信長全合戦

長篠の戦い勝因わかりやすく!信長勝利の鉄砲3段撃ちは全くのウソだった‼

「長篠の戦い」とは。 1575年5月21日(天正3年)、長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、武田勝頼軍1万5千が戦った合戦。 もうすでにご存じのとおり、信長・家康連合軍が戦国時代の新兵器でもあった「鉄砲」を使い、戦国最強の「武田軍騎馬隊」に大勝利した戦です。 勝因は、鉄砲の唯一の弱点でもあった「弾込め」の時間を、3段に配列された鉄砲隊によって時間のロスなく撃てた事です。 しかし、最新の研究では、どうやら「3段撃ちが勝因ではない」という事が分かってまいりました。 この記事では、検証された新説を元に、長篠の戦いを解説してまいります。 これまでの定説「長篠の戦い」↓↓↓ 鉄砲 3段撃ち 従来の定説である「鉄砲3段撃ち」とは、馬防策を先頭として、鉄砲隊が3列に並び、1列ごとに「順に撃つ」というものでした。 射程距離:約50m 弾込め:約30秒 平均的な射程距離は約50m、1度撃つと次に撃つまでの弾込めは時間は約30秒。 鉄砲は、1発で敵を倒す力を持っているものの、撃ち損じは敵方が大幅に自陣に入り込んでしまう欠点も持ち合わせていました。 その鉄砲の唯一の弱点とされていた、弾込め(約30秒)を補うために、信長が用いた戦術が「3段撃ち」です。 織田信長は、この合戦に約3000丁を準備し、1000丁づつを入れ代わり撃たせたと記されています。(甫庵信長記/1624年) 武田騎馬の速さ 一方、戦国最強と言われた武田騎馬隊ですが、武者が乗った騎馬の速さはいったいどれくらいだったのでしょうか…? 当時の騎馬は日本固有の在来馬で、現在のサラブレットと比べ小型馬になります。 現在のサラブレッドが、体高約180cm、体重500kgに対し、当時の在来馬は、体高が約150cm、体重が約350kg~400kgと小型です。 走る速さというと、当時の在来馬に武者を乗せて走った場合、100mで約8~9秒。 鉄砲の射程距離であった50mであれば4~5秒程度であったとされています。 3段撃ちの真相は! 思ったより早くない⁉
織田信長

【織田信長】の名言・格言集 22選!

「泣かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 「人間50年~」 「是非に及ばず」 「織田信長」と言えば、日本の歴史上の人物で、最も人気のある人物のひとりです。 誕生(1534年)は、尾張(現在の愛知県)の弱小大名の子として生まれ、幼い頃には「大うつけ」と呼ばれ、回りの臣従達は、まさか天下統一を望む大武将になるとは思っていませんでした。 織田信長が、歴史上に名前が挙がったのは、何といっても「桶狭間の戦い」で、大大名である「今川義元」を倒した合戦といわれています。 わずか10分の1の兵力(今川軍2万0000・織田軍2千000)で、巧みな情報戦と奇襲で挑み、見事、今川義元を討ち取りました。 一躍、歴史の表舞台に登場した信長は、その後、斬新な戦法を用い、そして資金となる経済流通の改革で、次々と敵対する諸大名を倒し、領土を広げていきます。 1582年3月には、戦国最強と言われた「武田氏」を討ち滅ぼし、天下統一目前と迫っていましたが、当年6月2日に「本能寺の変」で家臣であった明智光秀の謀反により豪死を遂げます。 地方の一介の弱小大名に過ぎなかった子倅が、天下統一の直前まで生き抜いた人生。 波乱万丈となった人生の中で、信長も数々の「名言」を残しています。 それは、現代に生きる私たちにも深く響く名言となっています。 ここでは、その名言を紹介し、その意味も考察してまいります。 織田信長 名言・格言・言葉集 信長の名言1 敦盛 「人間五十年 化天(下天)のうちを比ぶれば…」 最初にご紹介するのは、信長が好んだとされる幸若舞の「敦盛」です。 信長がまだ弱小大名だった頃、今川義元の大軍の前(桶狭間の戦い)に、窮地に追い込まれた時に舞ったことや、本能寺の変で自刃する際にも舞った(諸説あり)事でも有名です。 意味は、「人の命は50年と短きものだ、仏界と比べれば、まるで夢や幻のようであり、この世に生まれたからには、滅びないものはない」という意味になります。 信長の名言2 本能寺で蘭丸に対し放った言葉 「是非に及ばず」 1582年6月2日早朝、明智光秀が信長に対しクーデター(本能寺の変)を起こした際に、いち早くそれを知らせた蘭丸に対して、信長が応えた名セリフ。 信長の名言3 俳句ホトトギス 「鳴かぬなら~」 これは名言ではありませんが、信長の性格を表した俳句で有名です。
徳川家康

