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【村木砦の戦い】織田家存続を賭けた桶狭間の前哨戦!信長が鉄砲を使い今川(義元)軍を撃破!

鉄炮炸裂! 織田信長が一躍戦国の世の表舞台に出たとされる「桶狭間の戦い」の6年前の1554年(天文23年)、合戦で初めて鉄砲を使い「今川(義元)軍」に勝利した「村木砦の戦い」。 隣国の巨大領主である「今川義元」とは、すでにこの頃から戦いは始まっていました。 桶狭間の戦いの前哨戦にもつながるこの戦いは、その後の「織田家存亡」の重要な意味を持った戦いだったのです。 そのような意味を持つ「村木砦の戦い」とはいったいどのような合戦だったのでしょうか…。 村木砦の戦い 戦況 信長の父、信秀が1551年に死んだ後、絶好の好機とばかり今川義元は尾張への侵攻をさらに強めます。 すでに尾張領内の一部である鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収め、続く知多の寺本城・重原城も抑えている今川義元は、唯一残っている水野信元が守る「緒川城」を攻略しようとします。 そこで義元は、緒川城のすぐ傍にある、水運に適した「村木の岬」に砦を築き三河の松平義春を城将としました。 緒川城の水野信元から援軍を受けた信長は、1554年(天文23年)1月21日に兵を率い那古野城を出発します。 翌22日、すでに陸路は今川軍に抑えられているために進軍できず、熱田から海路で渡海し23日に緒川城へと到着します。 そして24日朝方から、今川軍が砦を築いている「村木」の地で戦いは始まるのです。 村木砦の戦い 場所 合戦図 「村木砦の戦い」の場所は、現在の愛知県知多郡東浦町八劔神社にあります。(参考:Googleマップ) 現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。 村木砦の戦いの経緯は、すでに尾張領内へと着々と侵攻してくる今川軍が、下尾張(知多)の最期の城でもあった緒川城への侵略ために、村木の地へ砦を築いたところから始まります。 信長はすぐにでも那古野城を出発したいのですが、そのころの信長の戦力は小さく尾張領内にも敵がいたため、長く城を空ける訳にはいきません。 そこで信長が行った策が、美濃の斉藤道三(妻帰蝶の父)の援軍を借り、帰陣するまでの間、城を守ってもらう事でした。 那古野城の憂いを無くした信長は進軍します。しかし陸路はもはや今川軍が包囲しているため通れず、熱田からの海路しか選択の余地がありませんでした。
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【萱津の戦い】前田利家初陣!清州織田家撃破で坂井甚助散る!

織田家当主「信長」の2戦目! 初勝利なるか? 1552年織田家当主となった「信長」の2度目の戦い「萱津(かやつ)の戦い」。(別称「海津(かいづ)の戦い」とも言われます) 1度目の戦いで惜しくも引き分けとなった「赤塚の戦い」からわずか4か月後の8月中頃、尾張守護代清州織田家「織田信友」重臣の「坂井大膳・甚助」が、信長の支城である「深田城」と「松葉城」を奪います。 信長が織田家の当主となったとはいえ、織田家中では「大うつけ」といわれる信長に対し、不満や反感を持つものも多く、赤塚の戦いのきっかけも家臣の今川家への「寝返り」が原因でした。 今回も同じ織田家中で、城を奪われ「内乱」が勃発することになります。 織田家当主として2度目の戦いとなる「信長」の手腕はいかに…。 当主となり信長の2度目の戦いとなった「萱津の戦い」をお伝えしてまいります。 萱津の戦い 戦況 信長が織田家(弾正忠家)当主になったとはいえ、未だ不満や鬱憤が多く、抑えきれていないのが実情の織田家中。 山口教継親子の今川への寝返りを鎮圧(赤塚の戦い)したかと思いきや、今度は、清州織田家「織田信友」の重臣「坂井大膳・甚助」が信長の「深田城」と「松葉城」を攻め落とし、城主の織田伊賀守と織田信次を人質とします。 報せを聞いた信長は、すぐさま信次の兄「織田信光(信長叔父)」と共同で清州城へ進軍。同時に深田城と松葉城にも別動隊を入れ城奪還に向かわせます。 そして両軍が、「萱津」で激突します。 この時初陣したのが「前田利家」と言われています。 (加賀藩史料:村井重頼覚書) 萱津の戦い 場所 合戦図 「萱津の戦い」の場所は、現在の愛知県あま市上萱津八剱にあります。 地図で示した位置が「萱津合戦場」です。2㎞北には「清須城」、右下に名古屋駅です。(参考:Googleマップ) 現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。 萱津の戦いの経緯は、坂井大膳・甚助が信長の支城深田城と松葉城を攻め奪う事から始まります。 信長は深田城と松葉城と清州城の3か所へ兵を出します。 信長には「織田信光(叔父)」が参戦し、清州城からは敵将の「坂井甚助」が討って出て「萱津」の地で激突します。 萱津の戦い 信長vs坂井大膳・甚助 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【坂井軍】 不明 不明 戦闘目的
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【赤塚の戦い】織田当主となった信長 最初の合戦!

