織田信長

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【信貴山城の戦い】戦国の梟雄「松永久秀」!名物茶器「平蜘蛛」とともに散る!

戦国の梟雄「松永久秀」!平蜘蛛とともに散る! 織田信長vs松永久秀 【信貴山城戦い】 【いきさつ】 1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「松永久秀(まつながひさひで)」が、突如、天王寺砦を焼き払う暴挙に出て、居城の「信貴山城」で信長に反旗を翻します。 理由は、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の「反信長同盟」成立に示し合わせてのものとされています。 信長は松永久秀に対し、松井夕閑を使者に理由を聞くものの返答せず、人質とされていた2人の孫は、引き回しの上斬首されます。 9月27日に、信長嫡男の「織田信忠」が久秀討伐4万の軍勢で出陣し、10月5日に松永久秀のいる「信貴山城」に攻め込みます。 そして合戦となったのが「信貴山城の戦い」と言います。 信貴山城の戦い 場所 地図 アクセス 信貴山城は、現在の奈良県生駒郡平群町信貴山(標高433m)山上に築かれた山城です。 「信貴山城の戦い」 松永久秀謀反までの動き 松永久秀は元々信貴山城回りである大和国の支配を任されていました。 ところが、室町幕府15代将軍である「足利義昭」が「信長」と対立し、「三好義継」と共に「信長包囲網」に加わり摂津・河内も支配するも、結局この体制は信長に抑えられ足利義昭は追放、三好義継は自刃に追い込まれました。 当の松永久秀は許されますが、自国である大和国の支配権を「原田直政」に奪われてしまいます。 その原田直政も、1576年(天正4年)5月3日、石山合戦で敗退し討ち取られますが、信長は久秀の宿敵であった「筒井順慶(つついじゅんけい)」を大和国守護に据えました。 信長としてみれば、久秀は一度裏切った事のある、信用のおけない人物であり、筒井順慶の守護は当然のことであったと考えられますが、久秀にとっては納得いかない措置であり、謀反を起こす要因の一つと考えられています。 また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点とした「多聞山城」を破却するなど、久秀の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと言われています。 さまざまな要因が重なり合い、そして翌年の1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「天王寺砦」を焼き払い、信貴山城へ立てこもる行動に出ます。
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【手取川の戦い】戦国最強「上杉謙信」出陣! 織田信長軍はいかに戦う⁉

織田軍、毘沙門謙信の前で犬死にか…⁉ 織田軍vs上杉謙信 【手取川の戦い】 【開戦までのいきさつ】 上杉謙信は、以前から一向一揆(本願寺)と戦っていたものの、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」3者による「反信長同盟」が成立した後は、越中を平定させ、1577年(天正5年)能登へ侵攻を開始します。 能登守護は、「畠山春王丸」が幼少のため、重臣の「長続連(ちょうつぐつら)」が実権を握っていました。 上杉軍の侵攻に、長続連は籠城作戦を取ります。 長続連は、七尾城に百姓や町人までも収容すると言った寛大な措置をしていましたが、1年以上の籠城戦に、城内で疫病が流行り当主の「畠山春王丸」が病死してしまいます。 春王丸の死により、家臣団や城内の者が揺れ危機的状況に陥ります。 このままでは上杉軍の攻撃(包囲)に、対抗できないと考えた「長続連」は、信長に救援を求め、信長もすぐに対応します。 8月8日、信長精鋭の柴田勝家を総大将として、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、金森長近らの豪華メンバー4万の軍勢で出発します。 そして9月23日、手取川付近で上杉軍と合戦となったのが「手取川の戦い」と言います。 手取川の戦い 場所 地図 アクセス 手取川古戦場は、現在の石川県白山市湊町手取川付近となります。 「手取川の戦い」 手取川の戦い 信長軍の動き 8月8日、柴田勝家を総大将に4万の軍勢で「北ノ庄城」出発した信長軍ですが、織田軍が到着する前の9月15日、以前より「長続連」が実権を握る事に不満を抱いていた「遊佐続光」と「温井景隆」ら上杉派が内応して謀反。 長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、「七尾城」は乗っ取られてしまいます。 それを知らない信長軍は順調に進軍を続け、手取川を越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫を焼き払い、手取川を過ぎた水島(加賀郡)で、以前から「柴田勝家」と不仲だったとされる「羽柴秀吉」が、合戦方針の相違で対立し、軍を離れてしまいます。 一方、織田軍接近を知った「上杉謙信」は、直ちに奪い取った七尾城を出撃、手取川手前にある「松任城」(加賀郡)を目指します。
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【雑賀の陣】信長vs雑賀(鈴木)孫一!雑賀衆ゲリラ戦に信長苦戦!

