信長全合戦

【大良河原の戦い】信長、救援失敗!斉藤道三(濃姫父)を救えず!

義父「斎藤道三」の救援も叶わず! 信長、返り討ちに…! 「大良河原の戦い」とは、美濃の「斉藤道三(濃姫父)」と嫡男の「斎藤義龍」の争い(長良川の戦い)後に、勝利した「斎藤義龍」が信長に兵を差し向け、大良河原(岐阜県羽島市)で起こった合戦を言います。 信長の正妻である濃姫の父「斎藤道三」の援軍に向かった信長ですが、大良の地で陣を置いたものの、敵の数の多さに衆寡敵せず(義龍軍1万7500/道三軍2700)の状態で手が出せません。 やがて道三と義龍の戦い(長良川の戦い)は、義父の道三が敗れ義龍の勝利に終わるものの、義龍は信長のいる大良にも兵を向けたのです。 そうして「大良河原の戦い」は始まったのです。 大良河原の戦い 戦況 濃姫の父である「斎藤道三」と嫡男「斎藤義龍」の争いは、道三が義龍の弟である「孫四郎」と「喜平次」を溺愛するあまり、道三と義龍の関係は不仲となり、義龍が謀略により2人の弟を殺したことから始まりました。 信長は道三とは同盟を結んでいるものの、父と争いになった義龍との戦いでは、信長は道三援軍に向かわなければなりません。 信長は兵を出すものの、義龍軍の数(1万7500)は圧倒的優位で、手も足も出せない状況です。 やがて、道三と義龍の決着が付き、これで終戦かと思いきや、勝利で士気の上がっている義龍軍は、父道三の首実検を終えたあと、援軍を出していた信長にも兵を差し向けてきたのです。 大良河原の戦い 場所 合戦図 大良河原の戦いのあった場所は、現在の岐阜県羽島市正木町大浦新田とされていますが、詳細の記述がないために正確ではありません。 ただ、陣を退く際に、大河を背にして味方の兵を先に逃げさせたと「信長公記」に記述がありますので大きな川の河原であった事は間違いないと考えられています。 現在はこんな感じ。大きな川ですので、当時はもっと大きく感じたのでしょうね…。 信長は道三の援軍に来てはいますが、敵対している岩倉織田家の「織田信安」が信長の居城清州城下を*放火したとの報を受けます。 (*当時の岩倉織田家岩倉城主「織田信安」は上尾張四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を収めており、下四郡(海東・海西・愛知・知多)を収めている信長とは敵対していました)
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【三河野寺原の戦い】吉良義昭信長に寝返る…⁉観泉寺所蔵文書に見られ「信長公記」には記述がない『謎』の戦い!

謎の合戦…? 「三河野寺原の戦い」とは、観泉寺所蔵文書に見られるものの、信長の歴史を辿る上で一級資料と言われる「信長公記」には記載がない謎の合戦と言われています。 唯一史料として記述されているのが「観泉寺所蔵文書」ですが、観泉寺は今川氏菩提寺ということから、今川家の記録として残されているものです。 このコーナーでは「信長公記」には見られない「三河野寺原の戦い」を紐解いてまいります…。 三河野寺原の戦い 経緯 合戦の前年(1555年)に叔父であり良き協力者であった織田信光が暗殺され、信長は尾張下四郡(知多・愛智・海東・海西)を支配しているとはいえ、周りには同族でありながら敵対しているものが多い状況です。しかも、東側(三河以東)は今川義元の脅威に迫られています。 この頃の三河は、松平家(家康)はすでに今川傘下に入っており三河は事実上今川領となっていました。 その時家康(当時12歳)は今川家の人質となっていました。 三河には守護「吉良義昭」がいたのですが、今川に従属している状態ですので今川の命には従わねばなりません。 吉良家は足利(幕府)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐと言われた名門の一族です。 いつかは名門吉良家の復活を期していましたが、そのチャンスがついに巡ってきます。 昨年(1555年10月)に今川家の軍師「太原雪斎」が死ぬと吉良義昭は尾張の織田信長に寝返ります。 そして翌年(1556年)3月に、義昭の手引きで信長が三河に攻め入るのです。 三河野寺原の戦い 場所 「三河野寺原の戦い」が行われた場所は、現在では古戦場址などの案内はありませんが、愛知県安城市野寺町野寺だと言われています。 現在はのどかな田園風景となっています。 信長に寝返った「義昭」ですが、今川の侵攻に合い居城である西条(西尾城)を奪われます。 そこへ義昭の手引きを得て信長は三河へ攻め入ります。 しかし、途中にある「鳴海城」は今川に奪われていましたので、信長は「*中入り」戦術で西条まで侵入し、「野寺原」の地で今川軍と合戦となります。 *「中入り」戦術:敵と対峙している隙に、別動隊を敵の懐へ潜り込ませる戦術。 三河野寺原の戦い 織田vs今川 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】
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【守山城攻め】信次、信長の弟「秀孝(ひでたか)」を誤殺!

