信長、本能寺で死す!
旧武田領をめぐる、徳川・北条・上杉による争い
【天正壬午の乱】
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)とは、天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺の変で討たれ、同年3月にその信長から滅ぼされた旧武田領を、徳川家康・北条氏直・上杉景勝が約5か月もの間、奪い合う騒乱を言います。
大きくは、上記3者の戦いとして説明されていますが、その他の諸勢力として、木曽義昌や真田昌幸も加わった戦役でもあります。
本能寺の変で信長が討たれた以降、徳川・北条・上杉に、木曽・真田を加えた国取り合戦はいかに…。
早速ひも解いてまいりましょう…。
天正壬午の乱 勃発 武田家滅亡と本能寺の変
天正10年(1582年)3月11日「天目山の戦い(甲州征伐)」で、戦国最強と言われた武田家(当主勝頼)が討たれ武田家は滅亡しました。
当時の武田家の所領であった甲斐、信濃、駿河、上野は織田家の所領となり、駿河一国は家康の所領となります。
織田家に同調して、伊豆、駿河を攻めていたはずの北条には所領が与えられず、北条氏にとって不満の残る配領となりました。
それからわずか3か月後の6月2日、本能寺で信長が明智光秀によって討たれたという報せで、当時大坂(堺)にいた家康は、最も危険と言われていた「伊賀越え」を強行します。
本能寺の変による信長の横死により、無主人の空白地帯と化してしまった旧武田領を巡って、北条・徳川をはじめ回りの戦国猛者たちが奪い合う「天正壬午の乱」が勃発することになります。
徳川家康の進運
本能寺の変から2日後の6月4日、家康は伊賀越えを強行し命からがら岡崎城(愛知県岡崎市)に帰城すると、光秀討伐の軍を起こすと同時に、空白状態となった甲斐・信濃の攻略の準備を進めます。
「皆の者、明知討伐軍と甲斐侵攻軍に分け侵攻せよ!」
家康はまず最初に、明智討伐に加え、信長の後継者と見なされる次男「織田信雄」に、甲斐・信濃(旧織田領)侵攻への同意を求めます。
(後に、光秀を倒した秀吉も、家康に信濃・甲斐・上野を敵方に渡さぬよう命令しています。7月7日付秀吉書状/この時すでに光秀を倒していた秀吉は、信長の後継者は自分であると思っていた)
6月4日に帰城したものの、数日の雨により出陣が14日まで延期となった家康は、10日に甲斐に留まっている織田家の河尻秀隆へ美濃に戻るよう伝えるため、使者 本多信俊を派遣します。(当代記)
14日本多信俊は、一揆が起きれば援軍を出すことを河尻秀隆に伝えるものの、河尻秀隆は信俊が一揆を煽動して自分を討とうとしていると疑い、信俊をもてなした後の就寝中に長刀で突き殺してしまいます。(三河物語)
翌15日に、甲斐国人衆が一揆を起こすと河尻秀隆は脱出を試みるも、18日に一揆勢に殺害されます。
6月14日、雨もやみいよいよ、家康・酒井忠次・本多忠勝・石川数正らは岡崎城を出陣、鳴海へ向かいます。
その翌日15日鳴海着陣中、山崎の戦いで明智光秀が秀吉に討たれた(14日)との報告を受けます。
家康は酒井忠次を津島に前進させ(17日)情報を確認し、秀吉から上方は平定したとの書状が届いたので(19日)、21日に軍を返して浜松へと戻ります。
秀吉に先を越されたと思ったのか、家康は浜松へ戻り、信濃・甲斐の国人衆の掌握を進める一方で、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませて南信濃を確保させるよう命じます。
7月2日、家康は浜松城を出陣、8日には駿河から大宮を経て甲斐へと進軍し、7月9日に甲府入り。
この時点で家康は、信濃南部と八代・巨摩・山梨の甲斐3郡を掌握。(しかし、佐久郡は碓氷峠を越えてきた北条に略奪される/その後秀吉7月7日付書状が届く)
7月上旬、酒井忠次が北上するも諏訪郡の高島城「諏訪頼忠」を調略できず足止め。
7月中旬、徳川が支援する「小笠原貞慶」が深志城を攻撃、占領。
7月19日頃、千曲川で上杉と対峙していた北条軍(兵数43,000)が上杉軍と講和を画策。
