織田信長

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【北伊勢侵攻戦】滝川一益、北伊勢に侵攻し美濃を完全包囲せよ!(勢州軍記)

北伊勢制圧で、美濃を包囲せよ! 昨年(1566年閏8月)の、「河野島の戦い」で木曽川洪水の為、美濃斉藤軍に手痛い敗戦を喫した信長ですが、翌年1567年2月に家臣の滝川一益に美濃と国境を接する北伊勢侵攻を命じます。 当時の北伊勢は、南美濃と国境を接しており、北勢四十八家と呼ばれる地豪族が割拠していました。 なかでも長島には、手ごわい一向一揆が存在しており本願寺の強い影響力の元、一向一揆国を形成していました。 そうした地豪族や一向一揆がいつ信長に反旗を翻すとも限らず、お互い手を結ばれ反信長軍を形成されては、美濃攻略にも支障が生じるため、信長は美濃攻略を進める上ですぐにも北伊勢を制圧する必要がありました。 その際に、家臣の滝川一益に命じ、北伊勢地区を侵攻した合戦が「北伊勢侵攻戦」と言われています。 「信長公記」にはない合戦ですが、美濃攻略に重要な意味を持つ合戦ですのでご紹介してまいります。(勢州軍記*) 北伊勢侵攻戦 場所 地図 1567年2月、最初に滝川一益が着手した北伊勢の場所が、今の現在の三重県桑名市・いなべ市・四日市市と言われています。(名古屋市内からおよそ20km程、電車で20~30分位) 写真の河口三角州の場所が「長島」(一向一揆)で、滝川一益は、この場所は迂回したと言われています。(写真右が名古屋) 北伊勢侵攻 織田軍v伊勢国人衆 布陣 戦力比較 1567年(永禄10年)2月、美濃攻略に、北伊勢の重要性を知った信長は、家臣の「滝川一益」に命じ北伊勢の侵攻を開始します。 当時の北伊勢には「北勢四十八家」と言われる豪族が割拠していました。(長島には一向一揆) 合戦図 信長は当時蟹江城にいた「滝川一益」に北伊勢侵攻の大将に命じ、4000の兵を預け従軍の中には「明智光秀」も加えている。 また、長島には一向一揆がいるため、一切手出しはせずに迂回して北伊勢を侵攻するようにと命じた。 兵力差 【織田軍】 【北伊勢国人衆】 4000 不明 戦闘目的 【信長軍】 【北伊勢国人衆】 北伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【北伊勢国人衆】 滝川一益・明智光秀 他 上木氏・木股氏・持福氏 他 北伊勢侵攻 合戦の行方
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【河野島の戦い】信長公記に無い幻の合戦!木曽川の増水により信長苦戦!美濃攻略に暗雲が…。

信長不覚! 美濃攻略に暗雲が…。 昨年(1565年9月)の、「堂洞合戦」により、「中農三城盟約」を打ち崩し、堂洞城・加治田城・関城を開城させ中濃地域を制した信長ですが、翌年(1566年永禄69年)の4月には加賀見野(今の各務原市)へ侵攻するも、斎藤龍興との間で決着はつかず、ひとまず撤退しています。 タイトルにもあるように、「河野島の戦い」というのは、信長史を語る上でもっとも信頼性の高い史料「信長公記」には記載がなく、合戦としての資料は斉藤方に残る連判状しか存在していません。 この書状というのが、美濃三人衆である「安藤守就(あんどうもりなり)」・「稲葉一鉄(いなばいってつ)」「氏家卜全(うじいえぼくぜん)」と「日根野弘就(ひねのひろなり」「竹腰尚光(たけこしなおみつ)」の連版した書状の中の一つで、甲斐国「快川紹喜」に宛てた書状に記載されています。(中島文書) 書状の内容は、「足利義昭公上洛の際に信長が付き添い、斉藤方は美濃を安全に通れるようにしたものの、信長がまったく動こうとしない旨、信長は天下の笑いものになっている。・・・」と続き、内容はさら後半へと続いています。 その後半部分の文章に、「河野島の戦い」に関する文章が残っているのです。以下後半の部分を記します。 この連版状の後半部分に書かれた文章が「河野島の戦い」が実際に行われたという唯一の文章です。 今では、河野島という地名が無く、場所もはっきりとしませんが、大まかでは現在の岐阜県各務原市と言われています。 美濃との国境であった「河野島」とはいったいどの辺りをいうのでしょうか。 河野島の戦い 場所 地図 資料が乏しく確定はできませんが、「木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった」という文章からして、場所は現在の岐阜県各務原市木曽川辺りと言われています。 木曽川は以前より増水が起こりやすく治水に困難な地形だったようです。 河野島の戦い 織田軍v斉藤軍 布陣 戦力比較 1566年(永禄9年)閏8月8日(9月21日)に洪水となった木曽川の増水が治まり、信長は撤退を始めますが、それを気に斉藤方が川際で迎え討ちします。 合戦図 兵力差 【織田軍】 【斉藤軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【斉藤軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将
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【堂洞合戦】関城・加治田城・堂洞城の「中農三城盟約」を打ち崩せ!信長の壮絶なる戦い!

