【九州征伐】天下統一目前!秀吉の九州攻め!島津義久・義弘vs豊臣秀吉!

秀吉全合戦

 

天下統一目前!秀吉の九州攻め!

豊臣秀吉vs島津氏

【九州征伐】

1585年8月末に、「長宗我部元親」の降伏により、「四国平定」を成し遂げられた秀吉。

天下統一までに、残すは九州と関東の一部(北条)となりました。

その頃九州では、薩摩の「島津氏」の勢力が南九州から中九州を制圧し、東から北九州制圧も目論んでいました。

豊後(東九州・大分)の「大友宗麟」は、島津の圧迫を回避するため、天下統一の道を目前としていた「豊臣秀吉」援軍を求めます。

これを受け、秀吉は、1585年(天正13年)10月に、島津氏大友氏に対し、朝廷の権威を使用し「九州停戦令」を発令します。

この停戦令に「大友氏」はすぐさま受け入れたものの、「島津氏」は家臣の「鎌田政近」を秀吉のもとへ派遣し、島津側は以前、「織田信長」と「近衛前久」の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのに大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦した、と弁します。

薩摩「島津義久」と豊後「大友宗麟」

翌年(1586年天正14年)3月、秀吉は、島津氏の占領地を大友氏に返還する「国分案」を提示しますが、島津側はこれを拒否

さらに、「大友氏」攻撃再開したため、秀吉はついに、島津氏討伐による「九州平定」に踏み切りました。

そうして始まった戦いが、秀吉の「九州平定戦(九州討伐)」と言われています。

秀吉
戦は止めぇと、言うたがやぁ~! しゃ~ないのぉ~、島津征伐じゃ~!

九州平定戦 「筑前の戦い(福岡・佐賀)」 合戦場所(城)

島津側が、秀吉が示した和解案である「国分案」を拒否したため、合戦は免れない状況となります。

秀吉の到着前に、九州統一を果たしたい島津側は1586年(天正14年)6月筑前(福岡・佐賀)への侵攻を開始します。

6月18日には、「島津義久」みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代(熊本)に到着します。

そして、「島津忠長」「伊集院忠棟」が先陣を勤め、これに「島津忠隣」「新納忠元」「北郷忠虎」「川上忠堅」らが続く形で、大友方「勝尾城(佐賀県鳥栖市)」を攻めます。

「九州平定戦 筑前の戦い 黒:合戦が行われた城 青:島津本陣」

7月6日、筑後川をはさんだ国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城である「鷹取城(鳥栖市山浦町中原)」を陥落させます。

7月10日には「勝尾城」開城となり、その日、「秀吉」島津氏討伐を決定しました。

島津軍は7月12日に本陣を天拝山(福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運「岩屋城(福岡県太宰府市太宰府)」、紹運長男の立花宗茂「立花山城(福岡県糟屋郡新宮町立花)」、紹運次男の立花直次「宝満山城(太宰府市北谷)」を攻撃目標に定めます。

7月13日から、3万を超える軍勢で岩屋城に侵攻。

岩屋城守「高橋紹運」の強い抵抗で攻めあぐね、27日に数千名の大損害を出すも、ようやく岩屋陥落させます。(岩屋城の戦い)

この戦いにより高橋紹運自刃、城兵もすべて討死しました。

高橋紹運

島津勢はその後、8月6日に「宝満山城」も陥落させたものの、「立花山城」は守りが堅く落とせません。(立花山城の戦い)

秀吉の援軍である「毛利勢」が山口県下関市まで進軍したとの報に、8月24日、島津勢は、「立花山城」をあきらめ、立花城近くの「高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町)」に押さえの兵を割いて撤退を開始します。

立花山城の「立花宗茂」は、翌日の25日に「高鳥居城」を奪取、8月末までに毛利援軍とも連携して「岩屋城」「宝満山城」を奪還しました。

立花宗茂

九州平定戦 豊前・豊後の戦い(大分) 合戦場所

9月、秀吉の命によって「十河・長宗我部」の両軍勢も、豊後(大分)に出陣して大友氏と合流します。

「九州平定戦 豊前・豊後の戦い 黒:合戦のあった場所 青:島津勢の越年場所 赤:大友宗麟 緑:戸次川の戦い」

9月上旬、豊臣陣営は毛利先遣隊の援軍の加勢もあり「花尾城(北九州市八幡西区)」「広津城(福岡県築上郡吉富町)」「時枝城(大分県宇佐市)」「宇佐城(宇佐市)」「龍ヶ岳城(福岡県宮若市)」を帰順させます。

