信長、本能寺で豪死!
決戦!天王山!
羽柴秀吉vs明智光秀
【山崎(天王山)の戦い】
1582年(天正10年)6月3日夕刻、備中高松城(岡山)で、城主「清水宗治」と合戦中、明智光秀が毛利方への密書が届けられる間者を捕らえた秀吉軍。
密書には、昨日(2日)早朝に、主君「信長討死」を報せる内容でした。
秀吉は、信長の弔い合戦のために、ただちに毛利軍との和議(5日清水宗治切腹)を結び、6日未明から畿内へと戻る、いわゆる「中国大返し」を敢行します。
6月13日に、摂津国と山城国の境にある「山崎」において、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が激突した戦いを「山崎(天王山)の戦い」と言います。
*天王山とは、頂点(優勝)を決する勝敗の分かれ目となる大事な機会(試合)をいい、プロ野球の公式戦終盤などで優勝を賭けた試合でよく使われていますね。
早速、紐解いてまいりましょう。

山崎(天王山)の戦い 場所 地図 アクセス
山崎(天王山)の戦いがあった場所は、現在の京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田にあり、現在の大山崎IC一帯です。
秀吉軍と光秀軍が対峙しました。
秀吉vs光秀!決戦に至るまで! 秀吉の中国大返し
秀吉が、本能寺の変の報せを受けたのが6月3日夕刻。(1582年天正10年)
その時は、「高松城の戦い」の最中であったものの、毛利氏との講和を速やかに取りまとめ、主君信長の弔い合戦のため「明智光秀」を討つために、京に向けて全軍を取って返した約8日間にわたる軍団大移動のことを言います。(中国大返し)
備中高松城(岡山市北区)から、決戦の場となった山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られています。
中国大返し 道程
秀吉が中国大返しを開始したと言われる日は、清水宗治が自刃した4日の翌日の5日から6日未明と言われています。(浅野家文書)(惟任謀反記)
6日に「沼城」(岡山市沼区)に入り、7日夕方には当時の秀吉の本拠地であった「姫路城」まで到達しています。
秀吉軍は、姫路城で休息と、城内にある秀吉の全財産を家臣全員に分け与え、9日に京へ向け出発。
9日の正午に「明石」へ到着し、翌10日夜に「兵庫」へと進みます。
翌11日朝に出発し、夕方に「尼崎」へ到着し、12日は「富田」まで進軍して野営し、13日には決戦の場となる「山崎」に到着しました。
日付(1582年6月) | 区 間 | 距離(合計) |
6日 | 高松城~沼城(岡山市沼区) | 22㎞ |
7日 | 沼城~姫路城 | 70㎞(92㎞) |
8日 | 休息日 賃金給付 | |
9日 | 姫路城~明石(市) | 35㎞(127㎞) |
10日 | 明石(市)~兵庫(神戸市) | 18㎞(145㎞) |
11日 | 兵庫(神戸市)~尼崎(市) | 26㎞(171㎞) |
12日 | 尼崎(市)~富田(高槻市) | 23㎞(194㎞) |
13日 | 富田(高槻市)~山崎 | 6㎞(200㎞) |
上記から、わずか8日の間で、約2万の大軍が200㎞もの距離を移動しています。
現代のように車や電車など無い時代に、人馬だけで200㎞駆けるなんて、つくづく驚かされてしまいますね~♪。

光秀の動き 信長を討った後~
本能寺で信長を討った後、光秀は変により混乱する京の治安維持に当たり、自らは居城の坂本城から安土城に向けて出立します。
「安土城」を押さえる事は、城内にある金銀財宝などの貯えも、今後の光秀には必要な財源のため、何としても欲しい重要事項の一つです。
5日には安土に着き、そして7日には勅使の「吉田兼見」と会見し、朝廷を味方につけようと銀子を与え、近江の平定を急ぎます。
数日後には瀬田城と日野城を残し近江を平定させ、その間も、有力諸大名に見方援軍に付くようにと呼びかけるものの、主君殺しの汚名のせいか、思うように集まりません。
特に親戚関係であり、娘(たま/細川ガラシャ)を嫁に出していた「細川藤孝・忠興」父子にも、「喪に服す」として拒まれています。
こうした中、10日に秀吉が中国大返しの最中との報を受け、急いで「淀城」と「勝竜寺城」の修築に取り掛かり、秀吉軍侵攻に対する防御態勢を整えます。
しかし、秀吉軍のあまりの大返しの速さに、戦力が十分に整わない光秀。