岸信周・岸信房 討死! 堂洞合戦! つい1か月ほど前に、「犬山城」の織田信清を降伏させ、中美濃の「宇留摩(鵜沼)城」「猿啄城」「美濃金山(兼山)城」の3城を攻略し、美濃侵攻に光明が差してきた信長ですが、各城で逃れた兵たちは猿啄城から数キロ北に位置する「堂洞城」に逃れていました。 「堂洞城」は当時、岸信周・勘解由左衛門(きしのぶちか・かげゆさえもん)が城守となっており、すぐ側には「加治田城」(佐藤忠能・さとうただよし)、「関城」(長井道利)の3つの城で「中農三城盟約*」が結ばれていました。 *「中農三城盟約」:美濃斉藤軍の反信長勢力 先の合戦の勝利から兵の士気も高い信長軍、勝利の勢いのまま「堂洞城」を包囲するも、さすがに「中農三城盟約」一角に、うかつに手を出すわけにもいきません。 いつ援軍が来てもおかしくない状況です。 そこで信長は、まず近習の「金森長近」を使者として遣わし、それぞれ3城主に投降を促します。 しかし3城とも投降には応じず敵対したものの、加治田城の「佐藤忠能」だけは織田方の「丹羽長秀」と内応し投降に応じます。 加治田城の「佐藤忠能」が織田方に寝返った報せを聞いた斉藤龍興は、「長井道利」を出陣させ堂洞付近で信長軍と合戦となります。 織田信長と投降に応じた加治田城「佐藤忠能」と、斉藤方「長井道利」と堂洞城「岸信周・岸信房父子」の戦いを「堂洞合戦」と言います。 この戦いは、敵ながら奮戦した「岸信周・岸信房父子」の壮絶な討死で終わりを迎えることになるのです。 堂洞合戦 場所 地図 堂洞城の場所は現在の岐阜県加茂郡富加町夕田にあります。 加治田城(佐藤忠能)とは目と鼻の先(1km程)の位置です。 現在は本丸・長尾丸・二の丸後の塀、土塁が残っており、本丸跡には「南無阿弥陀佛」の石碑が建立されています。 「堂洞城由来」の看板には信長が侵攻してきた旨記載されています。 堂洞合戦 織田軍v斉藤軍 布陣 戦力比較 1565年(永禄8年)9月28日、中農三城盟約の内、「加治田城」佐藤忠能の投稿に成功した信長は、残る2城のひとつ「堂洞城」(岸信周・信房父子)の四方を包囲します。 合戦図 織田軍は、「堂洞城」をぐるりと包囲し、西と南に「丹羽長秀」「河尻秀隆」「森可成」を配置し、北に「佐藤忠能」を配備します。
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【猿啄城攻め】丹羽長秀隊先鋒「河尻秀隆」ここにあり!