誤射で逃亡…! 「清州城攻略戦」で勝利し、織田信光から変わり守山城主となった「織田信次」は、1555年6月26日松川の渡し(庄内川)で川魚中、一人の少年が馬で通りかかり、その態度に腹を立てた家臣の「洲賀才蔵」が威嚇のため矢を放ったところ、それが運悪く少年に当たり命を落としてしまいます。 その少年が、信長の弟「秀孝」であったことで、守山城主「信次」は信長の怒りを恐れて逃亡してしまったことから、報復ともいえる戦となったのが「守山城攻め」のあらましです。 誤射とはいえ、信長の弟を殺してしまったゆえに、そのまま逃亡してしまうとは…、いくら何でも事が起こってしまいそうなもの…。 「守山城攻め」全容を見てまいります。 守山城攻め 背景 経緯 信次の家臣(洲賀才蔵)が誤射してしまうわずか2か月ほど前(4月20日)、信長と信次の兄である信光は「清州城攻略戦」により、敵対していた清州織田信友を自刃させ、尾張統一への足掛かりを作っていました。 信長の居城は那古野城から「清州城」へと移り、信光は守山城から「那古野城」へ、空いた守山城へ「信次」が城主となって入ることになりました。 これで尾張統一へ一気に加速すると思いきや、6月26日に信次は川魚中の渡し(庄内川)で、城主の目の前を馬に乗ったまま横切った少年を、家臣(洲賀才蔵)が腹をを立て威嚇するために矢を放ったものの、運悪く当り落命してしまいます。 落命してしまったその少年が信長・信行(信勝)兄弟の弟「秀孝」だったのです。 慌てた信次は、「信長が怒り、自分も殺される」と思ったのか、何も告げずに逃亡してしまいます。 何も告げずに逃亡した事がきっかけとなり、信長と信行(信勝)の怒りを買い「守山城攻め」が始まったのです。 守山城攻め 場所 合戦図 場所は現在の愛知県名古屋市守山区市場にあった平山城です。 (参考:Googleマップ) 弟「秀孝」の落命により、信長と信行(信勝)の行動は実に対照的な行動をとっています。 信行(信勝)は、居城である末森城からいち早く守山城に攻め入っています。 信長もすかさず状況を把握するために単騎乗り込んでいますが、事が分かった信長は清州へと引き換えします。 しかし信行は兵の侵攻を緩めず、城攻めを行っています。 それは、これ以上の離反者を出さないための措置であったと考えられています。
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【清州城攻略戦】坂井大膳を謀略せよ!織田信友切腹!