【天正壬午の乱】徳川・上杉・北条の三つ巴戦!勝者はいかに…⁉

信長、本能寺で死す! 旧武田領をめぐる、徳川・北条・上杉による争い 【天正壬午の乱】 天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)とは、天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺の変で討たれ、同年3月にその信長から滅ぼされた旧武田領を、徳川家康・北条氏直・上杉景勝が約5か月もの間、奪い合う騒乱を言います。 大きくは、上記3者の戦いとして説明されていますが、その他の諸勢力として、木曽義昌や真田昌幸も加わった戦役でもあります。 本能寺の変で信長が討たれた以降、徳川・北条・上杉に、木曽・真田を加えた国取り合戦はいかに…。 早速ひも解いてまいりましょう…。 天正壬午の乱 勃発 武田家滅亡と本能寺の変 天正10年(1582年)3月11日「天目山の戦い(甲州征伐)」で、戦国最強と言われた武田家(当主勝頼)が討たれ武田家は滅亡しました。 当時の武田家の所領であった甲斐、信濃、駿河、上野は織田家の所領となり、駿河一国は家康の所領となります。 織田家に同調して、伊豆、駿河を攻めていたはずの北条には所領が与えられず、北条氏にとって不満の残る配領となりました。 それからわずか3か月後の6月2日、本能寺で信長が明智光秀によって討たれたという報せで、当時大坂(堺)にいた家康は、最も危険と言われていた「伊賀越え」を強行します。 本能寺の変による信長の横死により、無主人の空白地帯と化してしまった旧武田領を巡って、北条・徳川をはじめ回りの戦国猛者たちが奪い合う「天正壬午の乱」が勃発することになります。 徳川家康の進運 本能寺の変から2日後の6月4日、家康は伊賀越えを強行し命からがら岡崎城(愛知県岡崎市)に帰城すると、光秀討伐の軍を起こすと同時に、空白状態となった甲斐・信濃の攻略の準備を進めます。 「皆の者、明知討伐軍と甲斐侵攻軍に分け侵攻せよ!」 家康はまず最初に、明智討伐に加え、信長の後継者と見なされる次男「織田信雄」に、甲斐・信濃(旧織田領)侵攻への同意を求めます。 (後に、光秀を倒した秀吉も、家康に信濃・甲斐・上野を敵方に渡さぬよう命令しています。7月7日付秀吉書状/この時すでに光秀を倒していた秀吉は、信長の後継者は自分であると思っていた)
秀吉全合戦