7月29日北条・上杉の停戦が合意され、北条軍が甲斐方面へ進軍(南下)する。
諏訪高島城「諏訪頼忠」「保科正直」らは北条方となり、北条軍南下のため酒井忠次・大久保忠世ら徳川衆は甲斐へ、奥平信昌・下条頼安らは伊那郡 飯田城へ撤退。
8月10日、家康が甲府を出陣、新府城に入り本陣を置く(兵8,000)。北条軍との対峙は80日間続く。
8月12日、鳥居元忠(兵数2,000)が背後から侵攻してきた別動隊「北条氏忠」(兵数10,000)と合戦。
二手に分かれていた北条軍を攻撃、勝利する(黒駒の戦い)。
この勝利により「保科正直」ら旧武田衆を味方につけ、22日には木曽郡の「木曽義昌」も徳川方につけ、さらに9月上旬には、北条方に付いていた「真田昌幸」に領土の安堵を条件に徳川方につけます。
10月上旬には、徳川軍についた「真田昌幸」「依田信蕃」が、佐久郡の諸城や碓氷峠を占領、北条本隊の補給路を断ちます。
10月28日、北条氏直から和睦の申し入れがあり、北条との講和が成立。
信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領(真田の沼田領は切り取り次第)とし、家康次女の督姫を北条氏直に婚約させて同盟を結ぶ。
北条氏直の進軍 神流川の戦いで織田軍(滝川隊)を壊滅
1582(天正10)年6月11日、本能寺の変の報せを知った「北条氏政」(氏直父)は、滝川一益に北条は織田家に協力することを伝えます。(戦国遺文後北条氏編)
「北条は、猜疑心など一切ございません。織田家に忠心を誓いまする」
滝川一益の前では、いったんこう言っておきながら、しかし、16日に滝川一益を相手に宣戦布告。
18日にいったん後退するも、翌19日「神流川の戦い」で、北条氏直が滝川一益を撃破、上野を掌握します。
26日には信濃佐久郡への足掛かりに、7月9日には「真田昌幸」が臣従の意を示し、昌幸を先方として北条主力軍4万3000を上野より碓氷峠を越え、信濃方面へ着手します(12日)。
7月14日北条氏直軍(兵43,000)は、上杉景勝軍(兵数8,000)川中島の千曲川で対峙。
佐久を奪取された格好となった徳川軍ですが、白兵戦を展開し甲斐から北進の動きを進め、諏訪高島城への攻城を開始。(7月上旬)
7月29日北条氏直は、上杉軍と徳川軍の挟撃だけは避けたいと考え、「新発田重家」への憂いがある上杉方の思惑が合致し、北条と上杉の間で停戦合意。
「このままでは、上杉と徳川の挟撃に合う…。いったん停戦するしかあるまい…!」
この講和により、北条は上杉の北部4郡の所領化を認め、上杉は川中島以南へ出兵しないとし、信濃は北条の切り取り次第としました。
北信濃を諦めた北条氏直は、狙いを反転し甲斐の徳川に目を向け進軍を開始、諏訪高島城「諏訪頼忠」「保科正直」らの国衆を味方につけます。
8月6日、北条氏直本隊が甲斐に入り、若神子に本陣を置く。新府城の徳川軍(兵数8,000)と対峙します。
8月10日から、家康のいる新府城へ、北条別動隊が侵攻。
さらに増援軍として「北条氏忠」(兵数10,000)も甲斐へ参戦。
8月12日「北条氏忠」が、家康の新府城と甲斐に散らばる徳川軍に兵力を分散していたところを、徳川軍の「鳥居元忠」(兵数2,000)に攻撃され、敗北(黒駒の戦い)。
これにより甲斐の旧武田衆が徳川方に付き、22日には木曽郡の「木曽義昌」も徳川に付いてしまいます。
9月上旬、徳川の「依田信蕃」が、北条方に付いていたはずの「真田昌幸」を調略し徳川方へ寝返らせ、また高遠城の「保科正直」も徳川方についてしまいます。
9月中旬、徳川隊「佐竹義重」「宇都宮国綱」に館林城を攻撃され、さらに古河へも侵攻される。
9月下旬、北条氏政が小田原から駿河沼津城へ反撃進軍するも、徳川軍に敗北。
10月上旬、徳川軍「真田昌幸」「依田信蕃」が佐久郡の諸城や碓氷峠を占領、北条軍は補給路を断たれてしまいます。
その後、「佐竹義重」が上野国へ侵攻、北条方の館林城を攻撃し、10月28日、北条氏直が家康に和睦を申し入れ、徳川と講和が成立。