信長の美濃攻略戦! 猿啄(さるばみ)城と鵜沼(うぬま)城を落とせ! 1565年(永禄8年)8月、信長は中農攻略のため、犬山城のそばにある「宇留摩(鵜沼)城」攻略を開始したと同時に、「猿啄城」(さるばみじょう)にも着手しています。 宇留摩(鵜沼)城を、織田家で頭角を出し始めた「木下藤吉郎」に、この猿啄城には重臣の「丹羽長秀」に任せます。 この2城(中美濃)を攻略し奪取することで、「稲葉山城」と東美濃の勢力を分断することが、信長の最大の狙いでした。 その2城の内の1つである「猿啄城」での戦を「猿啄城攻め」と言われています。 猿啄城攻め 場所 地図 場所は現在の岐阜県加茂郡坂祝町勝山で木曽川沿いの勝山にあります。 この付近の木曽川は急流であり周辺は谷深い山となっています。当時は飛騨国、東美濃から尾張国への重要な地点でもありました。 現在は展望台が設置されています。宇留摩(鵜沼)城からは北東に3km程の場所。 猿啄城攻め 織田信長vs多治見修理 布陣 戦力比較 信長の中農攻略2城の内の1つである「猿啄城」攻めを任せられた丹羽長秀。 難攻不落と言われ堅城ではあるものの、飛騨国、東美濃から尾張国への重要な地点でもあり、信長の中農攻略地点としては是が非でも攻め落としたい城です。 合戦図 木下藤吉郎の「宇留摩(鵜沼)城」攻めと同時に、信長から猿啄城攻めを任された丹羽長秀ですが、堅固な要塞城とされる「猿啄城」に対し策を練ります。 対する猿啄城主「多治見修理」は、堅城の守りをさらに固くし侵攻を容易にさせません。 こうなっては、単に力攻めでは被害甚大も避けられないと考えた長秀は、猿啄城の尾根続きであり猿啄城より高い場所にある「大ぼて山」に上り、猿啄城の給水源を絶つ事を考えます。 丹羽長秀は、大ぼて山にある猿啄城の給水源を完全に断ち切ったところで、隊の精鋭である「河尻鎮吉(秀隆)」が先鋒に名乗りを挙げます。 「河尻鎮吉(秀孝)」にとってこの戦いは、斉藤道三に追われ「大桑の戦い」で父重親が討死した、斉藤方へ対する弔い合戦でもあったのです。 先鋒に命じられた「河尻鎮吉(秀孝)」は、一気果敢に猿啄城に攻め込みます。 兵力差 【織田信長軍】 【多治見修理軍】 不明 約600 戦闘目的 【織田信長軍】 【多治見修理軍】 中農侵攻 猿啄城攻略
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【宇留摩(鵜沼)城攻め】信長美濃攻略。”木下藤吉郎”伊木山に砦を築き宇留摩(鵜沼)を攻めよ!

サルッ(秀吉)、伊木山に砦を築け! 宇留摩(城)を落とせ! 1564年(永禄7年)に、織田信清の犬山城を陥落させ、中美濃攻略に光明を見出した信長ですが、翌年1565年(永禄8年)8月に犬山城からほど近い「宇留摩(別名:鵜沼)城」攻めを行います。 城には鵜沼の虎と呼ばれる、斉藤側家臣の「大沢次郎左衛門基康」が守ります。 宇留摩(鵜沼)城は、犬山城から木曽川を隔てた対岸に位置し、巨大な岩山に築かれ人の往来を阻む堅固な要塞城となっています。 信長は、その要塞城を崩すために、城の南西にある伊木山に砦を築き宇留摩(鵜沼)城攻めの拠点としました。 信長の中美濃攻略の足掛かりとなった戦が「宇留摩(鵜沼)城攻め」と言われています。 宇留摩(鵜沼)城攻め 場所 地図 場所は現在の岐阜県各務原市鵜沼南町で犬山城の対岸にあり、岩山でできた山頂にあります(現在は廃城:立入禁止)。(小牧山城からは北に約10km位の場所) 中央に位置するのが「犬山城」。(中央) 犬山城と木曽川を挟んで対岸に位置するのが「宇留摩(鵜沼)城」。(右上) 信長が砦を築いた標高173mの「伊木山」。(左下) 宇留摩(鵜沼)城攻め 織田信長vs大沢次郎左衛門基康 布陣 戦力比較 美濃攻略の方針を中農に変えた信長。まずは鵜沼の虎大沢次郎左衛門の「宇留摩(鵜沼)城」の攻略を開始します。 合戦図 岩山の堅固な要塞となっている「宇留摩(鵜沼城)」攻めを任されたのが、当時足軽大将だった「木下藤吉郎」です。 いわずと知れた後の秀吉ですが、この頃からすでに信長家臣の中では頭角を現していたようです。 しかし、さすがの藤吉郎(後の秀吉)も、この要塞城攻めは単なる力攻めでは破れないと考えたようです。 その藤吉郎が考えた策が、大沢次郎左衛門への「調略」でした。 兵力差 【織田信長軍】 【大沢次郎左衛門軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【大沢次郎左衛門軍】 中農侵攻 宇留摩城攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【大沢次郎左衛門軍】 織田信長・木下藤吉郎 他 大沢次郎左衛門 他 宇留摩(鵜沼)城攻め 合戦の行方
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【犬山城攻略戦】信長、小牧山城に居城移転!狙うは国宝「犬山城」!