雑賀衆ゲリラ戦強し! 織田信長vs雑賀孫一(鈴木孫一) 【雑賀の陣】 【開戦までのいきさつ】 1570年(元亀元年)、本願寺「顕如」の檄文により反信長体制を敷いた本願寺は、信長と度々小競り合いをするものの、信長軍としては本願寺を攻めあぐねていました。 つい半年前(1576年7月)の、「木津川口の戦い」でも毛利水軍に敗れ、信長は本願寺との戦局を打開すべく光明を探っていました。 その時(1577年2月)、これまで本願寺に組してきた雑賀衆の一部*と、根来寺の杉の坊が信長に帰順します。 これを雑賀制圧の好機ととらえた信長は、1577年2月13日に「京」を発ち、全国の諸将を動員して「雑賀」制圧へと動き出したのです。 こうして雑賀衆と織田信長の間で起きた合戦を「雑賀の陣」と言います。 雑賀の陣 場所 地図 アクセス 雑賀の陣の場所は、現在の和歌山県和歌山市紀ノ川河口付近一帯となります。 雑賀(鈴木)孫一がいたとされる雑賀城は、和歌山市和歌浦中3丁目にあり妙見山城とも呼ばれました。 「雑賀の陣」 雑賀の陣 信長の動き 信長は2月13日に「京」を出発し、16日には「和泉」に入り、翌17日には雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃するも、守備兵は前夜のうちに海路で紀伊へ退却していたので空振りに終わります。 同日「根来衆」と合流して18日に「佐野」、22日には「志立」(現泉南市)に本陣を移しました。 志立に着陣した信長軍は、総勢10万を超え、ここから海岸沿いと内陸の二手に分かれて紀伊の雑賀へと侵攻する手はずを整えます。 その陣容は、 【内陸山手側】 先導:根来衆・雑賀三組 「佐久間信盛隊」「羽柴秀吉隊」「堀秀政隊」「荒木村重隊」「別所長治・重宗隊」 【海岸沿い】 「滝川一益隊」「明智光秀隊」「長岡藤孝隊」「丹羽長秀隊」「筒井順慶・大和衆」「織田信忠」「北畠信雄隊」「神戸信孝隊」「織田信包隊」 以上のような編隊となりました。 雑賀の陣 織田軍vs雑賀軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【雑賀軍】 10万 2000 戦闘目的 【織田軍】 【雑賀軍】 紀伊侵攻(雑賀討伐) 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【雑賀軍】 織田信長・羽柴秀吉・堀秀政・別所長治・根来衆杉の坊 他 雑賀孫一・土橋若大夫 他
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【第一次木津川口の戦い】毛利水軍強し!炮烙・火矢に織田水軍壊滅!

