【越前一向一揆殲滅戦】一人残らず探し出せ!そして女・子供構わず、すべて斬り捨てよ!

信長全合戦

 

信長のあくなき執念!集団殺戮ジェノサイド!

【信長vs本願寺越前一向一揆衆】

昨年(1574年天正2年)の9月に「長島一向一揆衆」を制圧し、先の5月には「長篠の戦い」で武田勝頼に大勝した信長ですが、全国に広がり「反信長体制」を敷いている一向一揆衆には情け容赦がありません。

天下統一のためには避けては通れない「本願寺・一向一揆衆」の次なるターゲットは「越前一向一揆」です。

1575年8月15日から始まった「越前一向一揆殲滅戦」紐解いてまいります。

信長
長島の一揆衆と同様にしてくれるわ!一気に攻め込め!!

越前一向一揆殲滅戦 場所 アクセス

越前一向一揆殲滅戦の行われた場所は、現在の福井県敦賀市から福井市までの一帯となります。

「現在の地図(位置)」

越前一向一揆殲滅戦

越前一向一揆殲滅戦 信長の動き

石山本願寺の支配下に置かれてた越前は、本願寺から派遣されていた「下間頼照(しもまらいしょう)」の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政といわれるものではなかったようです。

「下間頼照」は、自らの私腹を肥やすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義のもと、以前の政(まつりごと)以上の重税や重役を門徒宗に課しました。

そのため、下間らの行う統治に不満を抱くもの達が暴発し、一揆内一揆が発生し、一揆勢は内部から崩壊し始めます。

信長は、こうした内輪で揉めている越前に、絶好の好機とし、8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の「小谷城」で信長軍へ攻撃の手はずを整えます。

そして14日に信長は「敦賀城」に入り、越前一揆衆との臨戦態勢を敷きます。

信長
全軍、手はずは整っているか!明日、全軍で突撃する!

高屋城の戦い 織田軍vs越前・本願寺軍 布陣 戦力比較

兵力差

【織田軍】 【越前・本願寺軍
3万 不明

戦闘目的

【織田軍】 【越前・本願寺軍】
越前一向一揆討伐 討伐阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【越前・本願寺軍】
織田信長・柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・金森長近・一式義道 他 下間頼照・下間頼俊・杉浦玄任・七里頼周・安居(朝倉)景武 他

越前一向一揆殲滅戦 合戦のゆくえ

信長忍隊の事前の情報によると、越前一揆勢の配置は以下だったといいます。

  • 「板取城」 下間頼俊と越前一揆勢
  • 「鉢伏城」 阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆
  • 「今城・火燧城」 下間頼照
  • 「杉津城」 円強寺衆と加賀衆
  • 「大良城・河野城」 若林長門守・甚七郎父子と越前衆
  • 「府中竜門寺」 三宅権丞
  • 「鳥羽城」

満を持して、8月15日、ついに信長の下知が飛びます。

信長
全軍、かかれ! 越前衆を皆殺しにせよ!

この日は風雨の強い日でありましたが織田軍は全軍で越前に乱入します。

信長率いる織田軍は3万余。

武将は重臣柴田勝家をはじめ、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀などの主力部隊で、一部には坊官の悪政に反発し織田勢に寝返った国人や浪人、一揆衆が配置されていました。

海上からも粟屋勝久、一式義道らの水軍数百艘が侵入し、浦や港に上陸し、回りの城下に放火します。

織田信長覇道の全合戦

対する一向一揆側は、「杉津砦」の円強寺衆と加賀衆が反撃してきますが、羽柴秀吉・明智光秀がこれを打ち破り200~300人ほど首級を挙げ、大良城・杉津城・河野城を焼き払います。

夜陰に紛れ、織田勢は「府中竜門寺」に夜襲をかけ城下に放火。

背後を攻撃された「鉢伏城」「今城」「火燧城」は「府中竜門寺城」へと引きますが、その「府中竜門寺城」では、羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られます。

秀吉
御館さま~、首級いっぱい挙げましたぁ~♪

ご褒美たくさんくださいね~♪

「鉢伏城」に拠っていた杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて斬首します。

8月15日、織田軍は向きを変え「杉津城」に攻撃を開始します。

この城は大塩円強寺堀江景忠が守っていましたが、織田の大軍が進軍してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返ります。

これを受けて、「板取城」の下間頼俊、「火燧城」の下間頼照、そして「今城」の七里頼周逃亡

一向一揆勢は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥ります。

16日、信長は馬廻をはじめとした兵1万を率いて敦賀を出発し、「府中竜門寺城」に布陣すると、「今城」には福田三河守を入れて通行路を確保。

下間頼俊・頼照らは越前の山中に逃亡し潜伏しますが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返っていた安居(朝倉)景健は、この2名を殺害。

安居(朝倉)景健は、下間頼照・頼俊らの首を持参して信長に投降するも許されず自害を命じられます

この時、安居(朝倉)景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死しました。(信長公記)

18日には、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が「鳥羽城」を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させ、金森長近、原長頼は大野郡へ入り、数箇所の城を落として周りの城下を焼き払い一乗谷へ向かいます。

越前一揆勢は完全に崩壊となり、右往左往しながら山中へ逃げていきます。

しかし信長は殲滅の手をゆるめず、

信長
一人残らず探し出せ! そして女・子供構わず、すべて斬り捨てよ!

この非情の無い信長の仕打ちによって、一揆衆は2万人以上が討ち取られ、さらに奴隷や女中、妾として各国元へ送られた数は3万人以上とされています。

9月2日には、一向一揆の味方をしたことを問われた「豊原寺」が全山の焼き討ちを受け、こうして越前から一向衆は完全に排除されることになりました。

討死武将

【織田軍】 【三好・本願寺軍】
不明 下間頼照・下間頼俊・杉浦玄任・安居(朝倉)景武・七里頼周 他 2万~3万人

 

【織田軍】 【越前・本願寺軍】
情け容赦ない徹底した集団殺戮 内輪もめによる内部崩壊が起こした一方的敗戦

越前一向一揆殲滅戦 その後 まとめ

戦後信長は、越前8郡75万石を柴田勝家に与え、「北ノ庄」城主に命じます。

越前府中10万石は前田利家・佐々成政・不破光治に均等に与えられ、府中三人衆として勝家の補佐・監視役を担いました。

また、大野3万石は金森長近に、2万石は原長頼に与えられ、こうして、柴田勝家を頂点とする織田家の北陸方面における支配体制が確立することになりました。

 

昭和7年に、「小丸城」跡(福井県越前市五分市町28)から発見された瓦の一部に、「5月24日(1576年と推定)に、前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く」という内容の書き置きが残されています。

「此書物、後世二御らんしられ、御物かたり可有候、然者五月廿四日いき(一揆)おこり、其まゝ前田又左衛門尉(前田利家)殿、いき千人はかりいけとり(生捕)させられ候也、御せいはい(成敗)ハ、はつつけ(磔)かま(釜)ニいられあふられ候哉、如此候、一ふて(筆)書とゝめ(留)候。」

「越前の里資料館(文字瓦)」

 

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