謀略で勝利! 1552年に信長の父信秀が亡くなって依頼、清州織田家「織田信光」とは敵対している信長。 萱津(かやつ)・安食(あじき)での両戦いで、いずれも信長が勝利をおさめたものの、未だに「信光」との関係は敵対状態。 しかし、この両者の戦いもついに決着の時が来ます。 1555年(天文23年)4月20日、決戦の場所は「清州城内」。 当時は「織田信光」の居城でした。 実はこの戦い、両者の間で激しい合戦が行われたのではなく、「織田信光」を自害に追い込みます。 そこには、信長渾身の「謀略」があったのです。 この戦い後、信長は尾張下四郡を制圧し、「尾張統一」への足掛かりとします。 父信秀の死後から3年目、敵対していた「織田信光」を自害に追い込んだ「謀略」とはいったいどのようなものだったのか…。 「清州城攻略戦」をお伝えしてまいります。 清州城攻略戦 背景 経緯 前年に「安食の戦い」で、重臣の河尻佐馬丞と織田三位を失い戦力を大きく失った織田信友は、最期の重臣である「坂井大膳」に今後の立て直しを任せます。 このままでは、信長から攻められてしまえば敗北しかないと悟った大膳は、信長と密にしている守山城主である「織田信光」に接触し、「信友様とお2人で尾張守護代を務めて欲しい」と、信光の懐柔工作に出ます。 信光を引き込むことによって、信長との関係を崩し、あわよくば、その隙を突き信長を殺そうと考えたのです。 信光はこれに応じ、大膳を信用させるためにも、二心ない事を起請文までしたためます。 そして、信用を得た信光は、清州城の南魯(みなみやぐら)の守りを任されることになります。 一方の信長と言えば、未だ尾張領内の統一が出来ず、その中でも清州城の織田信友は倒さなければならない存在です。 しかし、堅固な城塞である清州城は一筋縄ではいかない要塞で攻めあぐねていました。 そこで信長が取った行動が…、信友を窮地に追い込むことに成功するのです。 清州城攻略戦 場所 アクセス 「清州城攻略戦」が行われた場所は、現在の愛知県清須市朝日城屋敷1-1、現在の「清州城」そのものです。 お城に城主はなくてはならない存在ですが、戦乱の世、城主は次々と変わる事でもありました。 「清州城」織田信友居城⇒合戦後「織田信長」が勝利し居城とする。 「那古野城」織田信長居城⇒合戦後「織田信光」の居城となる。
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【安食の戦い】柴田勝家参戦!信長考案「長槍」で清州織田家を制す!

大義を得て出陣! 信長vs信友 信長の父信秀がこの世を去って依頼、清州織田家「織田信友」とは萱津の戦い(1552年天文21年)から敵対している。 そんな中、清州守護である「斯波義統(しばよしむね)」が、織田信友の家臣「坂井大膳」「河尻佐馬丞」「織田三位」に襲撃され殺害されます。 義統の子「義銀」はこの報せを受け、信長の居城である那古野城へ逃げ込みます。 これを機に、清州織田家「織田信友」を討つ「大義」を得た信長が兵と共に出陣します。 この戦いが「安食の戦い」(1554年天文23年7月18日)です。 父の信秀が死んでからわずか2年あまり、未だ信長と敵対する清州織田家「織田信友」との決戦。 信長が考案していた「長槍」が勝敗を左右することになります。 安食の戦い 背景 経緯 尾張守護として清州城に居住していた「斯波義統・義銀親子」。 守護とは名ばかりで、織田信友と家臣の坂井大膳の傀儡(思いのまま・操り人形)状態でした。 尾張守護代ではあるものの、清州織田家の「織田信友」は自らが守護を狙っていました。 そのような中、義統の子義銀が屈強の家臣を連れ川狩りへ出かけた際に、信友・坂井大膳らが「義統」を襲い殺害します。 義銀らは、信長の元(那古野城)へ逃げ込み助けを求めます。 この事がきっかけとなり「安食の戦い」は始まったのです。(注)中市場合戦ともいわれています。(信長公記) 安食の戦い 場所 合戦図 「安食の戦い」の場所は、現在の愛知県名古屋市北区と言われていますが正確な場所は分かっていません。 現在では那古野城と清州城のちょうど中間辺りではないかと推察されています。 (参考:Googleマップ) 「織田信友」討伐の大義を得た信長は、「柴田勝家」に命じ清州へ出陣します。 三王口で合戦が始まり、後退した信友勢は乞食村(春日井郡安食村)、続く成願寺で応戦しますが支えきれず、ついに町口大堀の中まで追い入れられてしまいます。 信友家臣の「河尻左馬丞」や「織田三位」らが奮戦しますが、信長考案の「槍」の勢いは鋭く、柴田勝家以下将兵が「佐馬丞」「織田三位」以下30騎を討ち取ります。 織田三位の首を取ったのは、義統の直臣だった「由宇喜一(ゆう きいち)」だったといいます。若干18歳の若者でした。 安食の戦い 信長vs信友 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【織田信友軍】
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【村木砦の戦い】織田家存続を賭けた桶狭間の前哨戦!信長が鉄砲を使い今川(義元)軍を撃破!