織田家当主「信長」初戦! 1552年父信秀の病没後、信長は家督を譲り受け「織田家当主」となります。 織田家当主となった信長の初めての合戦が、その年1552年4月に起きた「赤塚の戦い」です。 そこへ、早くも裏切者が現れ、信長は当主としての手腕が試されることになります。 19歳となった新当主「信長」の手腕はいかに…。 織田家の新当主となった信長最初の戦い「赤塚の戦い」をお伝えしてまいります。 赤塚の戦い 戦況 新当主になったとはいえ、当時の信長は回りの家臣から「大うつけ」という不名誉な噂があります。 父信秀が織田一族で頭角を現しながら死去したわずか1か月後、信長を見限り今川へ寝返った者がいました。 鳴海城守の「山口教継・教吉」親子です。 2人は領土が三河の国境に接していたという事もあり、この先不安な信長よりも、もはや大大名である今川義元に付きます。 その直後の4月17日、信長は山口親子の寝返りを諫めるため那古野城から出陣し、天白区の中根から緑区古鳴海を経て「三の山」に陣取り、鳴海城の山口教継・教吉に対陣します。(三の山は現在の緑区鳴海町山王山) 赤塚の戦い 場所 合戦図 「赤塚の戦い」の場所は、現在の名古屋市緑区鳴海町赤塚にあります。 地図で示した位置は、信長が陣取りした「三の山」(現在の千句塚公園)で、相手である山口親子は、真南(下)に約500mほど行った所の「鳴海城」(現在の鳴海城後)です。 「合戦場所」は、ちょうどその真ん中あたりになります。(参考:Googleマップ) 信長「三の山」・山口親子「鳴海城」に対峙した後、1552年4月17日午前10時、いよいよ合戦の火ぶたが落とされます。 赤塚の戦い 信長vs今川軍(山口親子) 戦力比較 では、当時の織田軍(信長)と今川軍(山口教継・教吉親子)の戦力差を見てまいりましょう。 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 800 1500 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 離反鎮圧 反目侵攻 主な参戦武将 【織田軍】 【今川軍】 織田信長・内藤勝介・蜂屋般若介・荒川与十郎・長谷川橋介・青山藤六・戸田宋二郎・賀藤助丞
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【吉良大浜の戦い】大うつけ信長 14歳 初陣!

