秀吉、天下統一へ!北条攻め!
豊臣秀吉vs北条氏
【小田原征伐】
1587年(天正15年)中には、「九州平定」を完全に終えた秀吉は、翌年の1588年(天正16年)4月、「後陽成天皇」の聚楽第「行幸」を行いました。
もはや秀吉は「関白」となっており、北条氏に対しても「氏政・氏直」親子の聚楽第行幸への列席を求めましたが、氏政はこれを拒否してしまいます。
行幸には、他の東国の大名たちも、使者を派遣して対応したにも関わらず、「北条氏」は使者の派遣すら行わず、京では北条討伐の声も上がっていました。
5月、東国の取次役でもある「徳川家康」は、北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め、8月には氏政の弟の「北条氏規」が名代として上洛し緊張は和らいだに見えました。
しかし、12月に「北条氏政」が弁明のために上洛するという約束は果たされずに終わり、翌年1588年(天正16年)、秀吉は北条氏の従属の条件となっていた「沼田城」の割譲についても、3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、北条側に譲歩した裁定を行いました。
北条氏からすれば、成り上がりの百姓関白ごときに、往年のブランド大名である「北条氏」は、いちいち口出しされる筋合いは無いと思っており、その年の10月、真田領となっていた「名胡桃城」に沼田城代「猪俣邦憲」を侵攻させ奪取、秀吉の下した裁定に軍事力で覆すことになりました。
この北条氏の一連の行動に、秀吉は怒り(ある意味、北条征伐の大義を得た形になった)、北条討伐を決めることになります。
こうして始まった秀吉の「小田原征伐(北条征伐)」が始まることになります。
豊臣秀吉vs北条氏政・氏直
小田原攻め 合戦までの経緯
実は秀吉、北条征伐を決めるまでに、再三にわたる北条の非なる行動に我慢をしています。
まず一つは、後陽成天皇の聚楽第行幸への列席を拒否したこと。
二つめは、行幸欠席の弁明のための北条氏政の上洛の約束を破棄したこと。
三つ目は、真田領の名胡桃城への侵攻を勝手に行ったこと。
四つ目は、北条氏邦の下野国の宇都宮国綱を侵攻したこと。
これらはすべて秀吉の施策に反する行為であり、北条氏の度重なるこれらの行動に際し、秀吉は「北条氏政」もしくは「北条氏直(嫡男)」の上洛を求めていましたが、それをすべて拒否していたのです。
ついに秀吉は、1588年(天正15年)11月までに「北条氏政の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを決定します。
秀吉と北条の間を取り持っていた「徳川家康」も、どちらかと言えば「北条」寄りで事を進めていたにも関わらず、ついに北条への仲介を断念し、12月、秀吉の意向に沿い北条討伐の準備をすることになります。
小田原攻め 出陣 合戦状況
「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。
所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」
訳:天道に氏直が天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう輩(氏直)には誅伐を加えることにした。
【出陣状況】
2月上旬:「豊臣秀次」「徳川家康」「前田利家」「織田信雄」「蒲生氏郷」⇒2月25日「三枚橋城」に着陣。3月3日に豊臣秀次、蒲生氏郷の軍勢到着。
2月20日:志摩国に「九鬼嘉隆」「来島通総」「脇坂安治」「加藤嘉明」「長宗我部元親」「宇喜多氏」「毛利氏」らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し出航。2月27日に「駿河国清水港」へ到着。
3月1日:「豊臣秀吉」出陣。
3月15日:「前田利家」「上杉景勝」「真田昌幸」「依田康国」⇒碓氷峠へ進軍。
3月27日:秀吉「三枚橋城」に着陣。「津軽為信」「戸沢盛安」も参陣。
3月28日:「松井田城」攻めを開始。
3月29日:「山中城」が攻められ陥落。
「小田原征伐 秀吉軍の出陣 青:北条側守備 赤:秀吉軍の位置 (包囲前)」
小田原城布陣 出陣した諸将
【豊臣秀吉軍】
主力部隊
「豊臣秀吉」「徳川家康」「織田信雄」「蒲生氏郷」「黒田孝高」「豊臣秀次」「宇喜多秀家」「細川忠興」「小早川隆景」「吉川広家」「石田三成」「宮部継潤」「堀秀政」「池田輝政」「浅野長政」「長束正家」「立花宗茂」「大谷吉継」「石川数正」「増田長盛」「高山右近」「筒井定次」「蜂須賀家政」「大友義統」「加藤清正」「福島正則」約17万。
水軍部隊
「長宗我部元親」「加藤嘉明」「九鬼嘉隆」「脇坂安治」約1万。
北方部隊
「前田利家」「上杉景勝」「真田昌幸」約3万5千。
総計約21万。
【北条軍】
小田原城部隊
「北条氏直」「北条氏政」「北条氏照」「成田氏長」「垪和康忠」「松田憲秀」「笠原政晴」「笠原政尭」
その他諸城部隊
山中城「松田康長」
忍城「成田泰季」
韮山城「北条氏規」
松井田城「大道寺政繁」
鉢形城「北条氏邦」
総計約5.6万。
秀吉の出陣から概ね1か月後の4月3日。
ひでよしは小田原に着陣し、豊臣軍による小田原包囲網が出来上がりました。
豊臣軍21万vs北条氏5万6000!
