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【宇留摩(鵜沼)城攻め】信長美濃攻略。”木下藤吉郎”伊木山に砦を築き宇留摩(鵜沼)を攻めよ!

サルッ(秀吉)、伊木山に砦を築け! 宇留摩(城)を落とせ! 1564年(永禄7年)に、織田信清の犬山城を陥落させ、中美濃攻略に光明を見出した信長ですが、翌年1565年(永禄8年)8月に犬山城からほど近い「宇留摩(別名:鵜沼)城」攻めを行います。 城には鵜沼の虎と呼ばれる、斉藤側家臣の「大沢次郎左衛門基康」が守ります。 宇留摩(鵜沼)城は、犬山城から木曽川を隔てた対岸に位置し、巨大な岩山に築かれ人の往来を阻む堅固な要塞城となっています。 信長は、その要塞城を崩すために、城の南西にある伊木山に砦を築き宇留摩(鵜沼)城攻めの拠点としました。 信長の中美濃攻略の足掛かりとなった戦が「宇留摩(鵜沼)城攻め」と言われています。 宇留摩(鵜沼)城攻め 場所 地図 場所は現在の岐阜県各務原市鵜沼南町で犬山城の対岸にあり、岩山でできた山頂にあります(現在は廃城:立入禁止)。(小牧山城からは北に約10km位の場所) 中央に位置するのが「犬山城」。(中央) 犬山城と木曽川を挟んで対岸に位置するのが「宇留摩(鵜沼)城」。(右上) 信長が砦を築いた標高173mの「伊木山」。(左下) 宇留摩(鵜沼)城攻め 織田信長vs大沢次郎左衛門基康 布陣 戦力比較 美濃攻略の方針を中農に変えた信長。まずは鵜沼の虎大沢次郎左衛門の「宇留摩(鵜沼)城」の攻略を開始します。 合戦図 岩山の堅固な要塞となっている「宇留摩(鵜沼城)」攻めを任されたのが、当時足軽大将だった「木下藤吉郎」です。 いわずと知れた後の秀吉ですが、この頃からすでに信長家臣の中では頭角を現していたようです。 しかし、さすがの藤吉郎(後の秀吉)も、この要塞城攻めは単なる力攻めでは破れないと考えたようです。 その藤吉郎が考えた策が、大沢次郎左衛門への「調略」でした。 兵力差 【織田信長軍】 【大沢次郎左衛門軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【大沢次郎左衛門軍】 中農侵攻 宇留摩城攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【大沢次郎左衛門軍】 織田信長・木下藤吉郎 他 大沢次郎左衛門 他 宇留摩(鵜沼)城攻め 合戦の行方
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【犬山城攻略戦】信長、小牧山城に居城移転!狙うは国宝「犬山城」!

美濃攻略の拠点 清州から犬山に移す! 2年の歳月をかけ、再度稲葉山城攻略を目指し、城下に攻め入ろうとした信長でしたが、またしても軍師「竹中半兵衛」の計略に嵌り「新加納の戦い」で敗北しました。 信長は2度にもおよぶ敗戦に、直接稲葉山城を攻めることを諦め、回りの支城から切り崩す作戦に切り替えます。 その為の拠点となる城を清州城から「小牧山城」に移します。 そして新加納で敗れた翌年の1564年(永禄7年)5月から8月にかけ、美濃の斎藤龍興と結び敵対している織田信清の「犬山城」攻略にかかります。 この戦が「犬山城攻略戦」といわれています。 犬山城攻略戦 場所 地図 場所は現在の愛知県犬山市犬山北古券で木曽川のほとりにあり、現在は国宝に指定されています。(清州城からは北東に25km位の場所) 犬山城攻略戦 織田信長vs織田信清 布陣 戦力比較 美濃攻略の方針を竹中半兵衛により変えた(変えさせられた)信長ですが、まずは織田信清のいる「犬山城」の孤立化を図ります。 合戦図 まず最初に、織田信清の家老である小口城の「中島豊後守」と黒田城の「和田新介」を、信長方の「丹羽長秀」が調略を持って寝返らせます。 この2人は、よほど信長の小牧山への移転を恐怖に感じ取ったのでしょうか、信清を裏切り信長へ恭順します。 