信長全合戦

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【三木合戦】謀反人「別所長治」ついに降伏か!三木の干殺し!

謀反人「別所長治」! 竹中半兵衛秘策「三木の干殺し」でついに降伏か…⁉ 【三木合戦】 1578年(天正6年)2月に離反した「別所長治(べっしょながはる)」は、自らの居城である「播磨三木城」に約7500の兵たちと籠城して、はや早2年。 「織田信忠」による攻撃もあったものの膠着状態となっています。 この、1578年(天正6年)3月29日から1580年(天正8年)1月17日にかけて行われた、織田軍と別所長治の合戦を「三木合戦」と言います。 織田信長より、播磨攻略を命じられていた「羽柴秀吉」との合戦となり、別所長治が「播磨三木城」に篭城しました。 三木合戦 場所 アクセス 三木城(みきじょう)は、現在の兵庫県三木市上ノ丸町にあった平山城で、別名「釜山城」や「別所城」とも呼ばれていまする。 小寺氏の「御着城」、三木氏の「英賀城」と並び「播磨三大城」と称されました。 「三木城(黒)」 三木合戦のいきさつ そもそも播磨国は、守護「赤松氏」の領国でしたが、戦国の時代になると下剋上もあったのか、諸所の勢力が独立状態となって数郡ごとに分かれていました。 別所氏もその1つで、東播磨一帯に影響力を持っていました。 回りでは、西の「毛利」とその家臣である「宇喜多直家」が存在し、畿内を制しつつある「織田信長」が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は「毛利」「織田」の両方と友好関係を結んでいました。 播磨国内では、1577年(天正5年)5月に、中播磨の御着城主「小寺政職」が、毛利氏と争って旗幟を織田方へと鮮明にするなど、多くの勢力が織田家寄りとなります。 これを好機に、信長は安芸(毛利)への侵攻の前線基地となる、播磨攻略へと動き出します。 同年10月、羽柴秀吉を播磨攻略司令官として播磨入りさせ、西播磨の「上月城」や「福原城」などを攻略し、守備には尼子再興を図る「尼子勝久」「山中鹿助(幸盛)」を入れ、一旦は播磨の全域をほぼ制圧しました。 しかし、東播磨を領している「別所」と「織田」の関係は、織田勢による「上月城」の虐殺や、加古川城で行われた「羽柴秀吉」と「別所吉親」の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化します。 1578年(天正6年)に秀吉が、中国地方攻略のため再び播磨入りするも、同年2月、別所吉親の甥である「別所長治」が離反。
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【第一次天正伊賀の乱』伊賀忍者強し!信長次男「織田信雄」軍壊滅!

伊賀忍者強し! 信長次男「織田信雄」軍壊滅! 【第一次天正伊賀の乱】 北畠家の養子となり、「北畠具教(きたばたけとものり)」を暗殺(三瀬の変1576年)して、伊勢国を制圧していた信長の次男「織田信雄(おだのぶかつ)」は、隣国である伊賀国を自分の領土にすべく狙っていました。 2年後の1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士である日奈知城主「下山平兵衛」が信雄に通じ、伊賀国への案内を買って出ます。 その年の3月、信勝が滝川雄利(たきがわかつとし)に「丸山城」の修築を命じると、伊賀衆はこれを侵攻の前触れと驚き、「すぐに攻撃すべし」と、丸山城周辺の伊賀衆が集結し、10月25日に集結した忍者たちで総攻撃を開始し、不意を突かれた「滝川雄利」軍は混乱し伊勢国に敗走となります。 1度は敗れた「織田信雄」ですが、翌1579年(天正7年)9月16日に、再び8,000の兵を率い伊賀国に侵攻します。 こうして起こった伊賀との合戦を「第一次天正伊賀の乱」と言います。 この伊賀との戦いは、その後2度に渡って合戦が繰り広げられることになります。 第一次天正伊賀の乱 場所 アクセス 伊賀忍者の本城である「丸山城」は、現在の三重県伊賀市枅川にあります。 「丸山城(黒)」 「伊賀衆」の動き 「丸山城」が大規模な修築を始めた際に、伊賀国衆は、(丸山城修築が)ただ事ではない事に気づき、丸山城の西にある「天童山」に忍者を送り修築の様子をうかがいます。 とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されています。 すぐさま伊賀国衆が「平楽寺」に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議を決定。 「丸山城」周辺の伊賀国衆が集結し、10月25日に総攻撃を開始し勝利となります。 「信雄」の動き 伊勢だけでは飽き足らず、伊賀国も我が物としたい「信雄」は、侵攻の拠点となる「丸山城」の修築を「滝川雄利」に命じます。 これに気付いた「伊賀衆」は、すぐさま一致団結し、丸山城が完成される前に攻撃を仕掛けます。 信雄軍は、これに対応できず、伊勢へ敗走となってしまいます。 どうしても諦めきれない「信雄」は、翌天の1579年(天正7年)9月16日、父の「信長」に相談もせず独断で8000の兵を率いて侵攻します。
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【有岡城の戦い】本願寺攻略を前に「荒木村重」が謀反! 黒田官兵衛を幽閉!