【小田原征伐】秀吉の天下統一戦!北条vs豊臣秀吉

秀吉、天下統一へ!北条攻め! 豊臣秀吉vs北条氏 【小田原征伐】 1587年(天正15年)中には、「九州平定」を完全に終えた秀吉は、翌年の1588年(天正16年)4月、「後陽成天皇」の聚楽第「行幸」を行いました。 もはや秀吉は「関白」となっており、北条氏に対しても「氏政・氏直」親子の聚楽第行幸への列席を求めましたが、氏政はこれを拒否してしまいます。 行幸には、他の東国の大名たちも、使者を派遣して対応したにも関わらず、「北条氏」は使者の派遣すら行わず、京では北条討伐の声も上がっていました。 5月、東国の取次役でもある「徳川家康」は、北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め、8月には氏政の弟の「北条氏規」が名代として上洛し緊張は和らいだに見えました。 しかし、12月に「北条氏政」が弁明のために上洛するという約束は果たされずに終わり、翌年1588年(天正16年)、秀吉は北条氏の従属の条件となっていた「沼田城」の割譲についても、3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、北条側に譲歩した裁定を行いました。 北条氏からすれば、成り上がりの百姓関白ごときに、往年のブランド大名である「北条氏」は、いちいち口出しされる筋合いは無いと思っており、その年の10月、真田領となっていた「名胡桃城」に沼田城代「猪俣邦憲」を侵攻させ奪取、秀吉の下した裁定に軍事力で覆すことになりました。 この北条氏の一連の行動に、秀吉は怒り(ある意味、北条征伐の大義を得た形になった)、北条討伐を決めることになります。 こうして始まった秀吉の「小田原征伐(北条征伐)」が始まることになります。 豊臣秀吉vs北条氏政・氏直 小田原攻め 合戦までの経緯 実は秀吉、北条征伐を決めるまでに、再三にわたる北条の非なる行動に我慢をしています。 まず一つは、後陽成天皇の聚楽第行幸への列席を拒否したこと。 二つめは、行幸欠席の弁明のための北条氏政の上洛の約束を破棄したこと。 三つ目は、真田領の名胡桃城への侵攻を勝手に行ったこと。 四つ目は、北条氏邦の下野国の宇都宮国綱を侵攻したこと。 これらはすべて秀吉の施策に反する行為であり、北条氏の度重なるこれらの行動に際し、秀吉は「北条氏政」もしくは「北条氏直(嫡男)」の上洛を求めていましたが、それをすべて拒否していたのです。
秀吉全合戦

【九州征伐】天下統一目前!秀吉の九州攻め!島津義久・義弘vs豊臣秀吉!

天下統一目前!秀吉の九州攻め! 豊臣秀吉vs島津氏 【九州征伐】 1585年8月末に、「長宗我部元親」の降伏により、「四国平定」を成し遂げられた秀吉。 天下統一までに、残すは九州と関東の一部(北条)となりました。 その頃九州では、薩摩の「島津氏」の勢力が南九州から中九州を制圧し、東から北九州制圧も目論んでいました。 豊後(東九州・大分)の「大友宗麟」は、島津の圧迫を回避するため、天下統一の道を目前としていた「豊臣秀吉」に援軍を求めます。 これを受け、秀吉は、1585年(天正13年)10月に、島津氏と大友氏に対し、朝廷の権威を使用し「九州停戦令」を発令します。 この停戦令に「大友氏」はすぐさま受け入れたものの、「島津氏」は家臣の「鎌田政近」を秀吉のもとへ派遣し、島津側は以前、「織田信長」と「近衛前久」の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのに大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦した、と弁します。 翌年(1586年天正14年)3月、秀吉は、島津氏の占領地を大友氏に返還する「国分案」を提示しますが、島津側はこれを拒否。 さらに、「大友氏」攻撃を再開したため、秀吉はついに、島津氏討伐による「九州平定」に踏み切りました。 そうして始まった戦いが、秀吉の「九州平定戦(九州討伐)」と言われています。 九州平定戦 「筑前の戦い(福岡・佐賀)」 合戦場所(城) 島津側が、秀吉が示した和解案である「国分案」を拒否したため、合戦は免れない状況となります。 秀吉の到着前に、九州統一を果たしたい島津側は1586年(天正14年)6月、筑前(福岡・佐賀)への侵攻を開始します。 6月18日には、「島津義久」みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代(熊本)に到着します。 そして、「島津忠長」「伊集院忠棟」が先陣を勤め、これに「島津忠隣」「新納忠元」「北郷忠虎」「川上忠堅」らが続く形で、大友方の「勝尾城(佐賀県鳥栖市)」を攻めます。 「九州平定戦 筑前の戦い 黒:合戦が行われた城 青:島津本陣」 7月6日、筑後川をはさんだ国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城である「鷹取城(鳥栖市山浦町中原)」を陥落させます。 7月10日には「勝尾城」も開城となり、その日、「秀吉」は島津氏討伐を決定しました。
秀吉全合戦

