秀吉の四国平定戦!
羽柴秀吉vs長宗我部元親
【四国平定】
信長が「本能寺の変」で豪死して以来、織田家家老の「柴田勝家」を、「賤ケ岳の戦い」を破り、信長後継者として織田筆頭に成りあがっていた秀吉。
織田家内で内輪揉め「小牧長久手の戦い」では、家康に手痛い敗戦を喫していたものの、持ち前の政治力で織田家筆頭として、全国統一も目前となっていました。
残すは四国と九州。
当時の四国は、土佐の「長宗我部元親」が、1585年(天正13年)の伊予国の河野通直を降伏させており、四国をほぼ統一しており、秀吉との対立は悪化しておりました。
当初、元親の方から秀吉に対し和睦としての条件を、「伊予」一国の割譲としていたものの、秀吉はこれを拒否します。
秀吉が和睦に提示した案は、伊予と讃岐の2国の返上だったのです。
しかし元親は、信長から、四国の領土は「切り取り次第」と言われており、苦労を重ね統一した四国を、そう簡単に譲渡することは、元親にとって承服できる内容ではありませんでした。
よって、元親と秀吉の和睦交渉は決裂となり、合戦は避けられなくなり、ついに1585年6月16日に、秀吉は総勢10万を越える軍勢を四国へ出陣させるのでした。
これを秀吉の「四国平定戦」(四国征伐)と言っています。
四国平定戦 秀吉軍の上陸場所 合戦場
秀吉軍は、「3部隊」に分かれ四国へ上陸します。
場所:鳴門市鳴門町土佐泊浦港
「羽柴秀長」隊 3万
「羽柴秀次」隊 3万
合わせて6万軍勢
場所:香川県高松市屋島東町 屋島
「宇喜多秀家」隊
「黒田官兵衛」隊
「蜂須賀正勝」隊
合わせて2万3000軍勢
場所:愛媛県今治市港
「小早川隆景」隊
「吉川元長」隊
「宍戸元孝」隊
「福原元俊」隊 他
合わせて4万軍勢
四国平定戦 兵力差
兵力差
【羽柴秀吉軍】 | 【長宗我部軍】 | ||
10万 | 4万 |
戦闘目的
【羽柴秀吉軍】 | 【長宗我部軍】 | ||
長宗我部討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【羽柴秀吉軍】 | 【長宗我部軍】 | ||
羽柴秀長・羽柴秀次・小早川隆景・宇喜多秀家 他 | 長宗我部元親・香宗我部親奏・谷忠澄 他 |
四国平定戦 合戦のゆくえ
「讃岐」上陸
秀吉の本格的な四国平定戦は、この年(1585年天正13年)の7月上旬に「宇喜多秀家」「蜂須賀正勝」「黒田官兵衛」「仙石秀久」各隊が、現在の香川県高松市屋島東町「屋島」に上陸したことから始まります。
宇喜多隊は、まず最初に「高松城(当時の喜岡城)」を陥落させ、香西城・牟礼城を攻略します。
しかし、戸波親武の守る「植田城」の守りの堅さを見てとった黒田官兵衛は、阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、秀長軍との合流を図ります。
「伊予」上陸
伊予上陸隊となった、「小早川隆景」「吉川元長」その他隊は、7月5日に今治浦に上陸し、対馬守元春が守る「金子城」を落とし、14日に「丸山城」、17日「高尾城」、その後「高峠城」「生子山城」「岡崎城」の諸城を次々と陥落させ、25日には「仏殿城(川之江城)」攻略中に、長宗我部元親が降伏し講和となります。
この頃には、南伊予の長宗我部勢も退却せざるをない状況で、ほぼ東伊予の制圧後、伊予隊は進軍を西側へと転じ、8月末には河野通直の「湯築城」が攻略され、喜多郡の諸将及び「西園寺公広」「大野直昌」も降伏し、「伊予地区」の制圧が完了しました。
「阿波」上陸
「羽柴秀長」「羽柴秀次」を大将とした阿波上陸隊は、6万の軍勢で鳴門市土佐泊浦港に上陸します。
阿波上陸隊は、まず「木津城」に攻撃を開始します。
阿波上陸隊6万の攻撃に、木津城の守りは固く、8日間に渡る攻撃に耐えますが、それは多勢に無勢、やがて木津城は落城します。
秀吉軍の戦力に対し劣勢となっている元親は、戦力を他の地域(伊予・讃岐)へも分散せざるを得ないため、ジリジリと長宗我部勢の劣勢が顕著となってきます。
阿波上陸隊の攻撃はさらに続き、「牛岐城」の香宗我部親泰、「渭山城(徳山城)」の吉田康俊は、木津城の陥落を聞いて城を捨てて逃れ、残る長宗我部側の主要拠点も「一宮城」「岩倉城」「脇城」の3城となります。