そして、完全に孤立化させた「犬山城」の四方を、「鹿垣(ししがき)*」で包囲します。 *鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣) 兵力差 【織田信長軍】 【織田信清軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【織田信清軍】 犬山城攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 織田信長・柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀 他 織田信清 他 犬山城攻略 合戦の行方 1563年(永禄6年)4月に竹中半兵衛の計略で「新加納」で敗れてから1年後、美濃攻略の方針を回りの支城から攻め落とすことにした信長ですが、まず最初のターゲットが織田信清のいる「犬山城」でした。 1564年(永禄7年)5月に黒田城・小口城の調略に成功し、犬山城を孤立化させ四方を完全に包囲した信長ですが、犬山城の「織田信清」は籠城戦に持ち込み斉藤方の援軍を待ちます。
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【新加納の戦い】竹中半兵衛の計略炸裂!信長敗色濃厚…しかし藤吉郎(秀吉)の奇策が…。

恐るべし竹中半兵衛! 信長、半兵衛策略に嵌る! 1561年5月に美濃の「斎藤義龍」が病死し、3日後の「森部の戦い」に続く「十四条・軽海の合戦」では勝利したものの、1か月後の「小口城合戦」「稲葉山城攻め」では完敗した信長。 信長にとって美濃は是が非でも攻略したい場所。2年もの歳月を費やした1563年(永禄6年)4月、再び「稲葉山城」攻略のため出陣します。 美濃には軍師「竹中半兵衛」が存在する中で、満を持しての合戦。 稲葉山城南に位置する新加納の地で合戦となったのが「新加納の戦い」です。 新加納の戦い 場所 地図 場所は現在の岐阜県各務原市那加新加納町の辺りと言われています。(写真は日吉神社他、清州城からは北に25km位の場所にあります) 新加納の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 この戦い、信長の史記として最も信憑性の高い「信長公記」には記載がありませんが、「総見記」に記載がありますので解説します。 合戦図 信長は、織田信清の居城犬山城をわき目も降らず木曽川を渡り、稲葉山城へと進軍します。 その進軍を知った稲葉山城の竹中半兵衛も、すぐさま兵を稲葉山から新加納の地へ移します。 新加納の地で両軍は激突します。 兵力差 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 5700 3500 戦闘目的 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 織田信長・坂井政尚・池田恒興・柴田勝家・森可成 他 竹中半兵衛・長井道利・日根野弘就・日根野盛就・牧村半之助 他 新加納の戦い 合戦の行方 信長正規軍であったが敗色濃厚に奇策が… 織田軍の兵力は5700に対し、斉藤軍は3500。 【織田信長軍】 先陣…池田恒興・坂井正尚 二陣…森可成 三陣…柴田勝家 四陣…丹羽長秀 大将…織田信長 先陣から大将まで、豪華武将が揃った信長正規軍。信長の気合が感じられます。 対する斉藤龍興軍ですが、 【斎藤龍興軍・軍師竹中半兵衛】 先陣…牧村半之助 二陣…日根野弘就・日根野盛就 三陣…長井道利 信長軍は兵数で有利、しかも兵農分離された勇猛果敢な隊陣、信長もこの陣立てであれば「必ず勝てる」と思ったに違いありません。
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【稲葉山城攻め】信長、軍師「竹中半兵衛」の策に敗れる!