【四国平定戦】羽柴秀吉vs長宗我部元親 秀吉四国征伐

秀吉の四国平定戦! 羽柴秀吉vs長宗我部元親 【四国平定】 信長が「本能寺の変」で豪死して以来、織田家家老の「柴田勝家」を、「賤ケ岳の戦い」を破り、信長後継者として織田筆頭に成りあがっていた秀吉。 織田家内で内輪揉め「小牧長久手の戦い」では、家康に手痛い敗戦を喫していたものの、持ち前の政治力で織田家筆頭として、全国統一も目前となっていました。 残すは四国と九州。 当時の四国は、土佐の「長宗我部元親」が、1585年(天正13年)の伊予国の河野通直を降伏させており、四国をほぼ統一しており、秀吉との対立は悪化しておりました。 当初、元親の方から秀吉に対し和睦としての条件を、「伊予」一国の割譲としていたものの、秀吉はこれを拒否します。 秀吉が和睦に提示した案は、伊予と讃岐の2国の返上だったのです。 しかし元親は、信長から、四国の領土は「切り取り次第」と言われており、苦労を重ね統一した四国を、そう簡単に譲渡することは、元親にとって承服できる内容ではありませんでした。 よって、元親と秀吉の和睦交渉は決裂となり、合戦は避けられなくなり、ついに1585年6月16日に、秀吉は総勢10万を越える軍勢を四国へ出陣させるのでした。 これを秀吉の「四国平定戦」(四国征伐)と言っています。 四国平定戦 秀吉軍の上陸場所 合戦場 秀吉軍は、「3部隊」に分かれ四国へ上陸します。 「四国平定戦 赤:秀吉軍上陸場所 黒:陥落した主な諸城 青:長宗我部元親」 四国平定戦 兵力差 兵力差 【羽柴秀吉軍】 【長宗我部軍】 10万 4万 戦闘目的 【羽柴秀吉軍】 【長宗我部軍】 長宗我部討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【羽柴秀吉軍】 【長宗我部軍】 羽柴秀長・羽柴秀次・小早川隆景・宇喜多秀家 他 長宗我部元親・香宗我部親奏・谷忠澄 他 四国平定戦 合戦のゆくえ 「讃岐」上陸 秀吉の本格的な四国平定戦は、この年(1585年天正13年)の7月上旬に「宇喜多秀家」「蜂須賀正勝」「黒田官兵衛」「仙石秀久」各隊が、現在の香川県高松市屋島東町「屋島」に上陸したことから始まります。 宇喜多隊は、まず最初に「高松城(当時の喜岡城)」を陥落させ、香西城・牟礼城を攻略します。
秀吉全合戦