「初陣」 「初陣」 生まれて初めて戦いに出ること。 また、スポーツ競技などで初めて試合や競技会に出ることをいう。 戦国武将「織田信長」の初陣は14歳。 現代で言えば中学生ですが、戦国の世であれば14歳で初陣というのは決して遅くはありません。 わずか14歳の若者が大勢の家臣を従い、どのように初陣を飾ったのか…。 信長の初陣「吉良大浜攻撃」をお伝えしてまいります。 吉良大浜攻撃 信長 初陣図 1547年(天文16年)、駿河今川勢(今川義元)が尾張領へと侵攻してきたため、当時の領主「織田信秀(信長父)」は牽制の意味から出陣をしたもとの考えられています。 その時、大将として初陣を飾ったのが「織田信長」若干14歳。 前年に元服を済ませたばかりの、(当時は)弱小大名の倅にすぎませんでした。 初陣した時の姿が「信長初陣図」がコレ! 信長の傳役(もりやく)であった「平手政秀」が揃えたと言われています。 信長公記に「紅筋が入った頭巾と馬乗りの羽織、馬鎧という出で立ち」とされています。 吉良大浜攻撃 場所 合戦図 信長が出撃した「吉良大浜攻撃」の場所は、現在でいう愛知県碧南市(名古屋市内からおよそ50km)にあります。(参考:グーグルマップ) 場所は吉良(現在の西尾市)から大浜(現在の碧南市)。 居城の那古野城から片道約50km(往復約100km)の行軍でした。 吉良大浜攻撃 戦力比較 では、当時の織田軍(信長)と今川軍(今川義元配下)の戦力差はどうだったのでしょうか。 当時の戦力比較を見てまいりましょう。 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 800 2000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 牽制攻撃 尾張三河威嚇 主な参戦武将 【織田軍】 【今川軍】 織田信長・平手政秀・林通勝 不明 吉良大浜攻撃 戦況 今川勢(今川義元)の尾張三河への威嚇侵攻に対し、織田信秀は牽制の意味から吉良・大浜を攻撃します。 兵力は劣勢のため「平手政秀」「林通勝」ら宿老は反対したといわれていますが、信長は風の強い日を見計らって攻撃に出ます。 14歳の信長は800の兵を率いて那古野城から片道50kmを一気に吉良・大浜にまで下り「火を放ち」、その日は野営をして那古野城まで戻っています。
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【姉川の戦い】血で血を洗った合戦とは?合戦の布陣や経緯・場所をかんたん解説!長政とお市のその後…?

血で血を洗った合戦! 1570年(永禄10年)「姉川の戦い」。 「織田(信長)・徳川(家康)軍」と「浅井(長政)・朝倉(義景)軍」が戦った合戦です。 合戦場となった姉川が、兵たちの赤い血で真っ赤に染まったと言います。 浅井家と言えば、織田信長の妹「お市」が嫁いだ名家でもあります。 義弟はあの「浅井長政」。 「お市」と「長政」は仲睦まじい夫婦と言われ、幸せな時を過ごし1男3女を授かります。 しかしながら、信長にとって自分の妹が嫁いだ相手となぜ合戦を…? 合戦の原因や経緯、その後のお市・長政がどうなったのか解説してまいります。 姉川の戦いをわかりやすく 事の始まりは「袋の鼠」 姉川の戦いがはじまる以前、織田家と浅井家は信長の妹「お市」が嫁いでいることもあり「同盟関係」にありました。 同様に、浅井家は朝倉家とは信長と同盟を結ぶ以前に「同盟」(主従関係)を結んでいました。 当時の信長は、室町幕府が衰退し信長が幕府の守護となっていたたため、朝倉義景への上洛の命を出し臣下の意を表させようと画策していましたが、義景はそれをずっと無視していました。 幾度の上洛の命を出す信長と、それを無視し続ける義景、信長と義景の関係は一触即発の状態でした。 実は、浅井と朝倉が同盟を結んだ後から、同盟関係を結んだ信長と長政ですが、同盟の際には「朝倉と戦をしない」という約束が交わされていました。 しかし、朝倉への再三の上洛にも無視を続ける義景に、ついに堪忍袋が切れ、信長は長政との約束を破り兵を上げます。 朝倉と金ケ崎城で対峙する中、長政は朝倉義景から援軍を出すように言われます。 織田家(信長)と朝倉家(義景)の両方と同盟を結んでいる浅井家(長政)は、考えに考えた末、信長との同盟を解消し、朝倉側に援軍を出す事を決意します。(信長と決別) そして信長が朝倉軍と対峙している「背後」へ兵を出すのです。 信長は、前方に朝倉、背後に浅井と、完全に挟まれてしまい「袋の鼠」となってしまい撤退を余儀なくされます。 殿(しんがり)に木下(羽柴)秀吉、明智光秀を残し、数騎の共を連れ添っただけで命からがら京都へ逃げ帰ったというのです。(金ケ崎退き口) このことが後に信長の怒りを買うことになり、「姉川の戦い」へと進んでいくことになるのです。 姉川の戦い 場所 地図 アクセス
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【長篠の戦い】とは?長篠・設楽原の場所で鉄砲三段撃ちで大勝利!「織田徳川軍vs武田騎馬軍」の攻防! 