信長完敗! 竹中半兵衛の十面埋伏の計に敗れる! 1561年6月下旬、犬山城主の「織田信清」が美濃の斉藤龍興と結んで、信長と「小口城」で合戦となりましたが、ほぼ同時期に信長は斎藤龍興の「稲葉山城」にも攻撃を仕掛けています。 織田信清と結んだことがよほど気に障ったのでしょうか、信長は斎藤龍興にも攻撃を仕掛けた戦いが「稲葉山城攻め」と言われています。 稲葉山城攻め 場所 地図 場所は現在の岐阜県岐阜市18(金華山山頂)にあり、現在は岐阜城として岐阜市民のシンボルとなっています。(清州城からは北に30km弱の場所にあります) 稲葉山城攻め 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 実はこの戦い、信長の史記として最も信憑性の高い「信長公記」にも記載がありません。 ただ、織田信清が斎藤龍興と結び反旗を翻したことは事実のようで、「小口城合戦」とこの「稲葉山城攻め」は信長の二方面同時作戦ではなかったかと考えられています。 兵力差 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 織田信長・木下秀吉 他 斎藤龍興・竹中半兵衛 他 稲葉山城攻め 合戦の行方 竹中半兵衛の策 この合戦の詳細は史料が少なく詳細が分かりませんが、合戦の勝敗から言えば、信長は堅固な稲葉山城を崩せず撤退することになります。 撤退となった理由が、後の秀吉の軍師となる「竹中半兵衛」の策にあったと言われています。 その策が「十面埋伏の陣(じゅうめんまいふく)」。 三国志の計略と言われ、10隊の伏兵と囮部隊で敵を攻撃する陣立てです。 隊を右に5隊、左に5隊に分け、伏兵として潜ませておき、別の先鋒隊が囮となって敵を誘い込んだところを、その伏兵たちが順に繰り出し敵を攻撃する作戦を言います。 信長の合戦において、竹中半兵衛がはじめて登場した戦でもありました。 討死武将 【織田信長軍】 【斉藤龍興軍】 不明 不明 稲葉山城攻め 結果 1561年(永禄4年)6月下旬、小口城合戦とほぼ同時期に行われた合戦ですが、軍師「竹中半兵衛」十面埋伏の陣(計)に阻まれ、あえなく撤退、負け戦となりました。
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【小口城の合戦】犬山城主「織田信清」反旗!信長vs信清の従兄弟対決勃発!

織田信長vs織田信清 従兄弟対決! 1561年6月下旬、一か月ほど前の「十四条・軽海の戦い」で勝利した信長でしたが、この戦いで弟を討ち取られてしまった犬山城主「織田信清」が斎藤龍興と組んで謀反の動きを見せます。 織田信清といえば、信長の従兄弟でもあり信長姉を娶り岩倉城攻めや尾張統一戦でも協力的で良好な関係にありました。 その信清が先の合戦で、無理やり戦場に駆り出され、弟を討死させられた腹いせか、美濃の斎藤龍興と結んで信長に反旗を翻します。 それを知った信長は、信清の反旗による北尾張の憂いを抱えることになり、犬山城の支城でもある「小口城」で信清との戦いが起こります。 これが「小口城の合戦」と言われています。 小口城の合戦 場所 地図 場所は現在の愛知県丹羽郡大口町城屋敷1丁目にあり、清州城からは北に15km程の場所にあります。 現在は小口城址公園となっています。 小口城の合戦 織田信長vs織田信清 布陣 戦力比較 合戦図 犬山城主「織田信清」は、支城の「小口城」と「黒田城」を領有し再び尾張国内に憂いを脅かす存在となります。 信長は当初、小口城の城主であった信清の家老「中島豊後守」を調略しようと試みますが失敗に終わります。 失敗した以上、力攻めで挑むしかありません。 1561年永禄4年6月末、信長vs信清の従兄弟対決が勃発するのです。 兵力差 【織田信長軍】 【織田信清軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【織田信清軍】 謀反反乱鎮圧 反乱 主な参戦武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 織田信長・岩室長門守 他 織田信清・中嶋豊後守 他 小口城の合戦 合戦 ゆくえ 信長軍は小姓衆が一体となり、城壁を討ち破り城内に入り戦います。 城内となればさすがに敵側の勝手知ったところ、信長方で信長の近習「岩室長門守」が、こめかみに槍を受け討死します。 両軍数時間戦いましたが、信長はついに小口城を攻略できずに撤退となりました。 討死武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 岩室長門守他10数名 不明 小口城の合戦 結果
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【十四条・軽海の戦い】稲葉一鉄叔父「稲葉又右衛門」討ち取ったり!(池田恒興・佐々成政)