石山本願寺・上杉謙信・毛利輝元 第三次「反信長同盟」成立! 【第一次木津川口の戦い】 今年(1576年天正4年)の5月、信長との天王寺の戦いで敗れ、石山本願寺を信長軍に包囲されているにもかかわらず「顕如」(本願寺主導者)は、再び毛利輝元への援助(兵糧・武器等)を求めます。 救援を求められた「毛利輝元」も、この時期、足利義昭の反信長体制の呼びかけに「上杉謙信」も同意し、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の3者による「反信長同盟」が成立していました。 上杉謙信の同盟により強気になっていたのか、毛利輝元も、堂々と信長の正面から「救援物資」を木津川口から送り込みます。 信長がこれを黙ってみている訳がありません。 毛利水軍と織田水軍が、「木津川口」で合戦となったのが「第一次木津川口の戦い」と言います。 第一次木津川口の戦い 場所 アクセス 木津川口の戦いの場所は、現在の木津川口の大阪湾にあたります。 現在はずいぶん埋め立てられていますので、当時と比較はできませんね…。 「木津川口の戦い「遠見番所」(現在)」 信長の動き 信長は、石山本願寺自体の包囲は出来ていたものの、本願寺の補給路である「海路」までは完全に封鎖し切れていませんでした。 この年(1576年天正4年)7月13日、毛利連合水軍(毛利水軍・小早川水軍・村上水軍)は約800隻もの大船団で、大阪湾に姿を現し、本願寺へ兵糧を運ぼうとします。 織田軍もこれに対抗し、伊勢の「九鬼嘉隆」を総大将とする水軍で迎え打ちます。 その数、約300隻。 信長水軍300vs毛利水軍800 第一次木津川口の戦い 織田軍vs毛利軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【毛利軍】 300隻 800隻 戦闘目的 【織田軍】 【毛利軍】 補給阻止 本願寺への補給成功 主な参戦武将 【織田軍】 【毛利軍】 九鬼嘉隆・真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野大隅守・宮崎鹿目介 他 乃美宗勝・小玉就英・能島元吉・来島通聡 他 合戦のゆくえ 7月15日、ついに開戦となり、両者が海上で激突します。 300隻vs800隻 数で劣勢となった信長水軍ですが、毛利水軍は海賊衆で無敵と言われた「村上水軍」もおり強敵です。
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【天王寺の戦い】光秀が危ない!信長よ、急げ!

信長急げ!明智光秀大ピンチ! 信長軍3000vs本願寺軍15000 【天王寺の戦い】 1570年(元亀元年)から、信長と石山本願寺(顕如)は仲が悪い! いわゆる、信長が無理難題を本願寺に突きつけ、そのたびに本願寺は抵抗してきただけの事。 1576年(天正4年)2月、安芸の「毛利輝元(もうりてるもと)」が足利義昭の信長包囲網の呼びかけに賛同し、石山本願寺への武器弾薬、兵糧を送り込んできました。 当時の本願寺は、信長に「長島一向一揆」「越前一向一揆」「浅井・朝倉家」を滅ぼされ、追いつめられた状態でした。 その最中での毛利輝元の参戦で、これにより本願寺主導者である「顕如」が勢いづき、畿内の信徒に動員令を出して5万の兵を集めます。 このことから、再び石山本願寺と織田信長の合戦が再燃することとになります。 こうして1576年(天正4年)5月7日に起こったのが「天王寺の戦い」と言われています。 天王寺の戦い 場所 地図 アクセス 天王寺の戦いの場所は、現在の「天王寺砦(てんのうじとりで)」大阪市天王寺区生玉寺町月江寺にあり、織田信長が石山本願寺攻めのために作った砦と言われています。 「現在の地図(位置)天王寺合戦場所は黒印」 天王寺の戦い 信長の動き 5万の兵が揃った本願寺に対し、信長は明智光秀、細川藤孝ら諸将を摂津方面に出陣させ体制を整えます。 森河内砦に「明智光秀」、守口砦に「細川藤孝」、八王子砦に「原田直政」、野田砦に「荒木村重」を配置します。 そして、本願寺周辺の刈畠を行い、「一般信徒(男女)は赦免するので城を出るように」という立て札を立てよ、と命じます。 これは今までの、長島・越前の一向一揆とは違う対応をしています。(長島・越前は一般信徒は皆殺ししています) 4月中旬、石山本願寺の周りを包囲した信長は、本願寺側の水路の確保先となっていた「三津寺」を攻撃する事を決め、「天王寺砦」に佐久間信盛嫡男「佐久間信栄」と「明智光秀」を配置させます。 そして5月3日、原田直正を先陣に「三津寺」に攻撃を仕掛けます。 天王寺の戦い 織田軍vs本願寺軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【本願寺軍】 3000 1万5000 天王寺の戦い 合戦のゆくえ 一気果敢に出陣する原田直正隊。
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【第二次岩村城の戦い】おつやの方よ、裏切者は絶対に許さん!

