【備中高松城の戦い】黒田官兵衛の水攻め完成!その時、本能寺で…⁉清水宗治の天晴な最期!

信長全合戦

 

全長4㌔、高さ8mの堤防完成!

黒田官兵衛「水攻め」!

その時、本能寺で…⁉

【備中高松城の戦い】

1580年(天正8年)8月、毛利と組みしていた「石山本願寺」を制圧し、主導者であった「顕如・教如」を追い出すことに成功した信長は、その後、加賀一揆衆を平定し、北陸方面をほぼ手中に収め、甲斐の武田勝頼を1582年(天正10年)3月11日に倒し、武田家を滅亡させ、残るは中国方面の毛利を倒すのみとなっていました。

その秀吉の、中国侵攻の前に、壁として立ち塞いだのが、清水宗治の「備中高松城」でした。

織田軍の中国侵攻司令官である「羽柴秀吉」と、毛利軍「清水宗治」との間で合戦となったのが「備中高松城の戦い」と言います。

秀吉が、軍師「黒田官兵衛」による献策で、高松城を水攻めによって包囲したことから、「高松城の水攻め(水責め)」とも呼ばれています。

早速、紐解いてまいりましょう。

秀吉
よっしゃ~、官兵衛の秘策「水攻め」で、攻めりゃ~!

備中高松城攻め 場所 地図 アクセス

高松城は、現在の岡山県岡山市北区高松にあり、讃岐高松城と区別して「備中高松城」と呼ばれています。

羽柴秀吉による「水攻め」で有名となったお城です。

「備中高松城」

備中高松城

備中高松城本丸跡

備中高松城 航空写真

黒田官兵衛秘策!秀吉の水攻め

織田方に寝返った「宇喜多秀家」が領有する備前岡山から先は、毛利の勢力範囲であったため、織田軍と毛利軍は、備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることになります。

1582年(天正10年)3月15日、秀吉は2万の軍勢を率い姫路城出陣します。

途中、「宇喜多」軍1万を加えた、総勢3万の軍勢で備中高松城へと入ります。

「備中高松城」は、当時としては少なかった低湿地を利用した沼城(ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かったと言います。

城守は「清水宗治」で、5,000の兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではありませんでした。

そのため秀吉は、周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は3万の大軍で城を包囲します。

そして2度にわたって攻撃を試みるも、討って出た城兵の逆襲を受けて敗退します。

織田軍が「備中高松城」を包囲したという報せを聞いた「毛利輝元」は、4万の援軍を率い備中へと進軍、秀吉は信長に対して援軍を求めます。

信長からは、丹波を平定させた明智光秀隊を送るとの返事を得たものの、「備中高松城」の攻略に手をあぐねていました

そこに、黒田官兵衛秘策を秀吉に進言します。

官兵衛
秀吉様、城の周りに堰を築き、川の水を流し入れ、城を水攻めにしましょう!
秀吉
官兵衛、それは良い策じゃ! そりゃ、水攻めじゃ~!

低湿地にある沼城という、本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った、黒田官兵衛奇策であったといえます。

この策を受け入れた秀吉は、直ちに築堤着手します。

足守川の東・蛙ヶ鼻から全長約4km、高さ約8m、幅12mの堤防を築き、そこに足守川の水を引き込むことで、「備中高松城」を水の中に浮かぶ浮城にしてしまったのです。

援軍に駆け付けた毛利軍の「小早川隆景」「吉川元春」らは、孤立する「備中高松城」の前に、成す術がなかったと言います。

堰堤址(蛙ヶ鼻)

堰堤跡から発掘された蛙ヶ鼻堰堤基礎部分

備中高山城水攻め 参考:おかやま観光ネット

堤防(堰)の建設費は…?

堰はいくらかかったのか…?