【小牧長久手の戦い】池田恒興・森長可討死!家康、勝利するも無念の和議⁉

ついにあの両雄が激突! 秀吉vs家康 【小牧長久手の戦い】 「本能寺の変」で信長が討たれ、仇であった明智光秀を「山崎の戦い」で破り、「賤ケ岳の戦い」で柴田勝家を破る事で、信長の実質的後継者として織田家に君臨していた秀吉。 一時は秀吉方に付いていた「織田信雄」(信長次男)も、秀吉の天下人としての振る舞いが気に入りません。 信雄は、本来であれば信長の後継を担う主筋にあたる立場ですので、秀吉のこうした横柄な態度はどうにかしたいと思っています。 秀吉の益々高まる高慢な態度に信雄は、三河の徳川家康を頼ります。 家康も、主家である「織田信雄」を助ける、という大義を得られ、秀吉に対し兵を挙げます。 こうして、1584年(天正12年)3月から11月にかけて、尾張(現愛知県)を中心に起きた戦いを「小牧・長久手の戦い」と言います。 「羽柴秀吉」軍と、「織田信雄」「徳川家康」の連合軍とのあいだで行われました。 小牧長久手の戦い 古戦場 場所 アクセス 長久手の戦いの場所は、現在の愛知県長久手市武蔵塚になり、長久手古戦場公園として市民の憩いの場になっています。 小牧・長久手の戦いは、実際には愛知県の各所で合戦が行われています。(後述) 「小牧・長久手の戦い」 小牧長久手の戦い 秀吉vs家康! 決戦に至るまで! 織田信雄からの要請を受け、大義が成った家康は、越中の「佐々成政」や紀伊の「雑賀衆」「根来衆」、関東の「北条氏政」、四国の「長宗我部元親」らに要請し「秀吉包囲網」を形成します。 その時、1584年(天正12年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日に、織田家譜代の家臣だった「池田恒興」が、突然寝返り「秀吉」側につき、「犬山城」を占拠します。 家康もすぐに反応し「小牧山城」へ出陣し、これを占拠します。(3月15日) 同じ3月15日、秀吉軍の「池田恒興」隊と「森長可」隊は羽黒砦に着陣。 しかし、この動きはすぐに家康に知られ、同日夜半、徳川軍の奇襲を受け、「森長可」勢の300余人が討死。 秀吉は大坂で長可が敗れたことを聞き、直ちに3万の兵を率い出陣、家康のいる「小牧山城」を北東から包囲するよう各武将を布陣させます。 そして、秀吉みずからは「楽田城」に本陣を構え、一方、信雄・家康連合軍は、「小牧山」に本陣を構え、両軍睨みあいの状況になりました。
秀吉全合戦

【賤ケ岳の戦い】秀吉vs勝家! 織田家継承はどちらの手に…?

織田家が分裂! 天下争い! 羽柴秀吉vs柴田勝家 【賤ケ岳の戦い】 織田信長が、「本能寺の変」で豪死した1年後、織田家の跡目争いとして、織田家筆頭家老である「柴田勝家」と、信長の敵討ちとして明智光秀を破った「羽柴秀吉」の戦い。 1583年(天正11年)4月、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳辺りで起きました。 賤ケ岳の戦い 場所 アクセス 賤ケ岳の戦いの場所は、現在の滋賀県長浜市余呉町付近になり、琵琶湖に近い余呉湖の周りをぐるりと囲むような形で、秀吉隊と勝家隊が対峙しました。 合戦場所は、山の中腹から北国街道沿い(余呉湖右側)となり平地はわずかです。 「賤ケ岳の戦い」 賤ケ岳の戦い 秀吉vs勝家! 決戦に至るまで! 清須会議 信長が「本能寺の変」で豪死した25日後の6月27日、信長の後継者を決める会議が清州城で開かれました。 俗に言う「清須会議」です。 参加者は「柴田勝家」「丹羽長秀」「羽柴秀吉」「池田恒興」の4名。 信長の三男「織田信孝」を推す柴田勝家と、嫡男信忠の子である「三法師(のちの織田秀信)」を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が怒りました。 柴田勝家としては、織田家筆頭家老でもあり、百姓上がりで成り上がりの秀吉に思うようにさせたくありません。 しかし、織田家直系であり、信忠の嫡男「三法師」が家督を継承することに異論を唱えることは出来ず、結局は「三法師」が織田家家督を継ぎ、叔父の「織田信雄」と「信孝」が後見人となり、執権として秀吉以下、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。 この決定によって、それまで織田家の筆頭として最大の発言権を持っていた「柴田勝家」の影響力が低下し、代わりに「羽柴秀吉」が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられることになります。 秀吉は三法師傅役の「堀秀政」を巻き込み、同じ執権役である「丹羽長秀」と「池田恒興」を懐柔し秀吉陣営を形成します。 これに危機感を覚えた、三法師の叔父である「織田信孝」は、「柴田勝家」と組んで反秀吉陣営を構築し、会議から排除された「滝川一益」も加わり、織田家内部は二分されます。
秀吉全合戦