叔母「おつやの方」に裏切られ奪われた「岩村城」奪還へ! 【織田信長軍vs武田勝頼軍】 3年前の「第一次岩村城の戦い」で、信長の叔母である「おつやの方」の裏切りに合い、奪われていた「岩村城」奪還戦となる「第二次岩村城の戦い」! この戦いが始まる一月前、織田信長と武田勝頼は、長篠設楽原で壮絶な合戦を繰り広げました。(長篠の戦い) 信長軍の鉄砲隊による新戦法で、大敗を喫することになってしまった武田軍ですが、信長はこの好機を逃さず、武田軍に体勢を整える暇も与えず、岩村城の奪還を目指し、嫡男の「信忠」に命じます。 1575年(天正3年)6月に、嫡男「信忠」を大将にはじまった合戦を「第二次岩村城の戦い」といいます。 早速、紐解いてまいりましょう。 第二次岩村城の戦い 場所 地図 アクセス 岩村城(いわむらじょう)は岐阜県恵那市岩村町にある山城です。別名「霧ヶ城」とも言われています。 現在では岐阜県の指定史跡となっています。 「現在の地図(位置)」 第二次岩村城の戦い 信長の動き 1575年(天正3年)5月21日に長篠の戦いにおいて、「武田勝頼」は織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、武田重臣の「山県昌景」「馬場信春」ら多くの重臣を失います。 武田軍が弱体化したこの好機に信長はすぐさま、嫡男の「信忠」に岩村城の侵攻を命じました。 信忠は、6月13日には「岩村城」を完全包囲したものの、岩村城は籠城作戦を取ります。 第二次岩村城の戦い 織田軍vs武田軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【武田軍】 3万 不明 戦闘目的 【織田軍】 【武田軍】 岩村城奪還 奪還阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【武田軍】 織田信長・織田信忠・毛利長秀・河尻秀隆 他 武田勝頼・秋山信友・山県昌景・馬場信治 他 第二次岩村城の戦い 合戦のゆくえ 岩村城の籠城は思いのほか長期戦へと持ち込まれ、開始されてから5か月が過ぎた11月10日、補給路を断たれていた岩村城は、この窮地を脱するべく岩村城兵が、信忠が陣を置く水晶山に夜襲を掛けてきました。
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【越前一向一揆殲滅戦】一人残らず探し出せ!そして女・子供構わず、すべて斬り捨てよ!

信長のあくなき執念!集団殺戮ジェノサイド! 【信長vs本願寺越前一向一揆衆】 昨年(1574年天正2年)の9月に「長島一向一揆衆」を制圧し、先の5月には「長篠の戦い」で武田勝頼に大勝した信長ですが、全国に広がり「反信長体制」を敷いている一向一揆衆には情け容赦がありません。 天下統一のためには避けては通れない「本願寺・一向一揆衆」の次なるターゲットは「越前一向一揆」です。 1575年8月15日から始まった「越前一向一揆殲滅戦」紐解いてまいります。 越前一向一揆殲滅戦 場所 アクセス 越前一向一揆殲滅戦の行われた場所は、現在の福井県敦賀市から福井市までの一帯となります。 「現在の地図(位置)」 越前一向一揆殲滅戦 信長の動き 石山本願寺の支配下に置かれてた越前は、本願寺から派遣されていた「下間頼照(しもまらいしょう)」の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政といわれるものではなかったようです。 「下間頼照」は、自らの私腹を肥やすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義のもと、以前の政(まつりごと)以上の重税や重役を門徒宗に課しました。 そのため、下間らの行う統治に不満を抱くもの達が暴発し、一揆内一揆が発生し、一揆勢は内部から崩壊し始めます。 信長は、こうした内輪で揉めている越前に、絶好の好機とし、8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の「小谷城」で信長軍へ攻撃の手はずを整えます。 そして14日に信長は「敦賀城」に入り、越前一揆衆との臨戦態勢を敷きます。 高屋城の戦い 織田軍vs越前・本願寺軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【越前・本願寺軍】 3万 不明 戦闘目的 【織田軍】 【越前・本願寺軍】 越前一向一揆討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【越前・本願寺軍】 織田信長・柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉・金森長近・一式義道 他 下間頼照・下間頼俊・杉浦玄任・七里頼周・安居(朝倉)景武 他 越前一向一揆殲滅戦 合戦のゆくえ 信長忍隊の事前の情報によると、越前一揆勢の配置は以下だったといいます。 「板取城」 下間頼俊と越前一揆勢 「鉢伏城」 阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆 「今城・火燧城」 下間頼照 「杉津城」 円強寺衆と加賀衆
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【高屋城の戦い】三好・本願寺との因縁の対決!十河一行・香西長信散る!