こうなってしまうと、これら3城の陥落も時間の問題となり、唯一、善戦したとされる9000の兵が守る「一宮城」は、羽柴秀長本人が指揮を執り、「兵糧攻め」及び「水断ち」の奇策で7月中旬には陥落となりました。
追い詰められた長宗我部元親
もはや四国を平定していたはずの元親でさえ、秀吉軍の圧倒的軍事力の前には歯が立ちません。
主要な諸城は次々と落とされ、元親本隊にまで、秀吉軍が近づいて来ています。
元親は、東側に「羽柴秀長」「羽柴秀次」隊に、西側に「小早川隆景」隊の毛利勢に、完全に挟み撃ちされる格好となりました。
元親のいる「白地城」に帰還した「谷忠澄」は、元親に次のように降伏を勧めたと言います(南海治乱記)
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。
兵糧も多くて心配することは少しもない。
これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。
武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。
小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。
国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。
これに対し元親は、次のように返事をしたと言います。(元親記)
縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、
この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、
又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、
信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、
海部表への御働を相待つ筈なり。
元親記ではさらに、一度も相合戦をせずして降参するのは恥辱であり、たとえいかなる軍勢で攻め入って来られようとも、最期まで徹底抗戦する、と言っています。
また降伏を勧める「谷忠澄」を罵倒し、切腹しろ、とまで言っています。
ついに降伏 長宗我部元親
しかし、元親がいくら虚勢を張ろうとも、戦局の体制は決まっています。
もはや、長宗我部勢に秀吉軍を討って返す力は残っていません。
元親は、「谷忠澄」を始めとする重臣らの説得を受けて、最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏し、8月6日に講和が成立します。
講和の条件は、下記の通りとなりました。
一、土佐一国の安堵
一、長宗我部当主が毎回3000の兵を率い軍役を務める
一、人質提出
一、徳川との同盟破棄
元親はこれを受け、講和となりました。
四国平定戦 自刃 討死武将
【羽柴秀吉軍】 | 【長宗我部軍】 | ||
不明 | 不明 |
【羽柴秀吉軍】 | 【長宗我部軍】 | ||
10万を超える大軍と3方向からの攻撃 | 圧倒的軍事力の前に歯が立たず |
四国平定後 国分け
秀吉の四国平定後による四国の国分けが行われました。
「土佐国」:長宗我部家
「阿波国」:蜂須賀家政(一部に赤松則房)
「讃岐国」:仙石秀久(聖通寺城)、うち山田郡2万石に十河存保(十河城)、
「伊予国」:小早川隆景(一部に小早川秀包、安国寺恵瓊、来島通総、得居通幸)
また、淡路(島)には脇坂安治が津名郡3万石(洲本城)、加藤嘉明が津名・三原郡1万5000石(志知城)を与えられました。
四国平定戦 まとめ
1585年6月16日に秀吉の、四国平定の命が出てから、わずか二か月後の8月末には長宗我部元親が降伏して、四国平定が完了しました。
これで秀吉の目指す天下統一は、九州(島津氏)と関東の一部(北条氏)を残すのみとなりました。
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