鉄炮炸裂! 織田信長が一躍戦国の世の表舞台に出たとされる「桶狭間の戦い」の6年前の1554年(天文23年)、合戦で初めて鉄砲を使い「今川(義元)軍」に勝利した「村木砦の戦い」。 隣国の巨大領主である「今川義元」とは、すでにこの頃から戦いは始まっていました。 桶狭間の戦いの前哨戦にもつながるこの戦いは、その後の「織田家存亡」の重要な意味を持った戦いだったのです。 そのような意味を持つ「村木砦の戦い」とはいったいどのような合戦だったのでしょうか…。 村木砦の戦い 戦況 信長の父、信秀が1551年に死んだ後、絶好の好機とばかり今川義元は尾張への侵攻をさらに強めます。 すでに尾張領内の一部である鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収め、続く知多の寺本城・重原城も抑えている今川義元は、唯一残っている水野信元が守る「緒川城」を攻略しようとします。 そこで義元は、緒川城のすぐ傍にある、水運に適した「村木の岬」に砦を築き三河の松平義春を城将としました。 緒川城の水野信元から援軍を受けた信長は、1554年(天文23年)1月21日に兵を率い那古野城を出発します。 翌22日、すでに陸路は今川軍に抑えられているために進軍できず、熱田から海路で渡海し23日に緒川城へと到着します。 そして24日朝方から、今川軍が砦を築いている「村木」の地で戦いは始まるのです。 村木砦の戦い 場所 合戦図 「村木砦の戦い」の場所は、現在の愛知県知多郡東浦町八劔神社にあります。(参考:Googleマップ) 現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。 村木砦の戦いの経緯は、すでに尾張領内へと着々と侵攻してくる今川軍が、下尾張(知多)の最期の城でもあった緒川城への侵略ために、村木の地へ砦を築いたところから始まります。 信長はすぐにでも那古野城を出発したいのですが、そのころの信長の戦力は小さく尾張領内にも敵がいたため、長く城を空ける訳にはいきません。 そこで信長が行った策が、美濃の斉藤道三(妻帰蝶の父)の援軍を借り、帰陣するまでの間、城を守ってもらう事でした。 那古野城の憂いを無くした信長は進軍します。しかし陸路はもはや今川軍が包囲しているため通れず、熱田からの海路しか選択の余地がありませんでした。
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【萱津の戦い】前田利家初陣!清州織田家撃破で坂井甚助散る!

織田家当主「信長」の2戦目! 初勝利なるか? 1552年織田家当主となった「信長」の2度目の戦い「萱津(かやつ)の戦い」。(別称「海津(かいづ)の戦い」とも言われます) 1度目の戦いで惜しくも引き分けとなった「赤塚の戦い」からわずか4か月後の8月中頃、尾張守護代清州織田家「織田信友」重臣の「坂井大膳・甚助」が、信長の支城である「深田城」と「松葉城」を奪います。 信長が織田家の当主となったとはいえ、織田家中では「大うつけ」といわれる信長に対し、不満や反感を持つものも多く、赤塚の戦いのきっかけも家臣の今川家への「寝返り」が原因でした。 今回も同じ織田家中で、城を奪われ「内乱」が勃発することになります。 織田家当主として2度目の戦いとなる「信長」の手腕はいかに…。 当主となり信長の2度目の戦いとなった「萱津の戦い」をお伝えしてまいります。 萱津の戦い 戦況 信長が織田家(弾正忠家)当主になったとはいえ、未だ不満や鬱憤が多く、抑えきれていないのが実情の織田家中。 山口教継親子の今川への寝返りを鎮圧(赤塚の戦い)したかと思いきや、今度は、清州織田家「織田信友」の重臣「坂井大膳・甚助」が信長の「深田城」と「松葉城」を攻め落とし、城主の織田伊賀守と織田信次を人質とします。 報せを聞いた信長は、すぐさま信次の兄「織田信光(信長叔父)」と共同で清州城へ進軍。同時に深田城と松葉城にも別動隊を入れ城奪還に向かわせます。 そして両軍が、「萱津」で激突します。 この時初陣したのが「前田利家」と言われています。 (加賀藩史料:村井重頼覚書) 萱津の戦い 場所 合戦図 「萱津の戦い」の場所は、現在の愛知県あま市上萱津八剱にあります。 地図で示した位置が「萱津合戦場」です。2㎞北には「清須城」、右下に名古屋駅です。(参考:Googleマップ) 現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。 萱津の戦いの経緯は、坂井大膳・甚助が信長の支城深田城と松葉城を攻め奪う事から始まります。 信長は深田城と松葉城と清州城の3か所へ兵を出します。 信長には「織田信光(叔父)」が参戦し、清州城からは敵将の「坂井甚助」が討って出て「萱津」の地で激突します。 萱津の戦い 信長vs坂井大膳・甚助 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【坂井軍】 不明 不明 戦闘目的
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【赤塚の戦い】織田当主となった信長 最初の合戦!