織田・徳川連合軍vs武田勝頼 鉄炮・馬房柵vs武田騎馬軍 織田信長最大の強敵「武田軍」。 武田信玄はもはや2年前に亡くなっているものの、信長にとって「武田軍」の強さは脅威です! 織田・徳川にとって三河以東の憂いは未だ無くなっていません。 その要城である「長篠城」は、徳川側の「奥平貞昌」がわずか500の兵で守られていました。 そこへ、「武田軍(武田勝頼)」が1575年(天正3年)5月1日に、1万5000の兵で長篠城奪還に取り掛かります。 「武田家」存亡を大きく揺るがせた「長篠の戦い」。 早速紐解いてまいりましょう。 長篠の戦い 場所 地図 アクセス 長篠の戦い合戦場は、現在の愛知県新城市八束穂辺り一帯となります。 アクセスは、車で新東名「新城IC」降りて約2kmほどです。 長篠の戦い 織田・徳川vs武田軍 布陣 戦力比較 織田・徳川軍 武田軍 兵力差 【織田。徳川軍】 【武田軍】 3万8000 1万5000 戦闘目的 【織田・徳川軍】 【武田軍】 武田軍侵攻阻止 尾張・三河侵攻 主な参戦武将 【織田・徳川軍】 【武田軍】 織田信長・織田信忠・河尻秀隆・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・佐久間信盛・滝川一益・水野信元・金森長親・前田利家 徳川家康・松平信康・石川数正。本田忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世・酒井忠次 他 武田勝頼・武田信兼・小山田信茂・穴山梅雪・馬場信春・山形昌景・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・山本勘蔵 他 討死武将 【織田軍】 【今川軍】 鳥居強右衛門・松平伊忠・佐脇刀弥太夫 山形昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・山本勘蔵 長篠の戦い 布陣 「鉄砲」の使用が大きな勝敗を分けたと言われる「長篠の戦い」。 上記の図は「長篠合戦図屏風」です。 真ん中の細い川(連吾川)を挟んで、「織田徳川軍」と「武田軍」が対峙しているのが分かります。 右側の川が二俣に分かれている上部が「長篠城」です。(連吾川の左側には馬防柵があります。復元有) 5月1日に「武田軍」の長篠城侵攻が開始され、5月中旬には「長篠城」は陥落寸前に陥ります。 長篠の戦い 落城寸前!「鳥居強右衛門」が援軍を求めに…
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【本能寺の変】真実!なぜ光秀は信長を討ったのか…真相‼

1582年(天正10年)6月2日早暁。 本能寺の外から聞こえるざわめきに、信長は丁度、自らの顔と身体を拭いたところだった。 町衆が喧嘩でもしているのか…、と思っているうちに「鬨の声」が上がり、渇いた「鉄砲」の音が鳴り響いた! パァ~~~ン 信長が「本能寺」で明智光秀の謀反を知った時の、森蘭丸と交わした会話です。 「是非に及ばず(やむおえない)(しかたがない)」 この言葉は信長が最後に発した言葉として有名ですね。 わずか50余の供回りしかおらず、明智光秀が1万3000の兵で「信長」を襲った、「本能寺の変」! しかし、「本能寺の変」の原因は、その後ずっと議論が続けられるものの真相は分かっておりません。 明智光秀の怨恨説や野望説、信長の油断が招いた油断偶発説、光秀を陰で動かした朝廷や足利義昭、秀吉、家康、毛利などの黒幕説まで、話題が尽きません。 このコーナーでは「本能寺の変」の定説となっている「信長公記(大田牛一)」の史実(記録)を基に、明智光秀の「怨恨野望説」に焦点を当て取り上げてみました。 光秀は、なぜ信長に謀反を起こそうと思ったのか…? 光秀は、その時、何を考えたのか…? 光秀が信長を討った「行動の謎」を紐解いてまいります。 本能寺の変 真実 光秀は信長の性格に耐えられなかった…? 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス(信長) 鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス(秀吉) 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス(家康) これは信長・秀吉・家康になぞらえた川柳です。 信長の性格は、秀吉や家康と違い、自分の意に反するものは「すべて殺してしまえ」という、短気で荒々しい性格と言えます。信長が、なぜ「殺してしまえ」という表現を用いられているのかについては歴史を紐解くと明らかになります。 戦国時代、弱いものが強いものの方へなびくことは当たり前の世の中で、「裏切り」や「謀反」は日常茶飯事(世の常)でもありました。 特に信長は、自分に反旗を挙げた「浅井長政」(姉川の戦い・小谷城攻め)、「松永久秀」(信貴山城攻め)、「荒木村重」(有岡城の戦い)では、後の戦いで本人はおろか、妻・子供関係するものすべてを殺し、家もろともすべて滅亡させています。(村重のみ後に出家、妻子は磔斬首)
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【桶狭間の戦い】の真実をわかりやすく解説!わずか10分の1兵力で義元討ち取る!信長、奇襲成功⁉