【山崎(天王山)の戦い】秀吉vs光秀 山崎で激突!天下はどちらに…⁉

信長、本能寺で豪死! 決戦!天王山! 羽柴秀吉vs明智光秀 【山崎(天王山)の戦い】 1582年(天正10年)6月3日夕刻、備中高松城(岡山)で、城主「清水宗治」と合戦中、明智光秀が毛利方への密書が届けられる間者を捕らえた秀吉軍。 密書には、昨日(2日)早朝に、主君「信長討死」を報せる内容でした。 秀吉は、信長の弔い合戦のために、ただちに毛利軍との和議(5日清水宗治切腹)を結び、6日未明から畿内へと戻る、いわゆる「中国大返し」を敢行します。 6月13日に、摂津国と山城国の境にある「山崎」において、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が激突した戦いを「山崎(天王山)の戦い」と言います。 *天王山とは、頂点(優勝)を決する勝敗の分かれ目となる大事な機会(試合)をいい、プロ野球の公式戦終盤などで優勝を賭けた試合でよく使われていますね。 早速、紐解いてまいりましょう。 山崎(天王山)の戦い 場所 地図 アクセス 山崎(天王山)の戦いがあった場所は、現在の京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田にあり、現在の大山崎IC一帯です。 秀吉軍と光秀軍が対峙しました。 「山崎(天王山)の戦い」 秀吉vs光秀!決戦に至るまで! 秀吉の中国大返し 秀吉が、本能寺の変の報せを受けたのが6月3日夕刻。(1582年天正10年) その時は、「高松城の戦い」の最中であったものの、毛利氏との講和を速やかに取りまとめ、主君信長の弔い合戦のため「明智光秀」を討つために、京に向けて全軍を取って返した約8日間にわたる軍団大移動のことを言います。(中国大返し) 備中高松城(岡山市北区)から、決戦の場となった山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られています。 中国大返し 道程 秀吉が中国大返しを開始したと言われる日は、清水宗治が自刃した4日の翌日の5日から6日未明と言われています。(浅野家文書)(惟任謀反記) 6日に「沼城」(岡山市沼区)に入り、7日夕方には当時の秀吉の本拠地であった「姫路城」まで到達しています。 秀吉軍は、姫路城で休息と、城内にある秀吉の全財産を家臣全員に分け与え、9日に京へ向け出発。 9日の正午に「明石」へ到着し、翌10日夜に「兵庫」へと進みます。
織田信長

【はげねずみ】信長がねね(秀吉妻)に送った手紙に、信長の優しい一面が…!

信長からねね(秀吉妻)へ送られた手紙! 秀吉はサルではなくはげねずみ…と呼ばれた⁉ 信長がねねに送った手紙とは? 織田信長といえば、冷酷残忍で冷酷無比のイメージがありますが、秀吉の妻である「ねね(おね)」に宛てた手紙が現存しているのをご存知でしょうか…。 秀吉の日ごろの「浮気」に悩む、ねねの内心を気遣った、優しい言葉で表現されているのです。 この手紙には、秀吉の事をいつもの「サル」ではなく、「はげねずみ」と現わしている点も見逃せません。 ドラマや映画などでは、サルと呼ばれていたイメージが強い秀吉も、信長が送った手紙では(はげねずみ)このような表現もしていたのですね…。 では実物を実際に見てみましょう。 信長の手紙 この書状は、1581年(天正9年)に書かれたとされており(天正4年説あり)、今も現存しており個人蔵となっています。(国重要美術品) 内容は下記の通りです。 ねねの安土城の来訪を喜び、ねねの美貌が以前よりも増して美しくなっていたことを喜んでいることが伺えます。 中文以降の、「…何方をたずね候えども、それさまほどのは、又ふたたび、かのはげねずみ、相もとめがたき間…」は、どこを訪ねても、あなたほどの妻は、かのはげねずみには難しかろう、と言っているところは、信長が秀吉を「サル」ではなく「はげねずみ」と言っているのが分かります。 「あなたもこれからは朗らかな気持ちで、妻らしく重々しく振る舞って嫉妬を起こさないように、言いたいことも少々我慢するほうがよい」は、あの冷徹なイメージの信長を、がらりと変える優しい信長に感じられます。 この、信長からねね宛てに送られた手紙は、信長の印象をがらりと変え、優しい性格の持ち主であった事を伺わせる、手紙と言えそうですね♪
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