三好・石山本願寺との因縁合戦! 【高屋城の戦い】 一時は畿内で政権を牛耳っていた三好氏も、「三好三人衆」が滅び、三好氏本家の「三好吉継」も若江城で自害して宗家は滅亡していました。 ただ、三好長慶の叔父にあたる「三好康長」だけは「石山本願寺」と結んで河内の残存勢力を集め、「高屋城」で信長に抵抗を続けていました。 「信長包囲網」「一揆衆の蜂起」といういくつもの窮地に立たされ、その都度突破してきた信長ですが、いづれも張本人である「石山本願寺」との決着は付いていません。 昨年1574年(天正2年)9月に、長島一揆衆を制圧し、いよいよ本命「本願寺」との直接対決の前哨戦ともいえるのが「高屋城の戦い」です。 三好康永・本願寺連合軍vs織田信長の構図なった「高屋城の戦い」紐解いてまいりましょう。 高屋城の戦い 場所 アクセス 高屋城は、現在の大阪府羽曳野市にあった城で、元は畠山義就が1479年に築城しました。 現況は廃城されており、本丸跡は27代「安閑天皇(あんかんてんのう)」陵に治定されている「高屋築山古墳」となり立入は禁止となっています。 「現在の地図(位置)」 高屋城の戦い 信長の動き 1573年(天正3年)3月22日、信長は「細川藤孝(ほそかわふじたか)」に命じます。(信長朱印状/細川家文) 「秋には石山本願寺を攻撃するので、丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備を進めておくように。」 これに対し、本願寺側は、大和田と天満に「砦」をつくり、渡辺や神崎あたりまで進軍して信長の進撃に対抗します。 この行動に信長方の「荒木村重」が兵を送り破壊を試みるも、一旦は敗れはしたものの、再三の攻撃でついに「大和田砦」と「天満砦」を奪うことに成功します。 これを好機と見たのか、4月6日に京を出立します。 高屋城の戦い 織田軍vs三好・本願寺軍 布陣 動員数 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【三好・本願寺軍】 10万 不明 戦闘目的 【織田軍】 【三好・本願寺軍】 三好康長討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【三好・本願寺軍】 織田信長・柴田勝家・羽柴秀長・佐久間信盛・塙直政・荒木村重 他 三好康長・顕如・遊佐信教・十河一行・香西長信 他 高屋城の戦い 合戦のゆくえ 4月7日、「若江城」へ着陣。
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【第三次長島一向一揆討伐戦】阿鼻叫喚・地獄絵図!鬼神信長「女・子供・一揆勢すべて焼き殺せ!」