織田信長軍2,000vs今川義元軍20,000‼ 信長、絶体絶命! 1560年(永禄3年)わずか2千の兵で、2万の大軍を打ち破った奇襲戦、「桶狭間の戦い」! 尾張の弱小大名、若干27歳の「織田信長」が、駿河国の今川家大将「今川義元」を打ち取った戦いです。 この戦いによって、「織田信長」という新しいヒーローが、戦国の表舞台に立つことになります。 上洛へと動いた今川義元 1560年(永禄3年)5月12日、今川義元は上洛のため総勢2万を超える大軍を率い駿府を出立、東海道を西進します。 行く先々には、今川義元の行く手を阻む、戦国の大名がひしめきます。 尾張の「織田信長」をはじめ、美濃「斎藤道三」、北近江「浅井長政」、南近江「六角義賢」と上洛ルートには名だたる戦国武将が立ちはだかります。 しかし、その中でも最小最弱といわれた信長。 義元の領国から比べれば、信長の持つ尾張の領土は、石高も兵力も10分の1以下。 どう見ても、信長が適うような相手ではありませんでした。 5月17日、三河「沓掛城」に入った今川軍は、「松平元康(徳川家康)」を先鋒に、5月18日「大高城」に兵糧を届けさせた後に、織田軍の砦である「丸根砦」「鷲津砦」の攻撃を命じます。 桶狭間の戦い 追い詰められた信長…。 清州城でこの報せを聞いた信長。 ついに今川軍が尾張領内に進軍して来るとの報せに、立ったまま湯付けをかきこみ、翌日の午前4時に鎧具足を付けて出陣します。 あまりの急な出陣の要請に付き従ったのは、わずか数名の小姓衆だけでした。 桶狭間の戦い 場所 現在 地図 アクセス 桶狭間の戦いの場所は、現在の愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目にあり、、現在は「桶狭間古戦場公園」となって市民の憩いの場になっています。 名鉄「名古屋」駅から、名鉄「有松」駅で下車(約20分)。 市バスにて「幕山(桶狭間古戦場公園)」バス停下車(約5~6分)、徒歩約2分です。 名古屋第二環状自動車道「有松インター」より約5分程で着きます。 桶狭間の戦い 信長vs義元 兵力(人数)比較 織田軍 今川軍 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 2000 2万5000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 尾張防衛 野戦 西上(上洛) 侵攻 野戦 主な参戦武将 【織田軍】
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【戦国時代の勢力図】織田信長から秀吉・家康まで年代別の勢力相関図!