美濃攻略の拠点を作れ! 十四・軽海の戦い! 1561年5月14日「森部の戦い」で勝利した信長は、「墨俣砦」を改修しさらに「十九条」(墨俣砦より北西へ約2km)にも砦を築き、美濃攻略の拠点に置きます。 十九条砦には、犬山城主の織田信清の弟「信益」を置き守りを固めます。 すると23日に、砦を築かれたことを察した斉藤龍興は稲葉山城から出撃し「十四条」に布陣。 両軍対峙した後、合戦となり続けざま、軽海地区まで及んだ合戦が「十四条・軽海の戦い」です。 十四条・軽海の戦い 場所 地図 十四条の戦いの場所は現在の岐阜県本巣市十四条にあり、墨俣城からは北西に7~8kmの場所にあります。(十九条砦から北に約2km、清州城から北西に約30km弱) 現在は戦いの跡地を示す石碑などなく、田畑の広がる平野となっています。 現在の墨俣城は秀吉で有名になった「墨俣一夜城」があります。 合戦当時は、まだ秀吉の存在も薄く、平城砦でした。 十四条・軽海の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 合戦図 墨俣と十九条に信長に美濃攻略の拠点を作られ、それを知った「斉藤龍興」軍。 怒り心頭の龍興はすぐに稲葉山城から出陣し、信長も墨俣と十九条から出陣し、両軍は十四条の地で対峙します。 先の数日前に、森部の戦いで敗れた「龍興」ですが、さすがに連敗してしまうと美濃の存亡にも影響しかねません。 斉藤軍の猛攻はすざましく、信長自身出陣して戦うものの、十九条砦を任せた「織田信益」が討ち取られます。 ジリジリと押される信長軍、血気盛んに兵の士気が上がる斉藤軍。 信長は一旦後退しながらも、再び両軍は軽海の地で対峙します。 兵力差 【織田軍】 【斉藤軍】 1000 不明 戦闘目的 【織田軍】 【斉藤軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【斉藤軍】 織田信長・織田信益・池田恒興・佐々成政 他 真木村牛介・稲葉又右衛門・稲葉一鉄 他 十四条・軽海の戦い 合戦 ゆくえ 十四条では信益を討ち取られた信長ですが、軽海では足軽合戦となり午後から始まった戦いが夜になっても続いています。
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【森部の戦い】前田利家出世の合戦!斎藤龍興率いる美濃勢に信長初勝利!

斉藤義龍、病死! 好機到来! 1561年5月上旬に西三河賀茂地域を制圧した信長ですが、その1週間後の5月11日に、最大の敵であった美濃の斉藤義龍が35歳の若さで病死します。 信長はそれを絶好の好機として、即座(13日)に兵を出し木曽川・長良川を越え西美濃への侵攻を開始します。 対する斉藤方は、後継に嫡男の「龍興」(当時14歳)を据え、長井甲斐守(ながいかいのかみ)・日比野下野守清実(ひびのしもつけのかみきよざね)が、墨俣砦から出陣して「森部」の地で激突しました。 この合戦が「森部の戦い」といわれています。 昨年の2月と6月に2度にわたる「西美濃侵攻」を繰り返した信長でしたが、斉藤義龍の前に辛酸を舐めていました。 その義龍の死に、「次こそは…」と士気の上がる織田軍ですが、戦いの行方はどうなるのでしょうか…。 森部の戦い 場所 地図 場所は現在の岐阜県安八郡安八町森部薬師堂(長良川畔)にあり、信長の清州城から北西に約20kmの場所にあります。 名古屋からもほど近く、「墨俣砦」からは約3km程度。稲葉山城(岐阜城)からは10km強。 森部の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 合戦図 「斉藤義龍」病死の知らせを聞くと、信長はすぐさま兵を集結し、木曽・長良川を越え勝村(海津市平田町)に布陣します。 対する斉藤方は墨俣砦より、長井・日比野が出撃し5月14日、両軍が森部の地で相対します。 「織田軍」1500に対し「斎藤軍」は6000余り。 数で劣る信長に勝算は…!? 兵力差 【織田軍】 【斉藤軍】 1500 6000 戦闘目的 【織田軍】 【斉藤軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田・徳川軍】 【斉藤軍】 織田信長・前田利家・服部平左衛門・河村久五郎 他 長井甲斐守・日比野下野守・足立六兵衛・日根野盛就・神戸将監 他 森部の戦い 開戦 ゆくえ 合戦当日の5月14日は雨、信長は「これぞ天の与えた好機」と言い、少数精鋭の織田隊(1500)が斉藤軍(6000)へと突っ込んでいきます。 斉藤方は鶴翼の陣(鳥が両手を広げる)で応戦し、信長も隊を3つに分け、両軍が「槍」を打ち合っての合戦。
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【拳母城(七州城)攻め】信長vs家康ついに決着!西三河制圧で清州同盟成立へ!