本願寺攻略を前に「荒木村重」が謀反! 黒田官兵衛が幽閉! 秀吉、官兵衛を救え! 【有岡城の戦い】 秀吉の播磨侵攻が順調に行っていた1578年(天正6年)2月、突然、三木城の「別所長治」が離反し毛利方へ与します。 それにより同年7月、毛利より奪い取っていた「上月城」が毛利軍の反撃に合い包囲され、城主「尼子勝久」から援軍を求められます。 当時、播磨攻略の大将であった秀吉は、謀反を起こした「別所長治」討伐のため、援軍を「上月城」に出すことができず、「上月城」は毛利方へ落ちてしまいます。 その矢先、秀吉と「別所長治」討伐に参戦していた有岡城の「荒木村重(あらきむらしげ)」が謀反を起こします。 謀反を起こした理由は諸説ありますが(後述)、謀反を起こした以上、信長軍と合戦となっていったのが「有岡城の戦い」と言います。 有岡城の戦い 場所 アクセス 有岡城(ありおかじょう)は、現在の兵庫県伊丹市にある城で、別名伊丹城(いたみじょう)とも言われています。 現在は国の史跡に指定されています。 「有岡城(黒)」 なぜ荒木村重は謀反を起こしたのか… 「上月城」を毛利方より奪い、この先、秀吉の播磨攻略も順調に行くかと思いきや、三木城「別所長治」に続く、有馬城の「荒木村重」も信長に謀反を起こしました。 その理由は諸説ありますが、詳細は本人(村重)しか分からないと言ったところですが、いくらかの諸説をご案内します。 「荒木村重」謀反の原因は、信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないか(田中義成:国史学者)、としています。 村重はもともと池田城主「池田勝正」の家臣でしたが、下剋上で主家を乗っ取り、信長に仕えて37万石の大名になっていました。 「陰徳記」での、村重が兵糧を密かに本願寺へ搬入したとの噂であったり、「武功夜話」では、神吉城の攻城戦で内通者であった神吉貞光は、落城後秀吉に許されるものの、直後に別所長治のもとに走り、秀吉と対することになる事から、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったといいます。
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【第二次木津川口の戦い】日本初の戦艦!毛利(村上)水軍を撃破せよ!