両者は12日、円明寺川(現小泉川)を挟んで対峙することになります。
山崎(天王山)の戦い 合戦図
山崎の合戦は6月13日の16:00頃、ついに両軍の戦いに火の手が上がり合戦となります。
秀吉の本陣は、天王山の麓にある宝積寺周辺に置かれ、光秀は勝龍寺城前の御坊塚に置かれました。
兵力差
【羽柴秀吉軍】 | 【明知光秀軍】 | ||
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4万 | 1万6000 | ![]() |
戦闘目的
【羽柴秀吉軍】 | 【明智光秀軍】 | ||
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光秀討伐 | 討伐阻止 | ![]() |
主な参戦武将
【羽柴秀吉軍】 | 【明智光秀軍】 | ||
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羽柴秀吉・高山右近・木村重茲・中川清秀・池田恒興・池田元助・加藤光泰・丹羽長秀・織田信孝・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治・蜂屋頼隆 他 | 明智光秀・斎藤利三・柴田勝定・阿閉貞征・明智茂朝・松田政近・並河易家・伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕・津田正時 他 | ![]() |
合戦のゆくえ
明智軍「斎藤利三」「伊勢貞興」隊が、羽柴軍「中川清秀」「高山右近」隊への攻撃を先駆けとして戦端が開かれます。
斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥りますが、秀吉本隊から「堀秀政」隊の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえます。
天王山に布陣していた「黒田官兵衛」「羽柴秀長」らの部隊は前方へと進軍し、天王山中腹を進撃してきた「松田政近」「並河易家」両隊と交戦し攻防が続いきます。
戦局が大きく動いたのは一刻後、淀川沿いを北上した「池田恒興」隊と「加藤光泰」隊が、密かに円明寺川を渡河して「津田信春」隊を奇襲。
津田隊は三方から攻め立てられ雑兵が逃げ出し、また、池田隊に続くように「丹羽長秀」「織田信孝」隊も右翼から一斉に押し寄せ、「明智光秀」本隊の側面を突くような形となります。
これを受けて、動揺が全軍に広がったのか明智軍は、じりじりと押され後退し始めます。
多勢に無勢、やがて「明智光秀」本隊は、後方の「勝竜寺城」に退却を余儀なくされ、主力の斎藤隊も敗走となり戦線離脱、「黒田官兵衛」隊と交戦していた「松田政近」隊も、殿(しんがり)を引き受けた「伊勢貞興」隊らも乱戦の中で討死するなど総崩れ。
一方の秀吉軍の消耗も激しく、日没となった事もあり追撃は単発なものに留まりますが、それ以上に明智軍の損害は大きく、落ち延び先の「勝竜寺城」も平城だったこともあり収容できず、兵の離散が相次ぎ、その数は700余にまで減少してしまいます。
光秀は、その夜(13日)、勝竜寺城を密かに脱出して、自らの居城である坂本城を目指しますが、小栗栖(明智藪/京都市伏見区)で民衆の落ち武者狩りに遭い自刃となりました。
信長が「本能寺の変」で討たれた11日後でした。
俗に言う、「光秀の三日天下」となってしまったのです。
山崎(天王山)の戦い 自刃 討死武将
【羽柴秀吉軍】 | 【明智光秀軍】 | ||
![]() |
明智光秀 他 | ![]() |
【羽柴秀吉軍】 | 【明智光秀軍】 | ||
![]() |
敵に十分な戦準備をさせなかった(中国大返し) | ![]() |
合戦準備不足 |
山崎(天王山)の戦い まとめ
本能寺の変の11日後(6月13日)に、「山崎の戦い」が始まり、わずか数時間の合戦で戦局は決まり、光秀の自刃により秀吉の勝利となりました。
織田信長が討たれた直後という事もあり、織田家の他の有力家臣はどうしていたのでしょうか…。
「本能寺の変」が起きた頃、信長の命に従い、「堺」を見物中で、帰国途路の飯盛山(四条畷市)付近で報せを受けます。
家康は、家臣たちに弔い合戦のために京入りを提言するも諫められ、伊賀越えを経て「岡崎城」に戻り、再び光秀討伐に向かったものの、山崎で光秀討死を聞き、反転して空白地帯となった甲斐・信濃に侵攻し、領土を拡大しています。
「本能寺の変」が起きた頃、上杉勢と交戦の真っただ中(魚津城の戦い)でした。
勝家は上杉対策を前田利家、佐々成政らに託して京に向かいましたが、越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に到達したところで光秀討死の報が入り、京へは向かわずそのまま清洲城に向かっています。
「本能寺の変」が起きた際、厩橋城(まやばしじょう/群馬県前橋市)で北条勢を牽制していました。
本能寺で信長が討たれたことに乗じて北条軍が上野に侵攻し、「神流川の戦い」(1582年6月16日/本能寺の変の2週間後)が起こり、第一次合戦で北条勢を退けるものの、第二次合戦で大敗しています。
本拠地・伊勢に7月に帰還しすも、清洲会議には参加が叶わず、以降は織田家家臣としての地位も低くなり凋落となります。
明智光秀の墓 辞世の句
1582年(天正10年)6月13日、本能寺で信長が討死してから11日後、三日天下の夢で55年の生涯(推定)を終えた「明智光秀」。
自らの居城があった滋賀県大津市坂本の「西教寺」に、光秀とその一族の墓が建立されています。
光秀の辞世の句は、漢文となっていますが、読みは次の通りです。
「順逆無二門」じゅんぎゃくにもんなし
「大道徹心源」だいどうしんげんにとほる
「五十五年夢」ごじゅうごねんのゆめ
「覚来帰一元」さめきたりいちげんにきす
意味は、
「順逆無二門」正しい道と逆の道に、二つの道はないのであろう(一本の道しかない)
「大道徹心源」人の大道(正しい行い)とは何であろうか
「五十五年夢」五十五年たった今、ようやく夢が覚め心の境地に達したようだ
「覚来帰一元」私は元の場所(冥土)へ帰るが、私の人生に悔いはない
信長や秀吉、家康らとともに、戦のない平和な天下を目指して走ってきた光秀は、この句を最後に自刃します。
ここには信長を討った後悔も、秀吉に負けた悔いもなく、自分は精一杯やれるだけやったのだという、悟りを得たような光秀の心境が伺われます。
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