織田家が分裂!
天下争い!
羽柴秀吉vs柴田勝家
【賤ケ岳の戦い】
織田信長が、「本能寺の変」で豪死した1年後、織田家の跡目争いとして、織田家筆頭家老である「柴田勝家」と、信長の敵討ちとして明智光秀を破った「羽柴秀吉」の戦い。
1583年(天正11年)4月、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳辺りで起きました。
賤ケ岳の戦い 場所 アクセス
賤ケ岳の戦いの場所は、現在の滋賀県長浜市余呉町付近になり、琵琶湖に近い余呉湖の周りをぐるりと囲むような形で、秀吉隊と勝家隊が対峙しました。
合戦場所は、山の中腹から北国街道沿い(余呉湖右側)となり平地はわずかです。
賤ケ岳の戦い 秀吉vs勝家! 決戦に至るまで! 清須会議
信長が「本能寺の変」で豪死した25日後の6月27日、信長の後継者を決める会議が清州城で開かれました。
俗に言う「清須会議」です。
参加者は「柴田勝家」「丹羽長秀」「羽柴秀吉」「池田恒興」の4名。
信長の三男「織田信孝」を推す柴田勝家と、嫡男信忠の子である「三法師(のちの織田秀信)」を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が怒りました。
柴田勝家としては、織田家筆頭家老でもあり、百姓上がりで成り上がりの秀吉に思うようにさせたくありません。
しかし、織田家直系であり、信忠の嫡男「三法師」が家督を継承することに異論を唱えることは出来ず、結局は「三法師」が織田家家督を継ぎ、叔父の「織田信雄」と「信孝」が後見人となり、執権として秀吉以下、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。
この決定によって、それまで織田家の筆頭として最大の発言権を持っていた「柴田勝家」の影響力が低下し、代わりに「羽柴秀吉」が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられることになります。
秀吉は三法師傅役の「堀秀政」を巻き込み、同じ執権役である「丹羽長秀」と「池田恒興」を懐柔し秀吉陣営を形成します。
これに危機感を覚えた、三法師の叔父である「織田信孝」は、「柴田勝家」と組んで反秀吉陣営を構築し、会議から排除された「滝川一益」も加わり、織田家内部は二分されます。
後見人の信孝は、三法師を居城である岐阜城に連れて帰ることで、織田家の影響力を高めようと画策。秀吉の三法師への面会や岐阜城へ近づくことを拒みます。
この年(1582年天正10年)、10月11日から5日間、秀吉は信長の葬儀を、「羽柴秀勝」を立て大徳寺で行い、信長の位牌を持って参列するなど、後継者として大きく世間の注目を集めます。
その際も、織田家継承者の「三法師」の参列の呼びかけにも、連れてこようとしない「織田信孝」に、清州会議の決定を破棄し、「織田信雄」を織田家の家督に据えると、「丹羽長秀」と「池田恒興」との三者合議で決めてしまいます。
このような秀吉の勝手な振る舞いに、勝家や信孝は怒り、両者との対立が深まっていき、翌年の「賤ヶ岳の戦い」につながっていく事になるのです。
秀吉vs勝家 秀吉の三法師奪還 岐阜城攻撃
秀吉は信長の葬儀も終わった翌月の12月7日、清須会議で譲渡した元の居城である「長浜城」(現在は勝家の領城)を攻撃し、奪還することに成功しています。
また、20日には三法師奪還の大義で岐阜城の「織田信孝」を攻撃し降伏させると、長浜城からほど近い「賤ケ岳」に陣を張ります。
柴田勝家は、居城の北の庄城(福井県福井市)にいたものの、「雪」で身動きが取れず、軍勢を出すことが出来ません。
勝家は、雪が解ける翌年(1583年天正11年)3月8日に大軍を率い出発します。
そして3日後、勝家軍は「佐久間信盛」「前田利家」らを加えた3万の軍勢で、余呉湖の北側柳ケ瀬に陣を据えます。
秀吉も、19日木ノ本(賤ケ岳)に5万の軍勢で入り余呉湖を挟んで両軍が対峙します。
羽柴秀吉5万vs柴田勝家3万
賤ケ岳の戦い 布陣 兵力差
両軍ともすぐに攻撃に出る事は無く、しばらくは陣や砦を強固なもに形成します。
兵力差
【羽柴秀吉軍】 | 【柴田勝家軍】 | ||
5万 | 3万 |
戦闘目的
【羽柴秀吉軍】 | 【柴田勝家軍】 | ||
柴田勝家討伐 | 討伐阻止 |
主な参戦武将
【羽柴秀吉軍】 | 【柴田勝家軍】 | ||
羽柴秀吉・羽柴秀長・高山右近・中川清秀・黒田官兵衛・桑山重春 他 | 織田信孝・柴田勝家・佐久間信盛・佐久間盛政・前田利家・金森長近・不破勝光 他 |
合戦のゆくえ
両軍対峙も1か月が経とうとする頃の4月16日、岐阜城で秀吉に降伏した「織田信孝」が、伊勢の「滝川一益」と組み再び挙兵、岐阜城下へ侵攻します。
木ノ本で対峙していた秀吉は、信孝の侵攻に、一旦木ノ本を離れ、自ら美濃に進軍し「大垣城」へ入ります。
賤ケ岳を離れた秀吉に対し、これを好機ととらえた勝家軍は、佐久間盛政に大岩山砦を攻撃させ、見事陥落に成功します。
大岩山砦を守っていたのは「中川清秀」でしたが、耐え切れず清秀は討死します。
続く盛政は、さらに岩崎山に陣取っていた「高山右近」を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の「羽柴秀長」の陣所に逃れます。
4月20日には、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将「桑山重晴」も撤退を開始しますが、「丹羽長秀」の海津への上陸に戦局が変わります。