美濃攻略の拠点 清州から犬山に移す! 2年の歳月をかけ、再度稲葉山城攻略を目指し、城下に攻め入ろうとした信長でしたが、またしても軍師「竹中半兵衛」の計略に嵌り「新加納の戦い」で敗北しました。 信長は2度にもおよぶ敗戦に、直接稲葉山城を攻めることを諦め、回りの支城から切り崩す作戦に切り替えます。 その為の拠点となる城を清州城から「小牧山城」に移します。 そして新加納で敗れた翌年の1564年(永禄7年)5月から8月にかけ、美濃の斎藤龍興と結び敵対している織田信清の「犬山城」攻略にかかります。 この戦が「犬山城攻略戦」といわれています。 犬山城攻略戦 場所 地図 場所は現在の愛知県犬山市犬山北古券で木曽川のほとりにあり、現在は国宝に指定されています。(清州城からは北東に25km位の場所) 犬山城攻略戦 織田信長vs織田信清 布陣 戦力比較 美濃攻略の方針を竹中半兵衛により変えた(変えさせられた)信長ですが、まずは織田信清のいる「犬山城」の孤立化を図ります。 合戦図 まず最初に、織田信清の家老である小口城の「中島豊後守」と黒田城の「和田新介」を、信長方の「丹羽長秀」が調略を持って寝返らせます。 この2人は、よほど信長の小牧山への移転を恐怖に感じ取ったのでしょうか、信清を裏切り信長へ恭順します。 そして、完全に孤立化させた「犬山城」の四方を、「鹿垣(ししがき)*」で包囲します。 *鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣) 兵力差 【織田信長軍】 【織田信清軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【織田信清軍】 犬山城攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 織田信長・柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀 他 織田信清 他 犬山城攻略 合戦の行方 1563年(永禄6年)4月に竹中半兵衛の計略で「新加納」で敗れてから1年後、美濃攻略の方針を回りの支城から攻め落とすことにした信長ですが、まず最初のターゲットが織田信清のいる「犬山城」でした。 1564年(永禄7年)5月に黒田城・小口城の調略に成功し、犬山城を孤立化させ四方を完全に包囲した信長ですが、犬山城の「織田信清」は籠城戦に持ち込み斉藤方の援軍を待ちます。
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【新加納の戦い】竹中半兵衛の計略炸裂!信長敗色濃厚…しかし藤吉郎(秀吉)の奇策が…。