その差は実に15万4000。
小田原征伐 兵力差
兵力差
【豊臣軍】 | 【北条軍】 | ||
21万 | 5万6000 |
戦闘目的
【豊臣軍】 | 【北条軍】 | ||
北条討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【豊臣軍】 | 【北条軍】 | ||
豊臣秀吉・豊臣秀次・黒田官兵衛 他 | 北条氏康・北条氏直 他 |
小田原征伐 小田原城包囲 経過
山中城 鷹之巣城 足柄城 侵攻
1590年(天正18年)3月29日、相応の兵が終結した小田原周辺に、まず小田原城の西の守りである「山中城」へ侵攻。
大将を「豊臣秀次」とし、鉄壁の城も豊臣軍の軍勢の前に数時間の戦闘で落城。
守将の松田康長は北条氏勝兄弟を逃したのち、手勢を率いて玉砕。
同日に徳川隊が「鷹之巣城」を落とし、同じく箱根越えの要衝であった「足柄城」も守備隊が小田原城守備軍に合流したため、翌日の4月1日に落城します。
小田原城進軍への経路(城)が次々と陥落したため、秀吉本隊は早くも4月3日に小田原に到着しました。
「小田原征伐 黒:秀吉軍が小田原城進軍の際に攻め落とした城 青:小田原城」
韮山城 下田城 玉縄城 侵攻
小田原城の支城である「韮山城」攻めは、1590年(天正18年)3月29日から6月24日まで続きました。(籠城戦)
豊臣軍は軍勢約4万4000、対する守備の「韮山城」は「北条氏親」を大将とした約3600の兵で守ります。
結局、北条氏親は4ヶ月以上に渡り籠城しましたが、徳川家康が交渉役として、北条領内の城が次々に落城している現状を伝えて説得したため、最期は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得に尽力を尽くすことになります。
下田半島の小田原沖に在している「下田城」の清水康英は、北条軍にとって水軍の拠点でもあり、城兵600余で籠城戦に持ち込みます。
しかし、豊臣軍の水軍部隊である「脇坂安治」や「安国寺恵瓊」らの攻めもあり、約50日のあいだ籠城するも降伏し開城。
これにより、北条水軍の拠点であった、伊豆半島沿岸の水軍拠点が落とされ、小田原城沖の海上を完全に封鎖します。
山中城の落城の際に脱出し落ち延びていた「北条氏勝」は、手勢700騎を率いて居城の「玉縄城」で籠城します。
しかし、徳川隊の「本多忠勝」隊に城を包囲されるも、使者である大応寺「良達」による説得に応じ、4月21日に降伏開城します。
北方軍(北国勢・信州勢)の侵攻
豊臣秀吉は、小田原征伐の進軍に北国勢(前田利家・上杉景勝他)と信州勢(真田信幸・松平康国・康勝他)も呼び寄せています。
碓氷峠越えの際に、北条側の「大道寺政繁」と抗戦となるも、豊臣勢の圧倒的兵力差で、「松井田城」に押し戻しています。
「大道寺政繁」を押し戻した「松井田城」攻めでは、3月28日から約一ヵ月間の4月20日まで続きました。
豊臣軍(前田・上杉・真田・松平)約3万5000で、守備側は約2000。
豊臣軍は、城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けますが、大道寺政繁の必死の抵抗にあい城攻略は停滞します。
秀吉からの、小田原城包囲への時期が早まり、早期落城の催促に作戦を変更し、総攻撃を開始。
前田・上杉隊は、兵糧攻めと水の手を絶ち、城回りの櫓砦をひとつづつ落とし、籠城から一か月後の4月22日に、ようやく陥落しました。
前後して北方隊は4月17日頃に「国峰城」、「厩橋城(4月19日)」、「箕輪城(4月23日)」、「松山城(5月22日)」、「西牧城」、「石倉城」など上野・武蔵北西部の各城を攻め落とします。
北条側の支城は、それぞれ主力や当主自身が小田原城にて籠城戦を敷いており、城代家臣や留守兵、領民しか残っていなかったため、圧倒的な軍事力の前に降伏もしくは、城を捨てて敗走する以外の選択肢しかありませんでした。
「小田原征伐 北国・信州勢の進軍 黒:落城した城 青:小田原城」
南方からの進軍
秀吉は、圧倒的軍事力で包囲している小田原城から、北方面への支城攻略に、徳川勢を主力として進軍させます。
「浅野長政」隊を大将とした下総方面軍は、5月5日に「小金城」、10日に「臼井城」、18日には「本佐倉城」を落とし、下総方面作戦も順調にすすんでいました。
武蔵国方面の「川越城」は、大道寺政繁の嫡男「大道寺隼人」が守っていましたが、父政繁の説得もあり降伏開城しました。
5月20日には「岩付城」、6月14日「鉢形城」が落城し、このころの北条軍は、もはや豊臣方の圧倒的軍勢の前に、戦闘意欲を放棄し豊臣方に降伏している事が目立ってきます。
秀吉も、敵である北条諸将の不甲斐無さを「北条諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られるほどであったと言います。(浅野家文書)
