【高屋城の戦い】三好・本願寺との因縁の対決!十河一行・香西長信散る!

信長全合戦

 

三好・石山本願寺との因縁合戦!

【高屋城の戦い】

一時は畿内で政権を牛耳っていた三好氏も、「三好三人衆」が滅び、三好氏本家の「三好吉継」も若江城で自害して宗家は滅亡していました。

ただ、三好長慶の叔父にあたる「三好康長」だけは「石山本願寺」と結んで河内の残存勢力を集め、「高屋城」で信長に抵抗を続けていました。

「信長包囲網」「一揆衆の蜂起」といういくつもの窮地に立たされ、その都度突破してきた信長ですが、いづれも張本人である「石山本願寺」との決着は付いていません。

昨年1574年(天正2年)9月に、長島一揆衆を制圧し、いよいよ本命「本願寺」との直接対決の前哨戦ともいえるのが「高屋城の戦い」です。

三好康永・本願寺連合軍vs織田信長の構図なった「高屋城の戦い」紐解いてまいりましょう。

信長
三好康長め、悪あがきしよって…。

高屋城の戦い 場所 アクセス

高屋城は、現在の大阪府羽曳野市にあった城で、元は畠山義就が1479年に築城しました。

現況は廃城されており、本丸跡は27代「安閑天皇(あんかんてんのう)」陵に治定されている「高屋築山古墳」となり立入は禁止となっています。

「現在の地図(位置)」

高屋城(高山築山古墳)

高屋城位置 左大阪湾 右奈良市

高屋城配置

高屋城の戦い 信長の動き

1573年(天正3年)3月22日、信長は「細川藤孝(ほそかわふじたか)」に命じます。(信長朱印状/細川家文)

信長
来たる秋、大坂合戦を申し付け候。

然らば、丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。

この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべきこと肝要の状、件の如し。

「秋には石山本願寺を攻撃するので、丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備を進めておくように。」

これに対し、本願寺側は、大和田と天満に「砦」をつくり、渡辺や神崎あたりまで進軍して信長の進撃に対抗します。

この行動に信長方の「荒木村重」が兵を送り破壊を試みるも、一旦は敗れはしたものの、再三の攻撃でついに「大和田砦」と「天満砦」を奪うことに成功します。

これを好機と見たのか、4月6日に京を出立します。

高屋城の戦い 織田軍vs三好・本願寺軍 布陣 動員数 戦力比較

兵力差

【織田軍】 【三好・本願寺軍
10万 不明

戦闘目的

【織田軍】 【三好・本願寺軍】
三好康長討伐 討伐阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【三好・本願寺軍】
織田信長・柴田勝家・羽柴秀長・佐久間信盛・塙直政・荒木村重 他 三好康長・顕如・遊佐信教・十河一行・香西長信 他

高屋城の戦い 合戦のゆくえ

4月7日、「若江城」へ着陣。

8日、高屋城の東、駒ヶ谷山に布陣し「高屋城」城下の田畑麦を焼き払います。

「高屋城」の三好康長はたまらず出撃し、不動坂口で織田軍と激しい合戦となります。

織田信長覇道の全合戦

12日には、大坂住吉へ進軍し、各周辺の武将や根来衆と合流し、総勢10万の大軍となります。

10万を超える大軍となった信長軍は、天王寺へと移動し「石山本願寺」と対峙します。

石山本願寺周辺の農作物を薙ぎ払い、17日には堺に近い三好方の出城である「新堀城」を包囲。

「新堀城」には十河一行・香西長信らの守将がいましたが、19日昼に堀を草を入れ埋め戻し、夜になって火矢で一斉攻撃し城内へ突入。

敵方も大手・搦手から撃って出るものの、多勢に無勢、織田方は170余りの首級を挙げられ「十河一行」は討死、「香西長信」は生け捕りにされ斬首されます。

香西長信はかつて「野田城・福島城の戦い」で、信長に帰順していたのに、再び反旗を翻して三好方に属しました。

信長は、長信のこうした振る舞いを非難して斬首したと言われています。

「新堀城」が落城すると、三好康長は信長の側近であった「松井友閑(まついゆうかん)」を仲介に降伏を申し出ます。

信長は、三好康長を赦免し「高屋城の戦い」は終結することになりました。

討死武将

【織田軍】 【三好・本願寺軍】
不明 十河一行・香西長信(斬首)

 

【織田軍】 【三好・本願寺軍】
陸・海の圧倒的兵力と情け容赦ない力攻め 降伏するも騙し討ちされ、反撃するも

皆殺しに合う

高屋城の戦い その後 まとめ

戦後、「高屋城」をはじめとする、河内の城や砦はすべて破却されます。

これにより、三好氏は完全に力を削がれた格好となり、その後は信長の側近として重用されることになります。

肝心の本願寺に対しては、信長公記では「もはや本願寺の落城は時間の問題となった」としていますが、実際には「武田勝頼」が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、4月21日に帰京し、「長篠の戦い」へと赴いた、と考えられています。

この年、10月から本願寺は松井友閑と康長を仲介とし、信長に三軸の名画を送って和睦を申し入れます。

12月に和睦が成立し、誓紙が取り交わされました。

一、当寺の儀、御懇望について、御無事の上、御表裏あるべからざるの通り、御前(信長)において堅く申し究め候事。

付けたり、新儀難題これあるべからざる事。
一、御分国中当寺諸末寺は先々のごとくたるべし、並びに以下の輩、還住・同住還など異儀あるべからざる事。
一、当寺に対して両人(夕閑・康長)毛頭表裏抜公事などあるべからずる事。

右違犯これあらば(中略)無間地獄に墜つるべきものなり。仍て件のごとし。

— 織田信長と石山本願寺の誓紙(龍谷大学所蔵文章)

しかしこの和睦も一時的なものにしかすぎず、翌年の天正4年(1576年)信長と石山本願寺の間で「天王寺の戦い」が勃発することになるのです。

 

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