今川か、織田か、動かぬ元康(家康)。 「清州同盟成立」へ 1561年5月、梅ヶ坪城・伊保城・八草城の各城攻めから一か月後、信長は一気に西三河の賀茂郡へ侵攻し、西三河全体を制圧しようと「拳母城」を攻めます。 尾張と三河の国境に近い拳母城は、長年にわたり高橋の庄を支配する中条氏の居城であり、信長に対抗する動きがあったとして、これを大義に攻め立てます。 この戦いが「拳母城攻め」といわれています。 この時、三河の松平元康(家康/今川方)は、この合戦に参戦せずじっと見守ることになります。 真の家康の狙いはどこに…。 早速紐解いてまいりましょう。 拳母城攻め 場所 合戦図 場所は現在の愛知県豊田市小坂本町8丁目「豊田美術館敷地内」にあり、名古屋から南東に約30kmの所にあります。 現在は1978年に復元された挙母城の隅櫓(やぐら)があり、江戸時代に挙母藩が築城し「七州城」という通称で知られ、城跡公園として公開されています。 拳母城攻め 織田軍vs中條軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【中條軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【中條軍】 西三河侵攻 拳母防衛 主な参戦武将 【信長軍】 【中條軍】 織田信長 他 不明 他 拳母城攻め 経緯 勝敗 梅ヶ坪城・伊保城・八草城の城攻めから一か月後、信長に対抗する動きありとして侵攻した信長。 拳母城主の中條氏は信長の侵攻に籠城の構えで守城するも、猛攻に耐え切れず一族とも討死したと言われています。 この合戦後、信長は矢作川支流の巴川から以西の「西加茂地区」(ピンク色)を制圧することになります。 この合戦場にほど近い(南に約15㎞)元康(家康)は、ここでも動かずジッと静観しています。 討死武将 【信長軍】 【中條軍】 前野義高 中條氏 他 勝敗​ 【信長軍】 【中條軍】 【勝因】 信長軍の猛攻 【敗因】 猛攻に耐え切れず なぜ動かない元康(家康)!真の狙いとは…? 1561年(永禄4年)5月、梅ヶ坪城・伊保城・八草城攻めの一か月後に「拳母城」を攻めた信長ですが、この合戦により西三河加茂地域を掌握しました。
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【伊保城・八草城攻め】信長vs元康(家康)!信長、西三河侵攻の城攻め、勝利なるか…。

連日の合戦に勝利せよ! 西三河侵攻戦! 昨日の梅ヶ坪城攻め(1561年4月3日)で、敵を追い詰め勝利した信長ですが、翌日には高橋郡を経由し加治屋村も焼き払います。 その日は野営する余裕を見せ、次は目前の「伊保城」と「八草城」に攻め入ります。 梅ヶ坪城に続く、伊保城・八草城攻めと、信長の西三河侵攻は続きます。 伊保城・八草城攻め 場所 合戦図 場所は現在の愛知県豊田市保見町西古城付近で、名古屋から東に約25kmの所にあります。 現在は廃城となっており、城址があるだけとなっています。 信長は、西三河侵攻の為、まず先に梅ヶ坪城を攻め、清州に戻る際に伊保城を攻め込みます。 守りが手薄だったとは言え、城下と田畑を焼き払い、その日は野営をした翌日に八草城も攻め、ここでも周辺の田畑を薙ぎ払って清州へ帰還しています。 この合戦は、詳しい史料が残されていないものの、義元亡き今、三河から以東の侵略への足掛かりとして、信長にとっては大きな意味のある領域ではなかったかと考えられています。 