織田家当主「信長」初戦! 1552年父信秀の病没後、信長は家督を譲り受け「織田家当主」となります。 織田家当主となった信長の初めての合戦が、その年1552年4月に起きた「赤塚の戦い」です。 そこへ、早くも裏切者が現れ、信長は当主としての手腕が試されることになります。 19歳となった新当主「信長」の手腕はいかに…。 織田家の新当主となった信長最初の戦い「赤塚の戦い」をお伝えしてまいります。 赤塚の戦い 戦況 新当主になったとはいえ、当時の信長は回りの家臣から「大うつけ」という不名誉な噂があります。 父信秀が織田一族で頭角を現しながら死去したわずか1か月後、信長を見限り今川へ寝返った者がいました。 鳴海城守の「山口教継・教吉」親子です。 2人は領土が三河の国境に接していたという事もあり、この先不安な信長よりも、もはや大大名である今川義元に付きます。 その直後の4月17日、信長は山口親子の寝返りを諫めるため那古野城から出陣し、天白区の中根から緑区古鳴海を経て「三の山」に陣取り、鳴海城の山口教継・教吉に対陣します。(三の山は現在の緑区鳴海町山王山) 赤塚の戦い 場所 合戦図 「赤塚の戦い」の場所は、現在の名古屋市緑区鳴海町赤塚にあります。 地図で示した位置は、信長が陣取りした「三の山」(現在の千句塚公園)で、相手である山口親子は、真南(下)に約500mほど行った所の「鳴海城」(現在の鳴海城後)です。 「合戦場所」は、ちょうどその真ん中あたりになります。(参考:Googleマップ) 信長「三の山」・山口親子「鳴海城」に対峙した後、1552年4月17日午前10時、いよいよ合戦の火ぶたが落とされます。 赤塚の戦い 信長vs今川軍(山口親子) 戦力比較 では、当時の織田軍(信長)と今川軍(山口教継・教吉親子)の戦力差を見てまいりましょう。 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 800 1500 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 離反鎮圧 反目侵攻 主な参戦武将 【織田軍】 【今川軍】 織田信長・内藤勝介・蜂屋般若介・荒川与十郎・長谷川橋介・青山藤六・戸田宋二郎・賀藤助丞
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【吉良大浜の戦い】大うつけ信長 14歳 初陣!