火を噴く巨大戦艦! 毛利(村上)水軍を打ち破れ! 【第二次木津川口の戦い】 今から2年前の1576年(天正4年)、「第一次木津川口の戦い」で毛利(村上)水軍の前に敗れた信長は、巨大戦艦の造船に着手。 それが今年(1578年天正6年)の6月についに完成します。 それは空前絶後の威容を誇る、船体を鉄で覆った巨大戦艦でした。 完成するとすぐさま、本願寺の補給路の遮断に大阪湾へ向かった所、淡輪沖を航行中、雑賀衆船団が襲い掛かる(淡輪沖海戦)もびくともせず、大砲による攻撃で一網打尽にするほどの威力で圧倒。 雑賀船団は何も抵抗することができず、悠々と目の前を通り過ぎる巨大戦艦を見ているしかありませんでした。 7月17日にこの巨大戦艦は「堺港」に到着、翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し、大坂湾を封鎖しします。 これに反応したのが石山本願寺で、唯一物資の補給路として残されていたのが大坂湾の海路を封鎖されてはたまりません。 1578年(天正6年)11月6日、木津川口(現在の大阪湾木津川運河)で、毛利(村上)水軍と再び決戦となるのが「第二次木津川口の戦い」と言われています。 第二次木津川口の戦い 場所 地図 アクセス 木津川口の戦いの場所は、現在の木津川口の大阪湾にあたります。 現在はずいぶん埋め立てられていますので、当時と比較はできませんね…。 「第二次木津川口の戦い 海戦位置」 木津川口の戦い 巨大戦艦(鉄甲船)の様相 すでに「淡輪沖海戦」で、その威力を存分に発揮し、人々が仰天したとされる鉄甲船とはどのような様相だったのか。 上記のサイズの船で、5000人が乗れるのは疑問ではありますが、船体は3ミリの鉄板で覆われ毛利(村上)水軍の得意とした「焙烙(ほうろく)」(火薬をつめた手投げ爆弾)や「火矢(ひや)」(矢の先に火を付けて射った)が、まったく通用せず、しかも巨大に造られたと記載されています。 また、宣教師オルガンティノも「日本の船で最も大きく、華麗でポルトガルの船に良く似ている。これをどうやって建造したのか驚きである。(中略)これで石山本願寺は滅亡するものと思われる」と書き残しています。 この巨大戦艦団に対し本願寺側は、11月6日毛利(村上)水軍600隻の大船団を編隊し対抗します。
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【淡輪沖海戦】信長の巨大鉄甲船団 初陣!

毛利(村上)水軍に勝る船団…‼ 巨大戦艦初お披露目! 【淡輪沖海戦】 【いきさつ】 1576年(天正4年)7月、第一次木津川口の戦いで、毛利(村上)水軍の前に大敗を喫していた信長。 その後、織田軍の水軍家臣である「九鬼嘉隆」に、毛利(村上)水軍に対抗する巨大船の造船を命じていました。 2年後の1578年(天正6年)6月、九鬼嘉隆率いる「巨大鉄甲船」6隻と、滝川一益率いる「白大船」1隻が、伊勢大湊で完成しました。 20日、伊勢大湊を出航、熊野灘から大坂・堺港を目指す船団を見た「雑賀衆」は、あまりの(船の)大きさに驚き、すぐさま入港を阻止すべく船団を組み、淡輪沖で攻撃を仕掛けます。 そして開戦となったのが「淡輪沖海戦」と言われています。 淡輪沖海戦 場所 アクセス 淡輪沖は、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪の海域となります。 当時は堺港に向かう海上交通の要所でもあり、主に和歌山や熊野、伊勢からの物資を運ぶ交通船路となっていました。 「淡輪沖海戦 淡輪沖(黒)」 巨大鉄甲船とは 巨大鉄甲船の存在は、「信長公記」「多聞院日記」「ルイスフロイス書」などに見られますが、詳細は明らかにされていません。 数問の「大砲」を持ち、巨大さゆえに小回りは出来なかったという事です。 【寸法】 『多聞院日記』:長さ12~13間(21.8m~23.6m)、幅7間(12.7m)。 【装甲】 『多聞院日記』:「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対抗のため装甲した。 【乗員】 『多聞院日記』:人数五千人程のる。 『信長公記』:九鬼嘉隆が6隻建造した。 5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする説もあり。 【動力】 通常の「安宅船」と同じく艪、および起倒式の木綿帆によるものと推定されている。 仮に鉄張り装甲を施していた場合、重量を増した船がこの方式で実用に耐えうる速度で航行できるかは不明。 淡輪沖海戦 織田軍vs雑賀衆軍他 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【雑賀衆軍他】 大型船7隻 数百 戦闘目的 【織田軍】 【雑賀衆軍他】 本願寺補給海上封鎖 補給路封鎖阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【雑賀衆軍他】
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【第二次上月城の戦い】山中鹿助奮闘!尼子再興なるか⁉