「武将感状記」によると、築堤の総工費は63万5040貫文、米6万3504石というもの。

戦国時代の1貫(銭1000枚)が約10万円とすると、今のお金に換算すれば…、

63,504,000,000円となります。(635億400万円)

ちなみに東京タワーが現在の金額に換算して約170憶円(当時約30憶円)、スカイツリーが約650憶円、東京ドームが約380億円(当時350憶円)でした。

信長の天下統一による、最後の総仕上げ(毛利攻め)とはいえ、当時としては莫大な金額ですね。

ひゃ~。(汗)

備中高松城の戦い 織田軍vs毛利軍 布陣 戦力比較

兵力差

【織田軍】 【毛利軍
3万  5000(籠城兵)

戦闘目的

【織田軍】 【毛利軍】
備中攻略 攻略阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【毛利軍】
羽柴秀吉。羽柴秀長・黒田官兵衛・蜂須賀正勝・羽柴秀勝 他 清水宗治・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景 他

合戦のゆくえ

黒田官兵衛の奇策による水攻めで、完全に水に浮かぶ孤島となってしまった「備中高松城」

1582年(天正10年)5月8日から堤防を築き、わずか12日でこれを完成させ、5月21日に「毛利輝元」らが援軍に来るも、すでに堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きが出来ず、さらに信長の援軍が送られてくることから、秀吉との講和決意します。

織田信長覇道の全合戦

講和条件

毛利方は、僧の「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」を秀吉軍に派遣し、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示します。

しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉は一旦決裂

毛利輝元は清水宗治に対し、すでに「救援が不可能」である事、「秀吉に降伏すべき」という旨を伝えるものの、宗治は「自分の命は城と共に」として、輝元の進言拒みます

輝元は、再度「安国寺恵瓊」を、宗治の元に送り込んで説得を試みるも、宗治は「主家である毛利家と、城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安い」と述べ、兄の「月清」と弟の「難波宗忠」の首を差し出すので、城内の者の命を助けるようにと「安国寺恵瓊」に託します。

その時…

ちょうどこの頃(6月3日夜)、秀吉方は「明智光秀から毛利方に送られた使者」を捕らえ、信長が明智光秀の謀反によって京都の本能寺で落命したという密書を手にします

いわゆる「本能寺の変」です。

黒田官兵衛

事態を知り、慌てふためく秀吉に対して、黒田官兵衛は「光秀を討てば、天下が回ってきましょうぞ」と秀吉を鼓舞。

秀吉は、信長落命の事実を毛利方に知られることなく、一刻も早く毛利と和睦して明智光秀を討つべく上洛する方針を固めます。

翌6月4日に秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割地を河辺川と八幡川以東の割譲(先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国譲歩)とし、「清水宗治自刃」和睦条件として提示します。

毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立することになりました。

武士としての大義に生きた清水宗治の最期

「清水宗治」は、秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、自刃への身支度を整えます。

自らの城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎ出した宗治。

船上で舞を踊り、美しい辞世の句を詠むと、宗治は切腹。

秀吉は宗治の最後を見届けると、武士の鑑として宗治を称賛し、礼をつくして葬ったといいます。

「清水宗治辞世の句」

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

清水宗治辞世の句 参考:おかやま観光ネット

清水宗治

清水宗治首塚

備中高松城の戦い 討死武将

【織田軍】 【毛利軍】
不明 清水宗治 他

 

【織田軍】 【毛利軍】
黒田官兵衛秘策「水攻め」 水攻めの前に成す術なし

備中高松城の戦い その後 まとめ

1582年(天正10年)4月15日、秀吉の「備中高松城」の包囲から始まったこの合戦は、6月5日、城主「清水宗治」の切腹により、織田軍の勝利となって終わりました。

黒田官兵衛の奇策「水攻め」が、功を奏し、毛利軍の援軍も手も足も出せず決着となりました。

このわずが2日前(3日夜)、「本能寺の変」の報せを、毛利方の間者を、秀吉軍が捕らえられたことは、運命のいたずらとしか言いようがありません。(報せが毛利方に渡っていたら…?)

また、信長の死を、ひたすら毛利方へ知られぬことなく、和睦を進められたことも、秀吉に運も味方したのかもしれません。

秀吉は、清水宗治の切腹後、翌日6日の昼過ぎに京に向けて移動を開始します。

高松城に「杉原家次」を置き、中国大返しとなります。

毛利方が「本能寺の変」報せを入手したのは、秀吉が撤退した翌日(7日)の事でした。

 

【あとがき】

筆者

北陸(富山)の「魚津城の戦い」といい、今回の合戦といい、「信長の死」の報せが、わずか数日違っていれば…。

その後の、歴史は大きく変わっているんじゃない~。

こんな偶然が、2か所で同時に起こっているなんて…。

これも歴史のロマンなのぉ~???

 

 

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