一族を殺された「長連龍」の執念!
七尾城奪還に命を懸ける!
【七尾城攻略(能登平定戦)】
1577年(天正5年)、能登「七尾城」が上杉軍に侵攻されたため、柴田勝家が総大将として援軍を差し伸べますが、戦国最強ともいわれた「上杉謙信」の前に、成す術もなく大敗してしまった信長軍。
七尾城を救うどころか、七尾城は落とされ、しかも柴田軍は重臣を含む1000名を超える討死者を出し大損害となる敗戦でした。
その際、七尾城の守将として戦ったのが、「長続連(ちょうつぐつら)」で連龍(つらたつ)の父でした。
「長続連」は七尾城の守将として戦うも、「続連」が実権を握る事に不満を抱いていた「遊佐続光」と「温井景隆」が、上杉軍と通じ謀反。
「長続連」をはじめとする長一族は皆殺しとなりました。
今回の合戦は、「長続連」の五男である「長連龍(ちょうつらたつ)」の、能登七尾城奪還するまでの執念の合戦です。
この合戦は同時に、織田家にとって「能登平定」にも繋がる合戦となり、併せて紐解いてまいります。
一族皆殺しに合った、長連龍の復讐の鬼と化した「七尾城攻略(能登平定)戦」をご案内してまいります。
七尾城攻略(能登平定戦) 場所 アクセス
七尾城は、現在の石川県七尾市古城町にあった城で、国の史跡に指定されています。
七尾城攻略(能登平定)戦 織田軍の動き
信長軍が上杉謙信軍に敗れた「手取川の戦い」で、落ちた「七尾城」の守将であった「長一族」は皆殺しに合います。
このとき信長軍にに救われ、難を逃れたのが「長続連」の五男「連龍(つらたつ)」(好連/よしつら)でした。
七尾城攻略(能登平定)戦 織田軍vs上杉軍 布陣 戦力比較
兵力
【織田軍】 | 【上杉軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【上杉軍】 | ||
能登攻略 | 攻略阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【上杉軍】 | ||
長連龍・神保氏張・菅谷長頼 他 | 温井景隆・三宅長盛・遊佐続光・遊佐盛光 他 |
合戦のゆくえ
連龍は、長一族が皆殺しに合った翌年の1578年(天正8年)8月、500の兵で、故郷の「穴水城」へ侵攻し一時は奪還に成功するも、3か月後の11月に上杉軍に追われ、守山城の「神保氏張」を頼ります。
さらに翌年の1579年(天正7年)、父「続連」を裏切り長一族皆殺しの発端となった、現七尾城の守将である「温井景隆(ぬくいかげたか)」と「三宅長盛(みやけながもり)」が上杉城代の「鰺坂長実(あじさかながざね)」を倒し信長に帰順してきました。
信長は七尾城が戻った事により、連龍に「もう遺恨は捨てるよう」にと諭しますが、連龍は、ころころと態度の変わる「温井景隆」らに対し怒りが収まりません。
同じ年の冬から単独で能登侵攻を進め、翌年1580年(天正8年)5月5日、七尾城からほど南西(15~6キロ)へ下った飯山で、6月9日に菱脇で、積年の恨みであった「温井景隆」と「三宅長盛」を破ります。
「三宅長盛」は信長に、「七尾城」を明け渡し降伏を申し出てきたので、連龍に追撃を止めさせ、その代わりに9月に鹿島半軍と「福水城」を与えます。
翌1581年(天正9年)3月、「菅谷長頼(すがやながより)」を城代として派遣し、「七尾城」をすべて接収。
未だ上杉と通じる不穏分子を一掃すると、「遊佐続光(ゆさつぐみつ)」や「温井」「三宅」らは、危機を感じたのか城から逃亡するも、遊佐一族は「連龍」に捕らえられ処刑され、温井・三宅らは上杉を頼りました。
温井・三宅らには逃げられてしまったものの、遊佐一族は捕らえられ処刑したので、「連龍」のリベンジは果たせたことになりました。
織田軍においても、「七尾城」を完全に奪還した格好となり、能登は無事平定されることになりました。
討死武将
【織田軍】 | 【上杉軍】 | ||
なし | 遊佐一族 他 |
【織田軍】 | 【上杉軍】 | ||
長連龍の凄まじい執念 | 執念の深さ、恐怖に陥った |
七尾城攻略(能登平定)戦 その後 まとめ
その後能登は、8月末に「前田利家」に与えられ、「長連龍」は利家の家臣となります。
上杉へ逃亡した温井景隆と三宅長盛は、本能寺の変後、石動山衆と結んで能登へと新呼応しますが、
1615年の大坂の陣まで、生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せました。
七尾城メモ
七尾城は標高300mの城山に築かれ、松・竹・梅・聞く・甕・龍・虎の7つの郭(屋根)を持っていたので「七尾」と呼ばれるようになったと言います。
戦国五大山城の一つに上げられ難攻不落を誇りました。
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