尼子再興の夢なるか…⁉ 毛利大軍の前に、山中鹿助、上月城を死守! 【第二次上月城の戦い】 【いきさつ】 昨年1577年(天正5年)12月、秀吉の播磨侵攻戦による「第一次上月城の戦い」で、「福原城」「上月城」を落城させたものの、年が明けた2月、三木城の「別所長治」が突然、毛利方へ寝返ります。 すると、未だ織田方か毛利方か、立場を明確にしていない播磨諸豪族衆が、別所長治の毛利方へ離反するとともにこぞってこれに同意。 秀吉の播磨侵攻に雲行きが怪しくなってまいります。 この背景には、「上杉謙信」の上洛という意図もあったと考えられ、この時点における播磨諸衆は試案のし所だったに違いありません。 いづれにせよ、三木城の別所長治が離反したとなれば、播磨における最重要拠点が、上月城から三木城へと移り、上月城の戦略的価値が低くなってしまったと言うほかありません。 織田方において戦略的価値が低くなったとはいえ、毛利側にとっての「上月城」は、播磨安芸間の交通の要所でもあり、宇喜多直家の要請もあり、「上月城」奪還の戦略を取ります。 別所長治が離反してから約2か月後の4月18日、「上月城」が毛利の3万の大軍で包囲されます。 「上月城」の包囲に、秀吉軍が救援に参陣し合戦となったのが、「第二次上月城の戦い」と言います。 第二次上月城の戦い 場所 アクセス 上月城(こうづきじょう)は、兵庫県佐用郡佐用町にある山城です。 「第二次上月城の戦い 上月城(黒)」 第二次上月城の戦い 信長と秀吉の動き 毛利軍に包囲された「上月城」の救援に向かう秀吉軍は、高倉山へと進出しますが、毛利の大軍3万の前に手が出せません。 こうしているうちにも、いつ、三木城の「別所長治」が後ろから責めてきてもおかしくありません。 秀吉は考えあぐねます。 信長はすぐに、秀吉への援軍を嫡男「信忠」を出陣させます。 しかしその援軍は、「上月城」ではなく、謀反を起こした三木城の「別所長治」討伐へ向けての援軍でした。 この命令に秀吉は、「上月城」を見捨てるしかありません。 守将となっている「尼子勝久」「山中鹿助」を前に、秀吉は城を脱出するようにと説得しますが、尼子再興の夢を秀吉に託し、協力し戦っている両者は徹底抗戦を選びます。
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【石山本願寺攻め】信長、石山本願寺の総仕上げか…!? 本願寺へ威嚇!

信長、石山本願寺の総仕上げか…⁉ 本願寺へ威嚇! 【石山本願寺攻め】 【いきさつ】 1576年(天正4年)7月の「第一次木津川口の戦い」で、毛利水軍の前に成す術もなく、石山本願寺へ救援物資を入れられ敗退した信長。 その後の、「雑賀の陣」では、本願寺と雑賀衆(鉄炮隊)との関係を断ち切れたものの、石山本願寺とは対峙した状態です。 信長の播磨平定の最中、石山本願寺の動向を探るべく、嫡男「信忠」を大将に挑発行為に出ます。 1578年(天正6年)4月4日、信長の石山本願寺への挑発行為となったのが、「石山本願寺攻め」と言います。 石山本願寺 場所 地図 アクセス 石山本願寺は現在の大阪市中央区大坂城付近と言われています。 当時の名称は「大坂本願寺」と言われており、石山本願寺の名称は後世からと言われています。 「石山本願寺地 大坂城二の丸」 石山本願寺攻め 信長軍の動き 4月4日、「織田信忠」を大将に、尾張、美濃、伊勢、近江、若狭および5畿内の軍勢で、「織田信雄(のぶかつ)」「織田信孝(のぶたか)」「津田信澄(つだのぶすみ)」「滝川一益(たきがわかずます)」「明智光秀(あけちみつひで)」「蜂屋頼孝(はちやよりたか)」「丹羽長秀(にわながひで)」の軍勢で出陣。 本願寺への威嚇攻撃も目的の一つではありますが、信長の後継者でもある「信忠」への帝王教育と軍事演習も含まれていたのでしょうか、そうそうたる軍勢です。 石山本願寺 織田軍vs本願寺軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【本願寺軍】 10万以上? 不明 戦闘目的 【織田軍】 【本願寺軍】 本願寺威嚇 様子見 主な参戦武将 【織田軍】 【本願寺軍】 織田信忠・織田信雄・織田信孝・津田信澄・滝川一益・明智光秀・蜂屋頼孝・丹羽長秀 他 顕如他(籠城) 石山本願寺 合戦のゆくえ 信忠の軍事演習とはいえ、本願寺の周りを完全に包囲され、10万を超えていたであろう軍勢に、本願寺は籠城するしかありません。 威嚇攻撃のため、実際の合戦まではならないまでも、本願寺周辺の麦畠をことごとく薙ぎ払い丸裸にし、改めて信長軍の強大さを見せつける格好となりました。 討死武将 【織田軍】 【本願寺軍】 不明 不明 【織田軍】
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【第一次上月城の戦い】秀吉よ、播磨を平定せよ!