長秀率いる2000の軍勢は、撤退を開始していた「桑山重晴」隊と合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の「佐久間盛政」の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の奪還に成功します。
その日(20日)、大垣城にいた秀吉は、大岩山砦等の陣所陥落を知り、直ちに軍を返します。
午後2時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの52キロ(13里)の距離を、わずか5時間ほどで移動(美濃大返し)し、佐久間盛政隊と翌日の未明に激突。
52キロを走破した秀吉軍には疲れもあるせいか、両軍は激しい戦いとなります。
すると突然、激戦の最中に茂山に布陣していた柴田軍の「前田利家」隊が突如として戦線離脱、それに合わせ「不破勝光」「金森長近」隊も退却を始めます。
柴田軍の行動に、秀吉軍は一気に士気が上がり、全軍総がかりで柴田軍本隊へと突入。
さすがの勝家本隊も、多勢に無勢(衆寡敵せず)、退却を余儀なくされ、北の庄城(現福井城)へと退きます。
賤ケ岳の七本槍
この合戦で秀吉軍の勝利に導いた7人を後に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と言われています。
実際には、江戸初期の「甫庵太閤記」に見られる「賤ヶ岳の七本槍」の呼び名が初見です。
7人というのは語呂合わせで、「一柳家記」には「先懸之衆」として、七本槍以外にも「石田三成」や「大谷吉継」、「一柳直盛」も含めた羽柴軍の14人の武将が最前線で武功を挙げたと記録されています。
天正期成立の大村由己「天正記」内(柴田合戦記)には7人に加え「桜井佐吉家一」「石川兵助一光」の9人が挙げられています。
【賤ケ岳七本槍】
脇坂安治(1554年 – 1626年)
片桐且元(1556年 – 1615年)
平野長泰(1559年 – 1628年)
福島正則(1561年 – 1624年)
加藤清正(1562年 – 1611年)
糟屋武則(1562年 – 不詳)
加藤嘉明(1563年 – 1631年)
撤退した勝家のその後 お市の方は?
柴田勝家は、北ノ庄城(現福井城)に逃れるも、4月23日(6月13日)には、数日前までは見方であったはずの「前田利家」を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、「もはやここまで…」と決意し、翌日(24日)に正妻の「お市の方」らとともに自害します。
勝家とは年の差25歳あった「お市の方」。
戦国の絶世の美女と言われた存在で、元は「浅井長政」の妻でもありました。
1度ならずも2度までも、敗戦の将の妻となってしまい、北の庄城で勝家はお市に「逃げるように」と勧めたと言われています。
しかし、お市はそれを拒み、勝家との「死」を選び、3人の娘(茶々・初・江)を残して、この世を去ることになります。
勝家家臣の「佐久間盛政」は、「黒田官兵衛」に捕らえられ、のちに斬首、首は六条河原で晒されます。
一旦は秀吉に降伏するも、再度反旗を挙げた「織田信孝」は、再び岐阜城を包囲されて降伏、4月29日に自害します。
伊勢で反旗を翻した「滝川一益」は、1か月篭城し続けたものの、ついに開城、剃髪のうえ出家し、「丹羽長秀」の元、越前大野に蟄居しました。
賤ケ岳の戦い 自刃 討死武将
【羽柴秀吉軍】 | 【柴田勝家軍】 | ||
中川清秀 他 | 柴田勝家・織田信孝・佐久間盛政 他 |
【羽柴秀吉軍】 | 【柴田勝家軍】 | ||
美濃大返し | 秀吉の帰兵の速さに総崩れとなった |
賤ケ岳の戦い まとめ
1583年(天正11年)3月19日から始まった、羽柴秀吉と柴田勝家の「賤ケ岳の戦い」。
二分されていた織田家を統一するための戦いとなりました。
結果は、前田利家らの寝返りもあり「羽柴秀吉」の勝利となりました。
合戦後、秀吉の下には、徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の有力大名が相次いで戦勝祝いの使者を送ってきたことから、秀吉の国内における影響力が増大することに繋がりました。
この合戦の勝利で、信長の遺志を継承する天下統一への道が、秀吉によって大きく近づくことになりました。
柴田勝家とお市の方 辞世の句 「ほととぎす」
25歳も年が離れた夫婦。
戦国の世にありがちな「政略結婚」とも言えそうですが、2人の結婚生活はわずか1年足らずで終わります。
「お市は逃げよ…」という勝家の進言に、拒みつづけ、一緒に「死」を選んだお市の方。
2人の辞世に同じ言葉「ほととぎす」が入っているのです。
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
【訳】「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね」
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
【訳】「夏の夜の夢のように、儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ、語り伝えてくれまいか」
この辞世が本物かどうかは別として、今も昔も夫婦の絆みたいなものはあったのかもしれません。
戦に敗れ、こうして自ら命を絶つ、というのは戦国の世の倣いとはいえ、他の方法はなかったのかと、つくづく思えてなりません。
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