10月初め「毛利輝元」「黒田官兵衛」「小早川隆景」「吉川元春」を伴って九州に上陸し、高橋元種の「小倉城」、賀来氏が守る「宇留津城(福岡県築上郡築上町宇留津)」を攻撃。

小倉城攻めは毛利輝元自らが指揮にあたり、元春・隆景も攻めに加わります。

毛利輝元・黒田官兵衛・小早川隆景・吉川元春

10月4日、「小倉城」の城兵は、毛利勢の攻撃に耐え切れず「豊前香春岳城(福岡県田川郡香春町)」へと逃亡。

また、「馬ヶ岳城(福岡県行橋市大谷字馬ヶ岳)」、「浅川城(北九州市八幡西区浅川)」、「剣ヶ岳城(福岡県鞍手郡鞍手町中山)」がそれぞれ落城して毛利勢(豊臣方)に帰順しました。

ここに至り、「島津義久」は、東九州に進軍して「大友宗麟」の本国である豊後直接攻撃し、雌雄を決するという方針に転じます。

10月22日、島津義久は、弟の「島津義弘」を大将として、3万の軍勢で阿蘇(熊本)から九州山地を越えて豊後(大分)に侵攻させます。

島津義弘

義弘軍は、24日「津賀牟礼城(大分県竹田市入田)」を落とし、その城主だった入田宗和に案内させて「岡城(竹田市竹田)」を攻めます。

「小松尾城(竹田市神原)」、「一万田城(大分県豊後大野市朝地町池田)」などは島津氏に投降しますが、「岡城」の城主「志賀親次」の激しい抵抗にあい停滞を余儀なくされます。

義久は一方で、もう一人の弟「島津家久」1万の軍勢で、「日向(宮崎北)」から北上して豊後(大分)侵攻する戦略を立てます。

家久軍は10月、「松尾城(豊後大野市大野町宮迫)」、「小牧城(豊後大野市緒方町野尻)」を陥落させたものの、11月4日、大友氏の有力家臣である「栂牟礼城(大分県佐伯市弥生)」「佐伯惟定」と堅田(佐伯市)で交戦となり、敗戦撤退となります。

吉川元春・小早川隆景の毛利勢は、高橋元種の支城「松山城(福岡県京都郡苅田町)」を攻め、11月7日に「宇留津城」、15日「障子岳城(福岡県京都郡みやこ町)」を攻撃。

12月上旬に、高橋元種の「香春岳城(香春町)」陥落

これにより、豊前(大分北)は、ほとんどが「豊臣軍」制圧し、残すは豊後(大分南)が残されるのみとなっていました。

12月1日、秀吉は諸国に対し、翌年3月を期してみずから島津征討にあたることを伝えます。

一方の日向(宮崎北)からの侵入を進めている「島津家久」は、12月6日、「鶴賀城(大分市上戸次)」攻撃を開始し、守る「利光宗魚」はこの攻撃に耐え、「府内城(大分市)」を守る「大友義統」に援軍要請します。

しかし、島津家久は「鶴賀城」を、府内城攻めの拠点にすべく、昼夜を問わず攻撃をし続け、その攻撃中、「利光宗魚」は矢にあたって討死しました。

このとき、府内城には、土佐の「長宗我部元親・信親父子」、讃岐の「十河存保」、そして高松城主「仙石秀久」らの四国勢およそ六千が詰めていました。

四国勢は、持久戦により島津軍を食い止めておくよう指示されていましたが、「利光宗魚」討死によって、「府内城」が島津勢の家久・義久から挟撃の恐れが出てきたため、家久軍を戸次川で食い止める必要にせまられ、12月11日急遽出陣することとなります。

翌12月12日、「戸次川の戦い」がはじまります。

家久は坂原山に本陣をおきます、その軍勢1万8000

ここで「仙石秀久」は、「長宗我部元親」の制止を聞かず、戸次川の強行渡河作戦を開始します。

島津勢は身を伏せて、秀吉軍(四国勢)が川を渡り切るのをみはからって急襲

隙を衝かれた仙石秀久敗走し、チリじりになったところを島津家久軍攻撃

この戦いで秀吉方は、四国勢6000のうち2000を失い、元親の嫡子である「長宗我部信親」「十河存保」などの有力武将を失う大敗を喫しました。

12月13日、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した「府内城」陥落させ、隠居した大友宗麟「丹生島城(臼杵城)」包囲します。

