叔母「おつやの方」に裏切られ奪われた「岩村城」奪還へ!
【織田信長軍vs武田勝頼軍】
3年前の「第一次岩村城の戦い」で、信長の叔母である「おつやの方」の裏切りに合い、奪われていた「岩村城」奪還戦となる「第二次岩村城の戦い」!
この戦いが始まる一月前、織田信長と武田勝頼は、長篠設楽原で壮絶な合戦を繰り広げました。(長篠の戦い)
信長軍の鉄砲隊による新戦法で、大敗を喫することになってしまった武田軍ですが、信長はこの好機を逃さず、武田軍に体勢を整える暇も与えず、岩村城の奪還を目指し、嫡男の「信忠」に命じます。

1575年(天正3年)6月に、嫡男「信忠」を大将にはじまった合戦を「第二次岩村城の戦い」といいます。
早速、紐解いてまいりましょう。
第二次岩村城の戦い 場所 地図 アクセス
岩村城(いわむらじょう)は岐阜県恵那市岩村町にある山城です。別名「霧ヶ城」とも言われています。
現在では岐阜県の指定史跡となっています。
第二次岩村城の戦い 信長の動き
1575年(天正3年)5月21日に長篠の戦いにおいて、「武田勝頼」は織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、武田重臣の「山県昌景」「馬場信春」ら多くの重臣を失います。
武田軍が弱体化したこの好機に信長はすぐさま、嫡男の「信忠」に岩村城の侵攻を命じました。
信忠は、6月13日には「岩村城」を完全包囲したものの、岩村城は籠城作戦を取ります。
第二次岩村城の戦い 織田軍vs武田軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
![]() |
3万 | 不明 | ![]() |
戦闘目的
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
![]() |
岩村城奪還 | 奪還阻止 | ![]() |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
![]() |
織田信長・織田信忠・毛利長秀・河尻秀隆 他 | 武田勝頼・秋山信友・山県昌景・馬場信治 他 | ![]() |
第二次岩村城の戦い 合戦のゆくえ
岩村城の籠城は思いのほか長期戦へと持ち込まれ、開始されてから5か月が過ぎた11月10日、補給路を断たれていた岩村城は、この窮地を脱するべく岩村城兵が、信忠が陣を置く水晶山に夜襲を掛けてきました。
それに対し「信忠」軍は、河尻秀隆・毛利秀頼らが対抗し、逆に返り討ち、武田方の遠山五郎友長・澤中左忠太光利・飯妻新五郎・小杉勘兵衛らの大将格21人と、籠城兵の3分の1に当たる約1000人を討ち取ります。
岩村城主で大将の「秋山信友(虎繁)」は、もはやここまでと悟ったのか、「塚本小大膳」を使者に立て、信長に降伏を申し出ます。
信長はその申し出を受け入れますが、自分の叔母のおつやの方を自らの妻にして岩村城を乗っ取った「秋山信友(虎繁)」と、信友(虎繁)と結婚して武田方に寝返った叔母の「おつやの方」を憎悪していたため、11月21日に秋山信友(虎繁)が赦免の参礼に来たところを捕らえて岐阜に連行し、おつやの方も岐阜城近くの長良川の河原で逆さ磔の極刑に処します。

岩村城が開城された後、甲斐、伊那から来ていた武田方の残党は、帰国を許されますが、岩村城から南方にある木の実峠で織田軍に挟み撃ちにされて全員が殺されました。
討死武将
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
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不明 | 秋山信友・座光寺爲清・遠山市丞 他 | ![]() |
【織田軍】 | 【武田軍】 | ||
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多勢に無勢 | ![]() |
籠城による飢餓状態で討って出るが惨敗 |
第二次岩村城の戦い その後 まとめ
長篠の戦いで武田側が大敗した直後の、この合戦は、もはや始まる前から決着は付いていたと考えられます。
武田軍はすでに弱体化し、援軍を出せるような状況ではなかったはずで、信長は敵が(こらえきれずに)出てくる所を討ち取れば良いだけでした。
それにしても降伏を受け入れながらも、2人(秋山信友(虎繁)・おつやの方)を磔にし殺してしまう信長の執念は恐ろしいものがありますね。
「当代記」では、信長自らおつやの方を斬ったと書かれています。
人質となっていた坊丸(勝長/信長四男)は返されましたが、本能寺の変で敗死することになります。
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