信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領(真田の沼田領は切り取り次第)とし、家康の次女督姫と北条氏直を婚約させることが決まり同盟を結びました。
上杉景勝の進軍
1582年(天正10年)本能寺の変が起こった翌日の6月3日、織田軍(柴田勝家)の攻撃により魚津城が落城します。(魚津城の戦い)
6月6日に、本能寺の変の報せが柴田勝家の元に送られ、春日山城へ進軍していた織田軍の「森長可」「滝川一益」、また「柴田勝家」は撤退。
6月8日、上杉景勝が家臣の色部長実へ、上方で凶事があり織田諸将は悉く敗軍になったと伝えます。(上杉家御年譜)
「上方で凶事あり。信長殿自刃!」
6月中旬、景勝はの分がの横死を知ると、すぐさま北信濃の調略を開始。
自らも春日山城を出て出陣し、川中島四郡を抑えて海津城へ入ります。
6月下旬「真田昌幸」が臣下に入り、木曽義昌の深志城に侵攻陥落。
7月9日「真田正幸」が北条方に寝返り、翌10日には徳川方の「小笠原貞慶」に深志城を奪われ、7月12日北条軍が、碓氷峠を越え信濃へ侵攻してきます。
7月13日海津城主の「春日信達」が、北条方へ内通していたことが発覚、春日信達を処刑。
7月14日景勝は、北条氏直軍と川中島の千曲川で対峙。
春日信達の調略に失敗した北条氏直は、上杉軍との停戦に合意。
7月29日、北条軍は引き返し、徳川軍のいる甲斐方面へ進軍。
8月9日、景勝は北信濃の諸城を抑え、新発田重家の新発田城を包囲するも、城周辺が湿地帯で攻撃が困難なため退却。
その後、上方では秀吉と柴田勝家が対立、両者から協力を要請される。
真田昌幸の進軍
1582(天正10)年6月2日の本能寺の変後、沼田城は織田軍の滝川一益から「真田昌幸」へ引き渡され、6月13日に昌幸が城を請け取る。
「フォフォフォ、信長様の豪死で、城(沼田城)がタダで手に入ったわい…」
6月19日の「神流川の戦い」で織田方の滝川一益が北条軍に敗れ、真田昌幸は一旦は上杉方へ組する事を申し出るものの、7月9日「北条氏直」が上野に侵攻したため、北条方に鞍替え(服従)します。
次に真田昌幸は、上杉方である海津城主「春日信達」を調略し、寝返り工作を行います。
7月13日、「春日信達」の寝返りが上杉方に発覚してしまい、春日信達は上杉方によって処刑されます。
その後北条軍は、甲斐(徳川)へ進軍します。
9月に入ると、真田昌幸は「徳川家康」から領土の安堵を持ちかけられ、今度は北条を離反します。
10月、真田昌幸は、旧武田家臣「依田信蕃」とともに碓氷峠を占領。
信濃国に侵攻している北条軍の補給路を断ち、北条軍は窮地に立たされます。
10月29日、徳川と北条が講和を結び、条件として「北条氏直と家康の娘督姫の結婚」「甲斐と信濃は家康に、上野は北条に切り取り次第」とし相互に干渉しないとされ、こうして本能寺の変から約5ヶ月続いた乱はいったん終息するに至りました。
天正壬午の乱 まとめ
徳川・北条同盟の成立により徳川・上杉・北条三者による争いは集結したかに思えました。
しかし、徳川と北条の同盟による、上野は北条の切り取り次第となりますが、元は真田領である上野・沼田の領有・帰属について問題を残しています。
徳川は、形式上従属した真田に対して、「沼田を北条へ明け渡す」ことを求めますが、真田は代替地を要求し、両者(真田・徳川)の関係は悪化することになります。
当初、両者に縁のある「依田信蕃」が仲介役となって奔走するも、信蕃が岩尾城攻めで戦死すると両者の溝は決定的なものとなってしまいます。
しばらくは対上杉への抑えとして真田の重要性が増し、徳川としても強権的な対応を取れないでいましたが、やがて真田は対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉に寝返り、徳川と敵対することとなります。
その後、天正13年(1585年)に徳川軍が上田に攻め入り、また並行して北条軍が沼田に攻め入り、第一次上田合戦へと続いていくことになるのです。
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