伊保城・八草城攻め 織田軍vs元康軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【元康軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【元康軍】 三河侵攻 尾張侵攻 主な参戦武将 【信長軍】 【元康軍】 織田信長 他 不明 伊保城・八草城攻め 経緯 勝敗 梅ヶ坪城攻めの勝利から、清州へ戻る際の、連日の城攻めとなった「伊保城・八草城攻め」。 田畑の焼き払い・刈田が目的で、大きな合戦ではありませんでしたが、信長の西三河侵攻の足掛かりとしては、戦果の大きい戦いとなりました。 信長の西三河侵攻はこれに止まらず、さらに翌月、三河賀茂郡にある「拳母城」攻めへと続いていきます。 討死武将 【信長軍】 【元康軍】 不明 不明 勝敗​ 【信長軍】 【元康軍】 【勝因】 田畑焼き払い 【敗因】 元康(家康)動かず 梅ヶ坪城攻め まとめ 1561年(永禄4年)4月4日以降、「梅ヶ坪城攻め」から連日の城攻めとなった「伊保城・八草城攻め」ですが、信長は難なく城下の田畑を焼き払い、刈田することに成功しました。
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【梅ヶ坪城攻め】桶狭間で義元死後、清州同盟前の「信長」vs「元康」(家康)の対決!勝敗はいかに…⁉

信長vs元康(家康) 前哨戦! 勝敗はいかに…? 1560年5月「桶狭間の戦い」で今川義元が討死して以来、信長と元康(家康)の関係は未だ敵対同士です。 元康(家康)は、義元嫡男の「氏真」に義元の弔い合戦を進言しますが、氏真は動く気配がありません。 業を煮やした元康(家康)は、元々自らの拠点である岡崎城から信長の尾張へと勢力を拡大していきます。 信長もこれに対抗し、三河への侵攻を開始します。 桶狭間の戦いの翌年(1561年4月3日永禄4年)、信長と元康(家康)がまだ同盟する以前となる戦いが、「梅ヶ坪城」を舞台とした合戦です。 梅ヶ坪城攻め 場所 合戦図 場所は現在の愛知県豊田市梅坪町7丁目付近で、名古屋から東に約30kmの所にあります。 現在は廃城となっており、史跡はありません。 義元が桶狭間で討たれ、未だ動く気配を見せない嫡男氏家に対し、元康(家康)は自ら勢力を拡大し始めます。 以前は、織田家の人質として信長との親交もあったはずの元康(家康)は、その信長の領土である横根や石瀬に兵を出します。 その対抗策として、信長も三河の「梅ヶ坪城」を攻め入ります。 信長と元康(家康)の初対決となる合戦がいよいよ始まります。 梅ヶ坪城攻め 織田軍vs元康軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【元康軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【元康軍】 三河侵攻 尾張侵攻 主な参戦武将 【信長軍】 【元康軍】 織田信長・平井九右衛門・水野信元・前野義高 他 石川数正 他 梅ヶ坪城攻め 経緯 勝敗 元康(家康)の横根・石瀬の侵攻に対抗して、「梅ヶ坪城」に攻め入った信長は、わずか三日で敵を追い詰め村や収穫前の田畑を焼き尽くします。 しかし敵兵も屈強な射手が出撃して応戦、白兵戦となり信長方の前野義高は討死します。 わずかな犠牲を出したものの、本格的な戦闘までにはならず、梅ヶ坪の大半を焼き尽くした戦果を挙げ信長は兵を返します。 一方の元康(家康)は、この戦いでは動かず沈黙を守り、信長との直接対決にはなりませんでした。 討死武将 【信長軍】 【元康軍】 前野義高 不明 勝敗​ 【信長軍】 【元康軍】 【勝因】 梅ヶ坪・刈田の田畑焼き払い戦果 【敗因】 元康(家康)動かず
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