謎の合戦…?
「三河野寺原の戦い」とは、観泉寺所蔵文書に見られるものの、信長の歴史を辿る上で一級資料と言われる「信長公記」には記載がない謎の合戦と言われています。
唯一史料として記述されているのが「観泉寺所蔵文書」ですが、観泉寺は今川氏菩提寺ということから、今川家の記録として残されているものです。
このコーナーでは「信長公記」には見られない「三河野寺原の戦い」を紐解いてまいります…。
三河野寺原の戦い 経緯
合戦の前年(1555年)に叔父であり良き協力者であった織田信光が暗殺され、信長は尾張下四郡(知多・愛智・海東・海西)を支配しているとはいえ、周りには同族でありながら敵対しているものが多い状況です。しかも、東側(三河以東)は今川義元の脅威に迫られています。
この頃の三河は、松平家(家康)はすでに今川傘下に入っており三河は事実上今川領となっていました。
その時家康(当時12歳)は今川家の人質となっていました。
三河には守護「吉良義昭」がいたのですが、今川に従属している状態ですので今川の命には従わねばなりません。
吉良家は足利(幕府)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐと言われた名門の一族です。
いつかは名門吉良家の復活を期していましたが、そのチャンスがついに巡ってきます。
昨年(1555年10月)に今川家の軍師「太原雪斎」が死ぬと吉良義昭は尾張の織田信長に寝返ります。
そして翌年(1556年)3月に、義昭の手引きで信長が三河に攻め入るのです。
三河野寺原の戦い 場所
「三河野寺原の戦い」が行われた場所は、現在では古戦場址などの案内はありませんが、愛知県安城市野寺町野寺だと言われています。
現在はのどかな田園風景となっています。
信長に寝返った「義昭」ですが、今川の侵攻に合い居城である西条(西尾城)を奪われます。
そこへ義昭の手引きを得て信長は三河へ攻め入ります。
しかし、途中にある「鳴海城」は今川に奪われていましたので、信長は「*中入り」戦術で西条まで侵入し、「野寺原」の地で今川軍と合戦となります。
*「中入り」戦術:敵と対峙している隙に、別動隊を敵の懐へ潜り込ませる戦術。
三河野寺原の戦い 織田vs今川 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
![]() |
不明 | 不明 | ![]() |
戦闘目的
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
![]() |
三河侵攻 | 侵攻阻止 | ![]() |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
![]() |
織田信長・吉良義昭 他 |
不明 | ![]() |
三河野寺原の戦い 戦果
三河野寺原の戦いの戦果は「観泉寺所蔵文書」にも記述がなく詳細が分かりませんので「引き分け」と判定。
【織田軍】 | 【今川軍】 | ||
![]() |
引き分け | ![]() |
引き分け |
三河野寺原の戦い まとめ
「三河野寺原の戦い」は詳しい記述がなく引分けとしましたが、「信長公記」には戦いの翌月(4月)に、信長と今川義元がそれぞれの守護(信長は尾張守護「斯波義銀」、義元は三河守護「吉良義昭」)を擁して上野原(愛知県豊田市)で会見をしたとあり、「吉良義昭」は再び今川傘下に入っています。
その後「吉良義昭」は、今川義元が信長に討たれ、信長と同盟した家康と戦い敗れて消息を絶ちます。
しかし兄の義安が吉良家を継ぎ、赤穂浪士で知られる吉良義央(上野介)を輩出することになります。
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