丹生島城(臼杵城)は、堅固な要塞であり南蛮からの輸入品である「仏郎機砲(石火矢)」の射撃もあり徹底抗戦の状態です。

戦況は膠着状態で越年となり、肥後阿蘇から攻め入っていた「島津義弘」勢は「山野城(竹田市久住)」で、「島津家久」は陥落させた「府内城(大分市)」で、当主「島津義久」は「塩見城(日向市)」での越年しとなりました。

大友宗麟
島津よっ!よくぞここまでたどり着いたっ、誉めて遣わす!

九州平定戦 天正15年 秀吉の九州出兵 日向の戦い

1587年(天正15年)元旦、九州平定の命(島津討伐)を出して、すでに半年が過ぎようとしていました。

秀吉は年賀祝儀の席で、自らの九州侵攻を諸大名に伝え、以後、正月25日に「宇喜多秀家」、2月10日には弟の「秀長」の出陣を促し、3月1日には自らも出陣する事を伝えます。

九州での布陣は、肥後方面「秀吉」自身が、日向方面「秀長」が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と兵力で進軍しました。

【肥後方面陣立】

一番隊:毛利吉成、高橋元種、城井朝房

二番隊:前野長康、赤松広英、明石則実、別所重宗

三番隊:中川秀政、福島正則、高山長房

四番隊:細川忠興、岡本良勝

五番隊:丹羽長重、生駒親正

六番隊:池田輝政、林為忠、稲葉貞通

七番隊:長谷川秀一、青山忠元、木村重茲、太田一吉

八番隊:堀秀政、村上義明

九番隊:蒲生氏郷

十番隊:前田利家

十一番隊:豊臣秀勝

総大将:豊臣秀吉

 

【日向方面陣立】

一番隊:黒田孝高、蜂須賀家政

二番隊:小早川隆景、吉川元長

三番隊:毛利輝元

四番隊:宇喜多秀家、宮部継潤因幡衆(亀井茲矩、木下重堅、垣屋光成、南条元続)

五番隊:小早川秀秋

番外:筒井定次、溝口秀勝、森忠政、大友義統、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆、長宗我部元親

総大将・豊臣秀長

日向の戦い 秀長

秀長3月上旬には小倉に達していました。

このころ、島津家久「松尾城(大分県豊後大野市三重町松尾)」に移り、島津義「府内城(大分市)」に入っていましたが、豊臣勢はすぐに両城を攻めるのではなく、府内城の「島津義弘」に講和を求めます。

しかし、義弘はこれを拒否、3月18日に豊後日向の国境で、家久軍と合わせた軍勢で、大友家「佐伯惟定」と合戦となります。(梓越の戦い)

翌19日義弘「高城(宮崎県児湯郡木城町高城)」へと移り、3月20日には家久とともに日向の「都於郡城(宮崎県西都市都於郡)」で、義久も含めた兄弟3人はこの城で軍議をおこないました。

一方秀長軍は、先着していた「毛利輝元」「宇喜多秀家」らの軍勢と合流し、豊後より日向を経て3月29日には「日向松尾城(延岡市松山)」を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る「高城(宮崎県児湯郡木城町)」包囲します。

秀長は「高城」を二重に囲み兵糧攻めにし、「都於郡城」から後詰の援軍が出てくることを予想して「根白坂(児湯郡木城町根白坂)」に砦を築きます。

「九州平定 日向の戦い 豊臣秀長 黒:合戦のあった場所 青:島津義弘撤退城」

「高城」が孤立する形勢となったことに対し、4月17日「島津義久・義弘・家久」2の軍勢を率いて救援に向かいます。

根城坂砦の守る豊臣方軍勢1万と、島津勢の2万がぶつかり合う激しい合戦となります。(根白坂の戦い)

その結果、島津勢は「島津忠隣」討死するなどの大敗を喫し、義久・義弘は「都於郡城」に退却し、「家久」も「佐土原城(宮崎市佐土原町)」に兵を引きます。

さらに、「豊臣秀次」「都於郡城」を攻略し、「岩牟礼城(小林市)」まで侵攻します。

島津義弘「飯野城(宮崎県えびの市飯野)」に籠りました。

島津義弘
くっ、忠隣が討たれたかっ! こうなれば総力戦じゃっ!