恐るべし竹中半兵衛! 信長、半兵衛策略に嵌る! 1561年5月に美濃の「斎藤義龍」が病死し、3日後の「森部の戦い」に続く「十四条・軽海の合戦」では勝利したものの、1か月後の「小口城合戦」「稲葉山城攻め」では完敗した信長。 信長にとって美濃は是が非でも攻略したい場所。2年もの歳月を費やした1563年(永禄6年)4月、再び「稲葉山城」攻略のため出陣します。 美濃には軍師「竹中半兵衛」が存在する中で、満を持しての合戦。 稲葉山城南に位置する新加納の地で合戦となったのが「新加納の戦い」です。 新加納の戦い 場所 地図 場所は現在の岐阜県各務原市那加新加納町の辺りと言われています。(写真は日吉神社他、清州城からは北に25km位の場所にあります) 新加納の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 この戦い、信長の史記として最も信憑性の高い「信長公記」には記載がありませんが、「総見記」に記載がありますので解説します。 合戦図 信長は、織田信清の居城犬山城をわき目も降らず木曽川を渡り、稲葉山城へと進軍します。 その進軍を知った稲葉山城の竹中半兵衛も、すぐさま兵を稲葉山から新加納の地へ移します。 新加納の地で両軍は激突します。 兵力差 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 5700 3500 戦闘目的 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 織田信長・坂井政尚・池田恒興・柴田勝家・森可成 他 竹中半兵衛・長井道利・日根野弘就・日根野盛就・牧村半之助 他 新加納の戦い 合戦の行方 信長正規軍であったが敗色濃厚に奇策が… 織田軍の兵力は5700に対し、斉藤軍は3500。 【織田信長軍】 先陣…池田恒興・坂井正尚 二陣…森可成 三陣…柴田勝家 四陣…丹羽長秀 大将…織田信長 先陣から大将まで、豪華武将が揃った信長正規軍。信長の気合が感じられます。 対する斉藤龍興軍ですが、 【斎藤龍興軍・軍師竹中半兵衛】 先陣…牧村半之助 二陣…日根野弘就・日根野盛就 三陣…長井道利 信長軍は兵数で有利、しかも兵農分離された勇猛果敢な隊陣、信長もこの陣立てであれば「必ず勝てる」と思ったに違いありません。
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【稲葉山城攻め】信長、軍師「竹中半兵衛」の策に敗れる!

信長完敗! 竹中半兵衛の十面埋伏の計に敗れる! 1561年6月下旬、犬山城主の「織田信清」が美濃の斉藤龍興と結んで、信長と「小口城」で合戦となりましたが、ほぼ同時期に信長は斎藤龍興の「稲葉山城」にも攻撃を仕掛けています。 織田信清と結んだことがよほど気に障ったのでしょうか、信長は斎藤龍興にも攻撃を仕掛けた戦いが「稲葉山城攻め」と言われています。 稲葉山城攻め 場所 地図 場所は現在の岐阜県岐阜市18(金華山山頂)にあり、現在は岐阜城として岐阜市民のシンボルとなっています。(清州城からは北に30km弱の場所にあります) 稲葉山城攻め 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 実はこの戦い、信長の史記として最も信憑性の高い「信長公記」にも記載がありません。 ただ、織田信清が斎藤龍興と結び反旗を翻したことは事実のようで、「小口城合戦」とこの「稲葉山城攻め」は信長の二方面同時作戦ではなかったかと考えられています。 兵力差 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 織田信長・木下秀吉 他 斎藤龍興・竹中半兵衛 他 稲葉山城攻め 合戦の行方 竹中半兵衛の策 この合戦の詳細は史料が少なく詳細が分かりませんが、合戦の勝敗から言えば、信長は堅固な稲葉山城を崩せず撤退することになります。 撤退となった理由が、後の秀吉の軍師となる「竹中半兵衛」の策にあったと言われています。 その策が「十面埋伏の陣(じゅうめんまいふく)」。 三国志の計略と言われ、10隊の伏兵と囮部隊で敵を攻撃する陣立てです。 隊を右に5隊、左に5隊に分け、伏兵として潜ませておき、別の先鋒隊が囮となって敵を誘い込んだところを、その伏兵たちが順に繰り出し敵を攻撃する作戦を言います。 信長の合戦において、竹中半兵衛がはじめて登場した戦でもありました。 討死武将 【織田信長軍】 【斉藤龍興軍】 不明 不明 稲葉山城攻め 結果 1561年(永禄4年)6月下旬、小口城合戦とほぼ同時期に行われた合戦ですが、軍師「竹中半兵衛」十面埋伏の陣(計)に阻まれ、あえなく撤退、負け戦となりました。
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【小口城の合戦】犬山城主「織田信清」反旗!信長vs信清の従兄弟対決勃発!