「初陣」 「初陣」 生まれて初めて戦いに出ること。 また、スポーツ競技などで初めて試合や競技会に出ることをいう。 戦国武将「織田信長」の初陣は14歳。 現代で言えば中学生ですが、戦国の世であれば14歳で初陣というのは決して遅くはありません。 わずか14歳の若者が大勢の家臣を従い、どのように初陣を飾ったのか…。 信長の初陣「吉良大浜攻撃」をお伝えしてまいります。 吉良大浜攻撃 信長 初陣図 1547年(天文16年)、駿河今川勢(今川義元)が尾張領へと侵攻してきたため、当時の領主「織田信秀(信長父)」は牽制の意味から出陣をしたもとの考えられています。 その時、大将として初陣を飾ったのが「織田信長」若干14歳。 前年に元服を済ませたばかりの、(当時は)弱小大名の倅にすぎませんでした。 初陣した時の姿が「信長初陣図」がコレ! 信長の傳役(もりやく)であった「平手政秀」が揃えたと言われています。 信長公記に「紅筋が入った頭巾と馬乗りの羽織、馬鎧という出で立ち」とされています。 吉良大浜攻撃 場所 合戦図 信長が出撃した「吉良大浜攻撃」の場所は、現在でいう愛知県碧南市(名古屋市内からおよそ50km)にあります。(参考:グーグルマップ) 場所は吉良(現在の西尾市)から大浜(現在の碧南市)。 居城の那古野城から片道約50km(往復約100km)の行軍でした。 吉良大浜攻撃 戦力比較 では、当時の織田軍(信長)と今川軍(今川義元配下)の戦力差はどうだったのでしょうか。 当時の戦力比較を見てまいりましょう。 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 800 2000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 牽制攻撃 尾張三河威嚇 主な参戦武将 【織田軍】 【今川軍】 織田信長・平手政秀・林通勝 不明 吉良大浜攻撃 戦況 今川勢(今川義元)の尾張三河への威嚇侵攻に対し、織田信秀は牽制の意味から吉良・大浜を攻撃します。 兵力は劣勢のため「平手政秀」「林通勝」ら宿老は反対したといわれていますが、信長は風の強い日を見計らって攻撃に出ます。 14歳の信長は800の兵を率いて那古野城から片道50kmを一気に吉良・大浜にまで下り「火を放ち」、その日は野営をして那古野城まで戻っています。
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【姉川の戦い】血で血を洗った合戦とは?合戦の布陣や経緯・場所をかんたん解説!長政とお市のその後…?

血で血を洗った合戦! 1570年(永禄10年)「姉川の戦い」。 「織田(信長)・徳川(家康)軍」と「浅井(長政)・朝倉(義景)軍」が戦った合戦です。 合戦場となった姉川が、兵たちの赤い血で真っ赤に染まったと言います。 浅井家と言えば、織田信長の妹「お市」が嫁いだ名家でもあります。 義弟はあの「浅井長政」。 「お市」と「長政」は仲睦まじい夫婦と言われ、幸せな時を過ごし1男3女を授かります。 しかしながら、信長にとって自分の妹が嫁いだ相手となぜ合戦を…? 合戦の原因や経緯、その後のお市・長政がどうなったのか解説してまいります。 姉川の戦いをわかりやすく 事の始まりは「袋の鼠」 姉川の戦いがはじまる以前、織田家と浅井家は信長の妹「お市」が嫁いでいることもあり「同盟関係」にありました。 同様に、浅井家は朝倉家とは信長と同盟を結ぶ以前に「同盟」(主従関係)を結んでいました。 当時の信長は、室町幕府が衰退し信長が幕府の守護となっていたたため、朝倉義景への上洛の命を出し臣下の意を表させようと画策していましたが、義景はそれをずっと無視していました。 幾度の上洛の命を出す信長と、それを無視し続ける義景、信長と義景の関係は一触即発の状態でした。 実は、浅井と朝倉が同盟を結んだ後から、同盟関係を結んだ信長と長政ですが、同盟の際には「朝倉と戦をしない」という約束が交わされていました。 しかし、朝倉への再三の上洛にも無視を続ける義景に、ついに堪忍袋が切れ、信長は長政との約束を破り兵を上げます。 朝倉と金ケ崎城で対峙する中、長政は朝倉義景から援軍を出すように言われます。 織田家(信長)と朝倉家(義景)の両方と同盟を結んでいる浅井家(長政)は、考えに考えた末、信長との同盟を解消し、朝倉側に援軍を出す事を決意します。(信長と決別) そして信長が朝倉軍と対峙している「背後」へ兵を出すのです。 信長は、前方に朝倉、背後に浅井と、完全に挟まれてしまい「袋の鼠」となってしまい撤退を余儀なくされます。 殿(しんがり)に木下(羽柴)秀吉、明智光秀を残し、数騎の共を連れ添っただけで命からがら京都へ逃げ帰ったというのです。(金ケ崎退き口) このことが後に信長の怒りを買うことになり、「姉川の戦い」へと進んでいくことになるのです。 姉川の戦い 場所 地図 アクセス
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