戦国時代の勢力相関図! 信長から秀吉・家康までの戦国の勢力変遷! 今からおよそ400年から500年ほど前(15世紀末から16世紀末)、日本では多くの英雄や豪傑たちが各地に勢力を張り、互いに対立し「覇」を競い合う群雄割拠の世の中でした。 「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の3人も、その中の一人でした。 「合戦」が日本各地で起こり、多くの戦国武将たちは権力争い・領国侵攻が日々のように行われ、誰もが天下を手中にと狙う中、この信長、秀吉、家康の3人は戦国の世の「覇者」となっていきます。 いったいどのようにして「天下の覇者」となっていったのか…。 「信長」「秀吉」「家康」が戦った時代を通じ、天下統一への勢力変遷を見てまいりましょう。 信長・秀吉・家康の戦国時代の勢力図と変遷 では、実際に天下統一までの勢力がどのように変遷していったのか、時系列でみてまいりましょう。 【1534年信長誕生!】 織田信長(赤の勢力)が誕生した当時(1534年)は、まさに群雄割拠の時代で、名だたる家柄の武将(上杉・北条・武田・今川・松平・細川)達の勢力もほとんど同じで均衡しています。 まわりの有力大名の勢力からすれば、当時の「織田家」は地方の小領主(弱小大名)にすぎません。 (この時は、まだ「秀吉」も「家康」も誕生していませんが、後の1537年に秀吉、1543年に家康が誕生します) 【1560年信長(27歳)が桶狭間で今川義元を討った頃の勢力図】 1560年、織田信長(赤)が今川義元(黄)を討った当時は、織田家の勢力はまだ小さな小領主です。 しかしこの戦い(桶狭間の戦い)で一躍、天下争いのレースに躍り出た格好になりました。 当時の勢力では、越後の長尾(上杉謙信)、関州の北条、甲斐の武田、中国の毛利の勢力が台頭を現わしてきたようです。 「桶狭間の戦い(1560年)」当時の秀吉は織田側にて足軽、家康は今川側にて先鋒隊を務めていました。 【1573年信長が足利義昭を追放し室町幕府崩壊】 1573年、「槇島城の戦い」で、将軍足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡します。 この頃の織田領は、越前・近江・近畿を中心とした勢力(赤い部分)ですが、周りをぐるりと「反信長派」に囲まれ、信長が最も「戦い」に忙しい時期でもありました。
徳川家康

「徳川家康」について!全合戦・年表一覧!

現代の会社社長が「好きな歴史人物」NO1が「徳川家康」です。 家康は「海道一の弓取り」の異名を持ち、信長、秀吉と共に戦国の世を駆け巡り、徳川260余年の礎を築いた人物でもあります。 信長や秀吉と比べ、堅実で慎重派である家康は派手さは無いものの、辛抱強く時代を見据える先見の明があったといわれます。 秀吉亡き後、ついに徳川政権を築き上げた家康の成功哲学「人生(全合戦)」を紐解いてまいります。 徳川家康 生まれ 誕生日 城 三河松平家第8代当主松平広忠の嫡男として1543年(天文11年)12月26日に岡崎城(愛知県岡崎市)で誕生。 母は広忠正室の於大、幼名は「竹千代」。 竹千代(家康)が6歳になる1548年(天文16年)に、今川家の人質として駿府に送られる途中、義母の父・戸田康光の裏切りにより織田家の人質とされる。 この頃、信長(吉法師13才)と家康(竹千代6歳)が出合うことになり、その後(歴史上)の関係となっていきます。 2年後には、織田信広(信長兄)との人質交換によって家康(竹千代8歳)は再び今川家の人質として駿府へと移ることになります。 1555年(天文24年)3月、今川義元の下で元服し、「次郎三郎元信」と名乗り、その後「蔵人佐元康(もとやす)」と改名します。 1558年(永禄元年)2月、今川から織田に通じた「寺部城主・鈴木重辰」を攻め初陣を果たし、今川義元から300貫文(現在で約3000万円)の地と腰刀をもらいました。 【岡崎城 アクセス】 徳川家康 名前の変遷 幼名は竹千代 戦国時代では、武将の名前がよく変わることがあります。 幼少時代の名前から、元服後や出世する毎に名前が変わるのが通例となっていました。 家康もその1人で、幼名は「竹千代」(1543年)と言われました。この竹千代という名前は、その後徳川将軍家の幼名となります。 元服(1555年)後、今川義元から「松平元信」もらうことになるのですが、元信の「信」の文字が、当時の敵である織田家信長の信であったため、祖父の清康の康の字をもらって「松平元康」と改名しました。 桶狭間合戦(1560年)後、松平家は今川と分かれ織田家と同盟(1562年)を結び、今川義元の「元」を返上し、「家康」(1563年)と改めました。
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