
【村木砦の戦い】織田家存続を賭けた桶狭間の前哨戦!信長が鉄砲を使い今川(義元)軍を撃破!
鉄炮炸裂! 織田信長が一躍戦国の世の表舞台に出たとされる「桶狭間の戦い」の6年前の1554年(天文23年)、合戦で初めて鉄砲を使い「今川(義元)軍」に勝利した「村木砦の戦い」。 隣国の巨大領主である「今川義元」とは、すでにこの頃から戦いは始まっていました。 桶狭間の戦いの前哨戦にもつながるこの戦いは、その後の「織田家存亡」の重要な意味を持った戦いだったのです。 そのような意味を持つ「村木砦の戦い」とはいったいどのような合戦だったのでしょうか…。 村木砦の戦い 戦況 信長の父、信秀が1551年に死んだ後、絶好の好機とばかり今川義元は尾張への侵攻をさらに強めます。 すでに尾張領内の一部である鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収め、続く知多の寺本城・重原城も抑えている今川義元は、唯一残っている水野信元が守る「緒川城」を攻略しようとします。 そこで義元は、緒川城のすぐ傍にある、水運に適した「村木の岬」に砦を築き三河の松平義春を城将としました。 緒川城の水野信元から援軍を受けた信長は、1554年(天文23年)1月21日に兵を率い那古野城を出発します。 翌22日、すでに陸路は今川軍に抑えられているために進軍できず、熱田から海路で渡海し23日に緒川城へと到着します。 そして24日朝方から、今川軍が砦を築いている「村木」の地で戦いは始まるのです。 村木砦の戦い 場所 合戦図 「村木砦の戦い」の場所は、現在の愛知県知多郡東浦町八劔神社にあります。(参考:Googleマップ) 現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。 村木砦の戦いの経緯は、すでに尾張領内へと着々と侵攻してくる今川軍が、下尾張(知多)の最期の城でもあった緒川城への侵略ために、村木の地へ砦を築いたところから始まります。 信長はすぐにでも那古野城を出発したいのですが、そのころの信長の戦力は小さく尾張領内にも敵がいたため、長く城を空ける訳にはいきません。 そこで信長が行った策が、美濃の斉藤道三(妻帰蝶の父)の援軍を借り、帰陣するまでの間、城を守ってもらう事でした。 那古野城の憂いを無くした信長は進軍します。しかし陸路はもはや今川軍が包囲しているため通れず、熱田からの海路しか選択の余地がありませんでした。