現代の会社社長が「好きな歴史人物」NO1が「徳川家康」です。
家康は「海道一の弓取り」の異名を持ち、信長、秀吉と共に戦国の世を駆け巡り、徳川260余年の礎を築いた人物でもあります。
信長や秀吉と比べ、堅実で慎重派である家康は派手さは無いものの、辛抱強く時代を見据える先見の明があったといわれます。
秀吉亡き後、ついに徳川政権を築き上げた家康の成功哲学「人生(全合戦)」を紐解いてまいります。
徳川家康 生まれ 誕生日 城
三河松平家第8代当主松平広忠の嫡男として1543年(天文11年)12月26日に岡崎城(愛知県岡崎市)で誕生。
母は広忠正室の於大、幼名は「竹千代」。
竹千代(家康)が6歳になる1548年(天文16年)に、今川家の人質として駿府に送られる途中、義母の父・戸田康光の裏切りにより織田家の人質とされる。
この頃、信長(吉法師13才)と家康(竹千代6歳)が出合うことになり、その後(歴史上)の関係となっていきます。
2年後には、織田信広(信長兄)との人質交換によって家康(竹千代8歳)は再び今川家の人質として駿府へと移ることになります。
1555年(天文24年)3月、今川義元の下で元服し、「次郎三郎元信」と名乗り、その後「蔵人佐元康(もとやす)」と改名します。
1558年(永禄元年)2月、今川から織田に通じた「寺部城主・鈴木重辰」を攻め初陣を果たし、今川義元から300貫文(現在で約3000万円)の地と腰刀をもらいました。
【岡崎城 アクセス】
徳川家康 名前の変遷 幼名は竹千代
戦国時代では、武将の名前がよく変わることがあります。
幼少時代の名前から、元服後や出世する毎に名前が変わるのが通例となっていました。
家康もその1人で、幼名は「竹千代」(1543年)と言われました。この竹千代という名前は、その後徳川将軍家の幼名となります。
元服(1555年)後、今川義元から「松平元信」もらうことになるのですが、元信の「信」の文字が、当時の敵である織田家信長の信であったため、祖父の清康の康の字をもらって「松平元康」と改名しました。
桶狭間合戦(1560年)後、松平家は今川と分かれ織田家と同盟(1562年)を結び、今川義元の「元」を返上し、「家康」(1563年)と改めました。
1566年に朝廷より「従五位下・三河守」を任官され、松平から「徳川」に改める勅許を得ました。
家康が姓を「徳川」にした目的は、松平という苗字のままでは叙位任官ができないということがわかり、当時の習慣として源氏、平氏、藤原氏、橘氏といったいわゆる「天下四姓」に繋がらなければ叙位任官が叶わなかった、という事から改名をしています。
当初家康は先祖が称していたという新田源氏の徳川氏に結びつけ申請したものの、間に入った近衛前久の意向で、家康の意に反しながらも藤原姓徳川氏となり、その後、源平交代の思想を意識し、改めて源姓徳川氏に変わっています。(新人物往来社「詳細図説家康記」小和田哲男2010年)
徳川家康 肖像画
「徳川家康」といえば、知らない人はいませんね。
このコーナでは、教科書で見たような”ちょっと太ったおじさん(家康)”はもちろんですが、あまり目にしたことのない「徳川家康」の肖像画もご紹介してまいります。
さて、どんな家康がいるのか楽しみです…♪
いかがでしょうか…。いろんな家康がいますね…。
信長、秀吉、家康の3大豪傑と比べると、「家康」の肖像画が一番多く描かれています(残っています)。
ただ家康の場合、若き日々の家康よりは、徳川幕府を開いた後の肖像画が多いようですね。
特に、最後の画像は1573年(元亀2年)、家康が30歳の若い頃、武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」で敗れた後の肖像画です。
顔をゆがめ憔悴したその特異な容貌姿態は、戦いに敗れ糞まみれで逃げ帰った窮状を、忘れないために描かせた、と言われています。
この肖像画は、家康自身が「自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ自戒のために座右に置いた」という逸話も残され家康の人間性をよく表しています。
「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」という人生譚が、現代の日本人に共感を呼んでいるといわれています。
徳川家康の生涯 年表・合戦
