詰められていく様子が伺えます。

ここでは、どのような動きがあったのか時系列で見てまいります。

信長軍の動き 武田勝頼・信勝軍の動き 織田信長の動き 徳川家康の動き
2月3日 先発隊、森長可ら岐阜城を出陣
2月6日 先発隊、木曽口と信濃から進軍
2月12日 信忠、岐阜城 一益、長島城を出陣
2月14日 信忠・一益、岩村城に進軍 小笠原信嶺離反
2月16日 木曽義昌、武田軍と抗戦 勝利 木曽義昌に敗北
2月17日 信忠、平谷まで進軍
2月18日 信忠、飯田まで進軍 飯田城主保科正直は高遠城へ逃亡。大島城主武田信廉も逃亡 浜松城から出陣
2月20日 田中城攻略
2月21日 投降が相次いだ結果、織田軍はほとんど戦わずして南信濃を制圧 投降が相次いだ結果、武田軍はほとんど戦わずして南信濃を失う 駿府城へ進軍
2月28日 河尻秀隆は信長から高遠城の攻略のために陣城を築けとの命を受ける 諏訪を捨て新府城に、兵1000共に入場 河尻秀隆へ高遠城の攻略のために陣城を築けと命じる
3月1日 高遠城主の仁科盛信(信盛)を包囲。僧侶を使者とし盛信に黄金と書状を送り開城を促すも、盛信はこれを拒否。僧侶の耳と鼻が削がれ送り返される 武田軍師穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返る
3月2日 3万の兵で高遠城を総攻撃。仁科盛信は籠城するも激戦となり、仁科盛信・小山田昌成・大学助ら討死、高遠城落城
3月3日 信忠、本陣を諏訪に進め諏訪大社焼き討ち。木曽義昌は深志城へ進軍 新府城を放棄、郡内の岩殿城主の小山田信茂を頼る
3月5日 信長、安土城を出陣
3月6日 仁科守信の首実検、長良川に晒す
3月7日 信忠、甲府に進軍し、勝頼の重臣、武田信友・諏訪頼豊・武田信廉を処刑 小山田信茂が離反、郡内の入口を封鎖する(理慶尼記)
3月9日 小山田信茂が郡内入口を封鎖、勝頼一行に鉄砲で撃ちかける(甲陽軍鑑)。このため勝頼・信勝一行は岩殿城入りを断念し天目山を目指し逃亡
3月10日 上野城落城一条信龍を処刑(家忠日記)
3月11日 信忠、家康と梅雪と面会 滝川一益隊と対峙 土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残す活躍を見せる しかし阿部勝宝も敵陣に切り込み戦死、勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を前に僅かな手勢で奮闘撃退。しかし衆寡敵せず(多勢に無勢)、3月11日巳の刻(午前11時頃)、勝頼・信勝父子、桂林院殿、自害。

武田家終焉の地  天目山勝頼討死図

討死武将

【織田軍】 【武田軍】
織田信家 他 武田勝頼・武田信勝・武田晴豊 他

 

【織田軍】 【武田軍】
衆寡敵せず(多勢に無勢) 家臣団の不信による威厳の失墜

甲州征伐(武田征伐) その後 まとめ

1582年(天正10年)3月11日、逃亡していた武田勝頼・信勝一行も、ついに天目山で追い詰められ、最期は自刃します。

ここで、戦国最強と言われた武田家は滅亡することになりました。

「武田勝頼」享年36歳、「武田信勝」享年14歳の若さでした。

武田勝頼

武田信勝

武田勝頼・信勝が自刃した後も、織田信忠は武田の残党狩りを執ように行います。

勝頼を裏切り、織田方に寝返った「小山田信茂」も不忠者(ふとどきもの)として処刑します。

4月3日、甲府に到着した信長は、残党の六角義定を匿った(かくまった)として、武田家の菩提寺「恵林寺」を焼き討ちします。

その時、臨済宗の高僧であり、正親町天皇から賜った「大通智勝国師」国師である、「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な「快川紹喜も一緒に焼き殺します。

信長はその後、悠々自適に富士山見物をしながら、東海道を経由、凱旋帰国となりました。

恵林寺と快川紹喜、勝頼の墓

【恵林寺(えりんじ)】

山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。

山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院です。

甲斐武田氏の菩提寺として知られています。

恵林寺

【快川紹喜(かいせん じょうき)】

戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の高僧。

1581年、正親町天皇から「大通智勝国師」を賜り国師となりました。

快川紹喜

【武田勝頼の墓】

山梨県甲州市大和町田野「景徳院」内に現存。

総高3.22m。

墓所には3期の石塔が並び、うち中央の宝篋印塔が「勝頼」、左右の五輪塔のうち向かって右が「北条夫人」、同左が嫡男「信勝」の墓、両端は殉難家臣たちの墓。

武田勝頼墓

 

 

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