秀吉の播磨侵攻戦!1stラウンド 秀吉よ、播磨を平定せよ! 【第一次上月城の戦い】 【いきさつ】 1576年(天正4年)7月の「第一次木津川口の戦い」で衝突以来、毛利軍との関係は敵対状態です。 その合戦で信長は、毛利水軍に敗れ石山本願寺への救援物資(兵糧・武器・弾薬)を入れられ、毛利と本願寺は「反信長同盟」を結んでいる状態です。 信長の播磨における制圧状況は「三木城」の別所長治と拠点に、御着城・姫路城・龍野城がありましたが、毛利側は信長の城を囲むように砦や城塞を築いていました。 1577年5月14日に、毛利方が水運の要衝である「英賀城」に集結するとの情報を得、信長は一気にそれを攻撃する命を播磨の諸将に通達します。 諸所の中には、後の秀吉の軍師となる「小寺(黒田)官兵衛」も含まれており、この合戦は見事織田方の勝利となります。 「英賀城」合戦の勝利によって、西播磨での戦況も好転したことを受け、信長はその年(1577年天正5年10月)、信貴山城の松永久秀討伐が終わった後に、「羽柴秀吉」を播磨に派遣することを決定します。 秀吉が播磨に着陣した1ヶ月後の11月29日、上月城主「赤松政範(あかまつまさのり)」と合戦になったのが、「第一次上月城の戦い」と言います。 第一次上月城の戦い 場所 アクセス 上月城は現在の兵庫県佐用郡佐用町にある山城です。 「第一次上月城の戦い 上月城(黒)」 秀吉の動き 「松永久秀」討伐が終わり、上洛していた秀吉は10月23日に播磨へ向けて出陣します。 播磨「姫路城」に着陣した秀吉は、まず播磨の国衆から人質を取って万全にした後、但馬南部の朝来郡を攻略し「竹田城」を落とし、異父弟の「小一郎(後の豊臣秀長)」を入れることによって北部の憂いを無くし、次に佐用郡の「福原城」に侵攻します。 すると、11月27日に福原城から出てきた城兵と交戦し、城主「福原則尚」他を討ち取り落城させます。 *秀吉は降ってきた城兵たちも許さず皆殺しにしています。(陰徳太平記) 第一次上月城の戦い 秀吉軍vs毛利軍 布陣 戦力比較 兵力差 【秀吉軍】 【宇喜多軍】 3万 1万 戦闘目的 【秀吉軍】 【宇喜多軍】 播磨侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【秀吉軍】 【宇喜多軍】
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【信貴山城の戦い】戦国の梟雄「松永久秀」!名物茶器「平蜘蛛」とともに散る!