因縁本願寺との最終決戦!信長VS長島一向一揆! 【第三次長島一向一揆討伐!】 1570年から始まった本願寺(長島一向一揆)との最終決戦となった第三次ラウンド! 本願寺下間頼成の「檄文」により反信長蜂起に伴い、一揆勢が信長に抵抗するようになってから4年、ついに最終決戦となる「第三次長島一向一揆軍討伐戦」が開戦します。 「織田信長」vs「長島一向一揆軍」 1574年(天正2年)6月23日、信長は自身の全領域へ、長島一向一揆攻めの為の「大動員令」を発します! 信長による、集団殺戮ジェノサイド! 長島一向一揆との最終決戦の始まりです。 「第三次長島一向一揆」紐解いてまいりましょう。 長島一向一揆 場所 アクセス 現在の三重県桑名市長島町にあります。 「現在の地図(位置)」 信長の動き 7月13日、三度目となる長島一向一揆討伐のため、大動員令で終結し出陣。 陸からは、東から「織田信長本隊・信忠部隊」、西からは「柴田勝家部隊」、中央正面からは羽柴秀吉に代わり弟の「羽柴秀長隊」の三隊。 さらに海からは、「九鬼嘉隆隊」と「滝川一益隊」が動員され、信長の主要な将のほとんどが参陣し、8万の大軍で長島に攻め込みます。 第三次長島一向一揆戦 織田軍vs一向一揆軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【一向一揆軍】 8万 3万 戦闘目的 【織田軍】 【一向一揆軍】 長島一向一揆討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【一向一揆軍】 織田信長・織田信忠・柴田勝家・羽柴秀長・丹羽長秀・前田利家・佐久間信盛・佐々成政・河尻秀隆・池田恒興・九鬼嘉隆・北畠具豊・滝川一益 他 顕忍・空明・下真頼旦・下間頼成・日根野弘就・大島親崇・大木兼能 他 合戦のゆくえ 7月14日ついに織田軍の進撃が開始されます。 陸攻めの「織田信長本隊・信忠部隊」、「柴田勝家部隊」、「羽柴秀長隊」の三部隊が、小木江城対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴。 岸際の篠橋城周りを「羽柴秀長部隊」に攻めさせ、「織田信長本隊・信忠部隊」は前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五明城を攻略し、その日はこの地点で野営します。
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【高天神城の戦い】高天神を制する者は遠州を制する!

武田軍が猛襲!家康の三河へ侵攻! 信長急げ、家康を救え!! 1574年(天正2年)2月に、東美濃にあった十八城のすべてを、「武田勝頼」に奪われた信長。 武田軍の脅威が目前となってから3か月後の5月、「武田勝頼」は三河の家康領内の「高天神城」に侵攻します。 この「高天神城の戦い」は、信長直接の合戦ではないものの、同盟国である三河の「徳川家康」と「武田勝頼」との戦いを言います。 当時の家康とは、同盟していたとはいえ、事実上は織田家の家臣として配下に存在していたと言われます。 この合戦も、信長の合戦のひとつとして捉えてまいります。 高天神城の戦い 場所 アクセス 高天神(たかてんじんじょう)は、現在の静岡県掛川市上土方にあった山城で国の史跡に指定されています。 2017年4月6日に、日本100名城(147番)に選定されています。 元は今川領で、後に徳川家康と武田信玄・勝頼と激しい争奪戦を繰り広げられた城です。 高天神城の戦い 武田勝頼のねらい 今年(1574年)2月に、織田領内である東美濃十八城のすべてを奪い、近江・京へのルートを確保しつつあった勝頼は、次は三河家康の「高天神城」に侵攻します。 元々は、高天神城は今川氏の支城でしたが、桶狭間の戦い以降、今川氏の衰退によって城主「小笠原氏興(おがさわらうじおき)」は徳川方に付いていました。 遠江・駿河の国境近くにある「高天神城」は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点でもありました。 今川氏衰退の後、武田信玄は駿河を平定後、信玄亡き後の勝頼は、三河・遠江方面へ手を伸ばしており、その折に家康との小競り合いが続いていました。 東美濃を制した勝頼は、信長の同盟国である小国の家康を攻めることにより、信長へのプレッシャーを強めていきたいと考え、拠点となる高天神城はどうしても欲しい重要拠点だったのです。 高天神城の戦い 織田軍vs武田軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【武田軍】 1000 2万5000 戦闘目的 【織田軍】 【武田軍】 侵攻阻止 高天神城攻略 主な参戦武将 【織田軍】 【武田軍】 小笠原長忠(信興) 他 武田勝頼 他
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