豊前の戦い 秀吉

秀吉は大坂城を出立後、3月28日「小倉城」に到着し、翌29日には「馬ヶ岳(行橋市大谷)」まで進軍し、島津方の「古処山城(福岡県朝倉市秋月)」「岩石城(福岡県田川郡添田町枡田)」を攻める手はずとなっていました。

3月29日の軍議では、秀吉は岩石城攻撃を、「蒲生氏郷」「前田利長」に命じて、攻城戦は4月1日に始まり、「蒲生氏郷」隊が大手口から、「前田利長」隊が搦手口から「岩石城」攻め、一日で陥落させた。

城兵3000のうち約400が討死するという激しい戦いでした。

「秋月種実」は、この戦闘のようすを「益富城(福岡県嘉麻市大隈)」から伺っていましたが、敗色濃厚とみて益富城を放棄し、兵を集中させるため本拠の「古処山城」撤退します。

秀吉は、この「古処山城」攻めに5万の軍勢を送り込み、夜中に地元兵たちに松明を持たせて周囲を威嚇。

さらに、翌日には破却したはずの「益富城」の城壁を白く塗り、1日で改修したように見せかけて、「秋月種実」の戦意を喪失させることに成功。

4月3日「秋月種実」は剃髪し、子の「種長」とともに降伏しました。

「九州平定戦 豊前の戦い 黒:合戦場 赤:秀吉の動き 青:島津軍の撤退場所」

岩石城が1日で陥落し、秋月種実が3日にして降伏したことは、島津勢における戦況に大きな影響を与えることになりました。

これ以降、それまで秀吉に敵対の構えを示していた島津勢の在地勢力は、戦わずして続々と秀吉に臣従します。

事前の「黒田官兵衛」の地ならしが功を奏したとはいえ、想像を超えた秀吉の大軍に殆どの武将は強烈な印象を受け、戦意を喪失してしまったと考えられています。

4月10日、秀吉は「高良山(福岡県久留米市高良山)」、16日には「隈本(熊本県熊本市)」、19日には「八代(熊本県八代市)」に到着します。

この時、肥前の「龍造寺氏」は家臣の「鍋島直茂」が、秀吉と早くから内通していたこともあって豊臣軍に帰参します。

また島原(長崎県島原市)方面では、「有馬晴信」が秀吉方となりました。

秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた「島津忠辰」は、これを放棄して薩摩の「出水(鹿児島県出水市)」まで撤退しました。

秀吉
島津よ、もう、戦は止めて、降参したらえぇがやぁ~! 

薩摩の戦い 秀吉軍

4月25日秀吉「佐敷(熊本県葦北郡芦北町)」、26日に「水俣(熊本県水俣市)」へと進み、4月27日には「薩摩国」内に進軍すると、出水城(出水市)に撤退していた「島津忠辰」と宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の「島津忠長」らが戦わずして降伏します。

秀吉軍先鋒の「小西行長」、「脇坂安治」、「九鬼嘉隆」、「加藤嘉明」は、海路から進軍し24日には出水に、25日には川内(鹿児島県薩摩川内市)に入っていたのです。

4月28日、小西・脇坂・九鬼勢は「平佐城(薩摩川内市平佐町)」攻撃を仕掛けますが、ここでは城主「桂忠詮」徹底抗戦の反撃に出ます。(平佐城の戦い)

このとき、「桂忠詮」の抵抗はすざまじく、「九鬼八郎」が弓で射られ、小西・脇坂・九鬼勢を押し返します。

また、城内の女や子どに至るまで、合戦の加勢をして抗戦となったため、島津勢の犠牲者が膨らみ、これが島津勢の最後の抵抗となりました。

平佐城位置 右下が薩摩(鹿児島)

講和への成立

1587年(天正15年)4月17日の、「高城の戦い」、及び「根白坂の戦い」の敗北によって、秀吉による「九州平定戦」の戦局はほぼ決まり、「平佐城の戦い」で島津勢の抵抗は最後となりました。