戦国の梟雄「松永久秀」!平蜘蛛とともに散る! 織田信長vs松永久秀 【信貴山城戦い】 【いきさつ】 1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「松永久秀(まつながひさひで)」が、突如、天王寺砦を焼き払う暴挙に出て、居城の「信貴山城」で信長に反旗を翻します。 理由は、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の「反信長同盟」成立に示し合わせてのものとされています。 信長は松永久秀に対し、松井夕閑を使者に理由を聞くものの返答せず、人質とされていた2人の孫は、引き回しの上斬首されます。 9月27日に、信長嫡男の「織田信忠」が久秀討伐4万の軍勢で出陣し、10月5日に松永久秀のいる「信貴山城」に攻め込みます。 そして合戦となったのが「信貴山城の戦い」と言います。 信貴山城の戦い 場所 地図 アクセス 信貴山城は、現在の奈良県生駒郡平群町信貴山(標高433m)山上に築かれた山城です。 「信貴山城の戦い」 松永久秀謀反までの動き 松永久秀は元々信貴山城回りである大和国の支配を任されていました。 ところが、室町幕府15代将軍である「足利義昭」が「信長」と対立し、「三好義継」と共に「信長包囲網」に加わり摂津・河内も支配するも、結局この体制は信長に抑えられ足利義昭は追放、三好義継は自刃に追い込まれました。 当の松永久秀は許されますが、自国である大和国の支配権を「原田直政」に奪われてしまいます。 その原田直政も、1576年(天正4年)5月3日、石山合戦で敗退し討ち取られますが、信長は久秀の宿敵であった「筒井順慶(つついじゅんけい)」を大和国守護に据えました。 信長としてみれば、久秀は一度裏切った事のある、信用のおけない人物であり、筒井順慶の守護は当然のことであったと考えられますが、久秀にとっては納得いかない措置であり、謀反を起こす要因の一つと考えられています。 また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点とした「多聞山城」を破却するなど、久秀の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと言われています。 さまざまな要因が重なり合い、そして翌年の1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「天王寺砦」を焼き払い、信貴山城へ立てこもる行動に出ます。
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【手取川の戦い】戦国最強「上杉謙信」出陣! 織田信長軍はいかに戦う⁉

織田軍、毘沙門謙信の前で犬死にか…⁉ 織田軍vs上杉謙信 【手取川の戦い】 【開戦までのいきさつ】 上杉謙信は、以前から一向一揆(本願寺)と戦っていたものの、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」3者による「反信長同盟」が成立した後は、越中を平定させ、1577年(天正5年)能登へ侵攻を開始します。 能登守護は、「畠山春王丸」が幼少のため、重臣の「長続連(ちょうつぐつら)」が実権を握っていました。 上杉軍の侵攻に、長続連は籠城作戦を取ります。 長続連は、七尾城に百姓や町人までも収容すると言った寛大な措置をしていましたが、1年以上の籠城戦に、城内で疫病が流行り当主の「畠山春王丸」が病死してしまいます。 春王丸の死により、家臣団や城内の者が揺れ危機的状況に陥ります。 このままでは上杉軍の攻撃(包囲)に、対抗できないと考えた「長続連」は、信長に救援を求め、信長もすぐに対応します。 8月8日、信長精鋭の柴田勝家を総大将として、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、金森長近らの豪華メンバー4万の軍勢で出発します。 そして9月23日、手取川付近で上杉軍と合戦となったのが「手取川の戦い」と言います。 手取川の戦い 場所 地図 アクセス 手取川古戦場は、現在の石川県白山市湊町手取川付近となります。 「手取川の戦い」 手取川の戦い 信長軍の動き 8月8日、柴田勝家を総大将に4万の軍勢で「北ノ庄城」出発した信長軍ですが、織田軍が到着する前の9月15日、以前より「長続連」が実権を握る事に不満を抱いていた「遊佐続光」と「温井景隆」ら上杉派が内応して謀反。 長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、「七尾城」は乗っ取られてしまいます。 それを知らない信長軍は順調に進軍を続け、手取川を越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫を焼き払い、手取川を過ぎた水島(加賀郡)で、以前から「柴田勝家」と不仲だったとされる「羽柴秀吉」が、合戦方針の相違で対立し、軍を離れてしまいます。 一方、織田軍接近を知った「上杉謙信」は、直ちに奪い取った七尾城を出撃、手取川手前にある「松任城」(加賀郡)を目指します。
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