この歌は19世紀(1800年代)の初旬、作者不明の風刺歌です。(絵は1837年「歌川芳虎」が描いた)
意味は、信長が苦労して乱世の世を終息させようと天下統一事業を進め、それを受け継いだ秀吉がやっと天下統一を完成させたものを、家康が何の苦労もなくそれを引き継いだ、というものです。
家康が「何もせずに…」とは言いすぎですが、日々戦が行われていた戦国の世に、どのようにして徳川260余年の礎を作っていったのか、家康の生涯を合戦を通して見てまいりましょう。
年 暦 | 月 日 | 年齢満 | 出 来 事 | 内 容 |
1543年(天文11年) | 12月26日 | 0歳 | 誕生 | 三河国松平広忠の嫡子として岡崎城で「誕生」 幼名竹千代 |
1548年(天文16年) | 8月2日 | 5歳 | 幼い人質 | 今川家に人質として送られるも戸田康光の裏切りで織田信秀(信長父)に送られる |
1550年(天文18年) | 12月 | 10歳 | 今川に人質 | 信秀の子、信広と人質交換で駿府(今川領)へ送られる |
1556年(天文24年) | 3月 | 13歳 | 元服 | 今川義元の下で元服し「次郎三郎元信」と名乗る 後に元康と改名 |
1558年(永禄元年) | 2月5日 | 15歳 | 初陣 | 初陣で寺部城「鈴木重辰」を攻める |
1560年(永禄3年) | 5月 | 17歳 | 桶狭間の戦い | 「桶狭間の戦い」で先鋒を任される 今川義元討死 岡崎城帰還する |
1562年(永禄5年) | 19歳 | 清州同盟 | 今川氏と分かれ「信長」と同盟 | |
1563年(永禄6年) | 20歳 | 改名 | 今川義元の元の字を返上し、元康から「家康」と改名 | |
1563年(永禄6年) | 10月 | 20歳 | 「内戦勃発」 | 「三河一向一揆」勃発 これを鎮圧 |
1566年(永禄9年) | 23歳 | 「三河平定」 | 牛久保城攻略し奥三河・東三河平定 三河国統一 | |
1566年(永禄9年) | 23歳 | 改姓 | 朝廷より従五位三河守に叙任され松平から「徳川」と改姓 | |
1569年(永禄12年) | 26歳 | 和睦 | 今川氏真と和睦し遠江「掛川城」を領有する | |
1569年(永禄12年) | 26歳 | 武田家の裏切り | 武田との同盟を結ぶも遠江国の侵攻を受け武田と敵対 | |
1570年(永禄13年) | 6月 | 27歳 | 浜松城 | 遠江国曳間に移り「浜松」と改名し浜松城を築く |
1570年(永禄12年) | 27歳 | 「信長に援軍」 | 信長に援軍を出すも、浅井長政の裏切りにあい「金ヶ崎の戦い」で撤退する | |
1570年(永禄13年) | 6月 | 27歳 | 「姉川が血に染まる」 | 「姉川の戦い」で功績をあげる |
1572年(元亀3年) | 10月 | 29歳 | 「退却戦」 | 「一言坂の戦い」遠江二俣城を巡り武田信玄(上洛戦)との間で行われた戦い |
1572年(元亀3年) | 12月 | 29歳 | 「落城」 | 「二俣城の戦い」家康信長の援軍を期待するも水を絶たれ、城主中根正照降伏 落城 |
1572年(元亀3年) | 12月 | 29歳 | 「人生最大の危機」 | 「三方ヶ原の戦い」で武田軍相手に大敗する |
1574年(天正2年) | 5月 | 31歳 | 「遠江東の要」 | 「高天神城の戦い」(第一次)で武田勝頼に降伏 |
1575年(天正3年) | 5月 | 32歳 | 「織田・徳川連合軍」 | 「長篠の戦い」で武田(勝頼)軍に大打撃を負わせる |
1575年(天正3年) | 32歳 | 「二俣城奪還なる」 | 武田軍に奪われた「二俣城」を攻め奪還する | |
1579年(天正7年) | 36歳 | 「信康事件」 | 武田と内通したと信長の命により嫡男「信康」切腹、正室「築山殿」暗殺 | |
1581年(天正9年) | 3月 | 38歳 | 「遠江平定」 | 「高天神城の戦い」(第二次)で武田勝頼に奪われた高天神城を攻め奪還 遠江平定 |
1582年(天正10年) | 3月 | 39歳 | 「武田家滅亡」 | 「天目山の戦い」で武田勝頼自害し武田氏滅亡 |
1582年(天正10年) | 6月 | 39歳 | 「織田信長討たれる」 | 「本能寺の変」明智光秀謀反により織田信長自害 |
1582年(天正10年) | 6月 | 39歳 | 「伊賀越え」 | 服部半蔵の進言を受け、堺より伊賀国を超え海路で三河国へ戻る |