4月21日、ついに「島津義久」は、人質を差し出し「豊臣秀長」和睦を申し入れます。

26日には「高城(宮崎県児湯郡木城町)」を差し出すこととなり、最後まで守将として抵抗した「山田有信」も開城に同意して、4月29日、有信は高城を出ました。

一方4月28日夕刻、「平佐城(薩摩川内市平佐町)」で抵抗していた「桂忠詮」のもとに、当主「島津義久」からの書状が届きます。

書状は、「義久」はすでに降伏しており、これ以上、島津軍が戦うことは島津氏の戦後の処遇で、不利益をこうむる怖れがあるため降伏するように、という内容でした

山田有信が「高城(宮崎県児湯郡木城町)」を出たのと同日の4月29日、「桂忠詮」は義久の命にしたがって、豊臣軍の「脇坂安治」の陣に、人質を差し出し降伏しました。

秀吉は、「桂忠詮」降伏の報せを受けた翌日の5月1日、出水より阿久根(鹿児島県阿久根市)へ移動し、3日に「平佐城」の向かいにあたる川内の「泰平寺(薩摩川内市)」に本陣を置きます。

「桂忠詮」は泰平寺で、「秀吉」に拝謁してその武勇を賞され、名刀宝寿を下賜されました。

当主「島津義久」は、一旦薩摩(鹿児島)へ戻り、5月6日に伊集院(鹿児島県日置市)の雪窓院で「剃髪」して名を「龍伯」(出家)と改め、1587年(天正15年)5月8日、「泰平寺」に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏しました。

秀吉は、「島津義久」の降伏の意を聞いており、謁見の際の墨染の衣によって俗界を離れる姿勢を示していた為、「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として、赦免しました。

秀吉は、5月18日に同寺(薩摩川内市)を離れ、筑前(福岡)に向かいました。

秀吉
義久よ、よく戦った! 今後は良い坊主になって民を救ってくれりゃ~! 

九州平定戦 兵力差

兵力差

【豊臣軍】 【島津軍
20万  5万

戦闘目的

【豊臣軍】 【島津軍】
島津討伐 討伐阻止

主な参戦武将

【豊臣軍】 【島津軍】
豊臣秀吉・豊臣秀長・豊臣秀次・毛利輝元・小早川隆景・黒田官兵衛 他 島津義久・島津義弘・島津家久・島津歳久 他

自刃 討死武将

【豊臣軍】 【島津軍】
不明 島津忠隣 他

 

【豊臣軍】 【島津軍】
圧倒的軍事力差による勝利 圧倒的軍事力の前に多勢に無勢(衆寡敵せず)

九州平定後 国分け

島津義久が降った(5月8日)後も、「飯野城」に籠っていた「島津義弘」、「島津歳久」らの抵抗は続いていました。

5月22日、義弘は、すでに降伏した「義久」の説得により、子の「島津久保」を人質として差し出すことを条件に降伏します。

島津氏は、最終的に、九州において新たに獲得した地域の大部分を没収されますが、「薩摩」「大隅」の2国と合わせ「日向」諸県郡が安堵されました。

【国分け】

島津方

「島津義久」:薩摩

「島津義弘」:大隅と日向諸県郡

「島津久保」:日向の真幸院

「島津豊久」:日向の都於郡(西都市)と佐土原

豊臣方

「大友義統」:豊後と豊前の宇佐半郡

「佐々成政」:肥後国

「相良頼房」:肥後人吉

「小早川隆景」:筑前・筑後肥前1郡の約37万石

「黒田官兵衛」:豊前6郡(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐半郡)12万5000石

「森吉成」:豊前2郡(企救・田川)6万石

「立花宗茂」:筑後柳川13万2000石

「毛利勝元」:豊前小倉6万石

秀吉は6月19日、博多で「バテレン追放令」を出し、翌20日にはガスパール・コエリョにそれを通知して「キリスト教制禁」を発令しました。

バテレン追放令

秀吉は九州平定を果たし、朝鮮や琉球に対し貿易と従属を求めた接触を始めることになります。

「佐々成政」は、肥後の領国化を急ぐあまり、領地を与えられたその翌月に検地を推し進めたため、国人衆の反発を招き肥後国人一揆をもたらします。

結果、佐々成政は失策を咎められ切腹、国人らも殆どが処刑されることになりました。

その後、肥後の北半分を「加藤清正」、人吉を除く南半分を「小西行長」が領することとなりました。

羽柴秀吉
これで九州も収まったでりゃ~! あとは、北条(関東)をだけだに~~!

 

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