織田信長vs織田信清 従兄弟対決! 1561年6月下旬、一か月ほど前の「十四条・軽海の戦い」で勝利した信長でしたが、この戦いで弟を討ち取られてしまった犬山城主「織田信清」が斎藤龍興と組んで謀反の動きを見せます。 織田信清といえば、信長の従兄弟でもあり信長姉を娶り岩倉城攻めや尾張統一戦でも協力的で良好な関係にありました。 その信清が先の合戦で、無理やり戦場に駆り出され、弟を討死させられた腹いせか、美濃の斎藤龍興と結んで信長に反旗を翻します。 それを知った信長は、信清の反旗による北尾張の憂いを抱えることになり、犬山城の支城でもある「小口城」で信清との戦いが起こります。 これが「小口城の合戦」と言われています。 小口城の合戦 場所 地図 場所は現在の愛知県丹羽郡大口町城屋敷1丁目にあり、清州城からは北に15km程の場所にあります。 現在は小口城址公園となっています。 小口城の合戦 織田信長vs織田信清 布陣 戦力比較 合戦図 犬山城主「織田信清」は、支城の「小口城」と「黒田城」を領有し再び尾張国内に憂いを脅かす存在となります。 信長は当初、小口城の城主であった信清の家老「中島豊後守」を調略しようと試みますが失敗に終わります。 失敗した以上、力攻めで挑むしかありません。 1561年永禄4年6月末、信長vs信清の従兄弟対決が勃発するのです。 兵力差 【織田信長軍】 【織田信清軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【織田信清軍】 謀反反乱鎮圧 反乱 主な参戦武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 織田信長・岩室長門守 他 織田信清・中嶋豊後守 他 小口城の合戦 合戦 ゆくえ 信長軍は小姓衆が一体となり、城壁を討ち破り城内に入り戦います。 城内となればさすがに敵側の勝手知ったところ、信長方で信長の近習「岩室長門守」が、こめかみに槍を受け討死します。 両軍数時間戦いましたが、信長はついに小口城を攻略できずに撤退となりました。 討死武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 岩室長門守他10数名 不明 小口城の合戦 結果
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【十四条・軽海の戦い】稲葉一鉄叔父「稲葉又右衛門」討ち取ったり!(池田恒興・佐々成政)

美濃攻略の拠点を作れ! 十四・軽海の戦い! 1561年5月14日「森部の戦い」で勝利した信長は、「墨俣砦」を改修しさらに「十九条」(墨俣砦より北西へ約2km)にも砦を築き、美濃攻略の拠点に置きます。 十九条砦には、犬山城主の織田信清の弟「信益」を置き守りを固めます。 すると23日に、砦を築かれたことを察した斉藤龍興は稲葉山城から出撃し「十四条」に布陣。 両軍対峙した後、合戦となり続けざま、軽海地区まで及んだ合戦が「十四条・軽海の戦い」です。 十四条・軽海の戦い 場所 地図 十四条の戦いの場所は現在の岐阜県本巣市十四条にあり、墨俣城からは北西に7~8kmの場所にあります。(十九条砦から北に約2km、清州城から北西に約30km弱) 現在は戦いの跡地を示す石碑などなく、田畑の広がる平野となっています。 現在の墨俣城は秀吉で有名になった「墨俣一夜城」があります。 合戦当時は、まだ秀吉の存在も薄く、平城砦でした。 十四条・軽海の戦い 織田信長vs斎藤龍興 布陣 戦力比較 合戦図 墨俣と十九条に信長に美濃攻略の拠点を作られ、それを知った「斉藤龍興」軍。 怒り心頭の龍興はすぐに稲葉山城から出陣し、信長も墨俣と十九条から出陣し、両軍は十四条の地で対峙します。 先の数日前に、森部の戦いで敗れた「龍興」ですが、さすがに連敗してしまうと美濃の存亡にも影響しかねません。 斉藤軍の猛攻はすざましく、信長自身出陣して戦うものの、十九条砦を任せた「織田信益」が討ち取られます。 ジリジリと押される信長軍、血気盛んに兵の士気が上がる斉藤軍。 信長は一旦後退しながらも、再び両軍は軽海の地で対峙します。 兵力差 【織田軍】 【斉藤軍】 1000 不明 戦闘目的 【織田軍】 【斉藤軍】 美濃侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【斉藤軍】 織田信長・織田信益・池田恒興・佐々成政 他 真木村牛介・稲葉又右衛門・稲葉一鉄 他 十四条・軽海の戦い 合戦 ゆくえ 十四条では信益を討ち取られた信長ですが、軽海では足軽合戦となり午後から始まった戦いが夜になっても続いています。
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