1582年(天正10年) | 10月 | 39歳 | 「天正壬午の乱」 | 徳川・北条・上杉三つ巴戦「天正壬午の乱」で甲斐国・信濃国を領有 北条とは同盟 |
1583年(天正11年) | 40歳 | 「賤ケ岳の戦い」 | 秀吉・織田信雄と組み「賤ケ岳の戦い」で織田筆頭家老柴田勝家を破る | |
1584年(天正12年) | 4月 | 41歳 | 「秀吉との勝負」 | 「小牧・長久手の戦い」で秀吉軍を破る 同11月和睦成立 |
1586年(天正14年) | 4月 | 43歳 | 結婚 | 秀吉妹「朝日」と結婚 |
1586年(天正14年) | 10月 | 43歳 | 秀吉に臣下の礼 | 大政所を人質に上洛し、秀吉に「臣下の礼」をとる |
1587年(天正15年) | 8月 | 44歳 | 駿河大納言 | 「従二位・権大納言」に叙任 駿河大納言(駿府左大将)と呼ばれる |
1590年(天正17年) | 7月 | 47歳 | 「小田原征伐」 | 北条氏政・氏直父子、秀吉に降伏し自害 北条家滅亡 |
1590年(天正17年) | 8月 | 47歳 | 東国移封 | 秀吉の命で関八州に移封される 江戸城入城 |
1592年(文禄元年) | 49歳 | 「朝鮮出兵(文禄)」 | 秀吉の朝鮮出兵はじまる「文禄の役」 家康自らは名護屋へ留まる | |
1596年(慶長元年) | 5月 | 53歳 | 内府様 | 秀吉の推挙により「内大臣」に任じられる その後「内府」と呼ばれる |
1597年(慶長2年) | 1月 | 54歳 | 「朝鮮出兵(慶長)」 | 第二次朝鮮出兵「慶長の役」 家康は伏見(京都)滞在 |
1598年(慶長3年) | 8月 | 55歳 | 秀吉没 | 天下人「豊臣秀吉」死没 |
1600年(慶長5年) | 9月 | 57歳 | 「天下分け目の大戦」 | 石田三成との「関ヶ原の戦い」で勝利する |
1603年(慶長8年) | 2月 | 60歳 | 宣旨 | 朝廷より「征夷大将軍・右大臣」に任命される |
1605年(慶長10年) | 4月 | 62歳 | 大御所 | 将軍職を三男「秀忠」に譲り大御所となる |
1611年(慶長16年) | 3月 | 68歳 | 主従関係逆転⁉ | 秀頼がついに上洛し徳川が豊臣より優位であることを明示した事で立場が逆転したとされる |
1614年(慶長19年) | 4月 | 71歳 | 方広寺事件 | 方広寺の梵鐘に「国家安康」の文字 大坂冬の陣のきっかけとなる |
1614年(慶長19年) | 11月 | 71歳 | 「大坂冬の陣」 | 20万の大軍で大坂城を包囲 その後和睦するが大坂城は丸裸にされる |
1615年(慶長20年) | 5月 | 72歳 | 「大坂夏の陣」 | 大坂城落城 秀頼・淀殿自害 豊臣家滅亡 |
1615年(慶長20年) | 6月 | 72歳 | 諸大名統制令発布 | 「武家諸法度」「一国一城令」が制定される |
1616年(元和2年) | 3月 | 73歳 | 叙任 | 「太政大臣」武家では4人目となる (平清盛・足利義満・豊臣秀吉) |
1616年(元和2年) | 4月17日 | 73歳 | 浮世の夢は暁の空 | 家康 駿府城で死ぬ |
徳川家康の死因は「鯛の天ぷら」ではなく「胃がん」だった!?
死因についての多くは、鯛の天ぷらによる食中毒説が広く一般化されていますが、実際に食べたのは1月中旬頃で、死去するのが4月であれば、あまりにも日数が経ち過ぎていることから、この説の信頼度は低いと考えられています。
家康死因の真説は、「徳川実記」が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていることと、その症状が胃がん患者に多く見けられることから「胃がん」による死亡だったという説が浮上しています。
遺体はその後、久能山(現久能山東照宮)に移され、1年後に日光東照宮に分納され、「東照大権現」の神号と「正一位」が勅許されます。
徳川家康 遺訓 辞世の句
戦国の世の時代に生まれ、信長、秀吉と共に生きてきた人生。
最後に天下統一を成し遂げ、戦のない平和な徳川260余年の礎を築き上げました。
下記は家康の辞世の句ですが、2つあるといわれていますので紹介します。
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