「小田原征伐 南方からの進軍 黒:落城した城 青:小田原城」
忍城の戦い
秀吉の小田原征伐で、唯一苦戦(敗戦)したともいえる戦いが、「石田三成」を大将とした「忍城(おしじょう)の戦い」です。
6月5日から7月17日までの激戦となりましたが、城守「成田奏季」は、小田原城が降伏するまで徹底抗戦し、小田原城降伏後に「北条氏長」の説得により開城となりました。
小田原征伐 伊達政宗もついに観念か…、白装束での謁見。
小田原城の包囲から早2か月、以前から上洛の要請をしているにもかかわらず、いまだに参陣すらしない「伊達政宗」に、秀吉はイラつきはじめます。
当時の伊達家は東北を手中にしており、北条氏とも同盟関係にあったため、秀吉の参陣要請に対し、「北条or豊臣」を決するまでかなり迷ったに違いありません。
最終的には、「秀吉」に付くことを決めた伊達政宗ですが、要請から4か月以上経ってしまったことで、死を覚悟し、白装束で謁見することになります。
この政宗のパフォーマンスに秀吉は、一旦は驚くものの天下人に相応しい懐の深さを見せ、政宗の遅参を許します。
こうして小田原城は、もはや援軍すら来ない孤立無援の状況に追い込まれます。
伊達政宗が、秀吉に恭順の意を示してから1か月弱の7月5日、北条氏直がついに決断します。
小田原城 ついに降伏開城へ
1590年(天正18年)4月3日から、小田原城が包囲されてから籠城すること3か月。
豊臣軍の圧倒的軍事力の前に、手勢の各諸城も降伏となり、最期の与力と期待していた奥羽の「伊達政宗」も、6月9日に秀吉に帰順しており、もはや北条氏側の降伏は時間の問題となっていました。
抵抗する諸城も、反撃する軍勢も無くなった6月中旬には、北条氏政の母である「瑞渓院」と、継室の「鳳翔院」が自害し、さらに6月23日に落城した「八王子城」からは多数の首が送られ、また将兵の妻子が、城外で晒し者にされたことも「北条氏側」の士気低下に拍車をかけます。
6月24日に「韮山城」が落城し、北条側の降伏が決定的とされたのは、6月26日に小田原城を見下ろす笠懸山(石垣山)に、総石垣を誇った「一夜城(石垣山城)」が完成したこともあり、これで完全に小田原城の息の根を止められたと、北条側に強烈な印象をもたらしました。
その後秀吉は、最期の使者として「黒田官兵衛」と「滝川雄利」を「北条氏政、氏直」の元に遣わせます。
そして7月5日、北条氏直は、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられました。
その後、北条氏直は、徳川家康の娘、督姫の婿でもあったため切腹は見送られるものの高野山へ蟄居となり、翌年2月に赦免されたものの11月に病死します。
小田原戦の責は、前当主である「北条氏政」と「北条氏照」、家臣代表として「松田憲秀」と「大道寺政繁」に開戦の責があるものとして切腹が命じられました。
最期まで抗戦となった「忍城」は、小田原城での降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城となり、北条氏の旧領は、ほぼそのまま「徳川家康」が引き継ぐことになりました。
切腹・討死武将
【豊臣軍】 | 【北条軍】 | ||
不明 | 北条氏政・北条氏照・松田憲秀・松田康長・大道寺政繁 他 |
小田原征伐 勝敗
【豊臣軍】 | 【北条軍】 | ||
圧倒的軍事力差による勝利 | 圧倒的軍事力の前に多勢に無勢(衆寡敵せず) |
小田原征伐 まとめ
1590年(天正18年)4月3日に小田原城を包囲し、7月4日に北条氏直が降伏した3か月で、豊臣秀吉の小田原城征伐は終了しました。
その後、北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となりました。
翌年に、陸奥と出羽の国衆たちが豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こしますが、6月、「豊臣秀次」を総大将とした総勢6万の大軍を奥羽に出陣させ、一揆衆の鎮圧に当たらせます。
9月1日に奥羽に到着した鎮圧軍は、武装蜂起していた「九戸政実」を攻撃し4日には一揆鎮圧を完了させました。
この鎮圧をもって、豊臣秀吉の天下統一が完成し、応仁の乱(1467年)から始まったとされる、124年もの間続いた戦国時代の終わりが告げられることになりました。(戦国時代の長さには諸説あり)
ただ、戦国の世が終わったと思っていたのは、秀吉だけだったのかもしれません。
なぜなら、領有する石高は「徳川家康」の250万石に対し、秀吉は全国を統一してはいるものの、自身の石高は約230万石と、家康より少なかったのです。
家康がこのまま黙って、秀吉の天下に従うはずもありませんよね。
この後の展開は、あなたも知っての通りです♪
コメント