【北伊勢侵攻戦】滝川一益、北伊勢に侵攻し美濃を完全包囲せよ!(勢州軍記)
北伊勢制圧で、美濃を包囲せよ! 昨年(1566年閏8月)の、「河野島の戦い」で木曽川洪水の為、美濃斉藤軍に手痛い敗戦を喫した信長ですが、翌年1567年2月に家臣の滝川一益に美濃と国境を接する北伊勢侵攻を命じます。 当時の北伊勢は、南美濃と国境を接しており、北勢四十八家と呼ばれる地豪族が割拠していました。 なかでも長島には、手ごわい一向一揆が存在しており本願寺の強い影響力の元、一向一揆国を形成していました。 そうした地豪族や一向一揆がいつ信長に反旗を翻すとも限らず、お互い手を結ばれ反信長軍を形成されては、美濃攻略にも支障が生じるため、信長は美濃攻略を進める上ですぐにも北伊勢を制圧する必要がありました。 その際に、家臣の滝川一益に命じ、北伊勢地区を侵攻した合戦が「北伊勢侵攻戦」と言われています。 「信長公記」にはない合戦ですが、美濃攻略に重要な意味を持つ合戦ですのでご紹介してまいります。(勢州軍記*) 北伊勢侵攻戦 場所 地図 1567年2月、最初に滝川一益が着手した北伊勢の場所が、今の現在の三重県桑名市・いなべ市・四日市市と言われています。(名古屋市内からおよそ20km程、電車で20~30分位) 写真の河口三角州の場所が「長島」(一向一揆)で、滝川一益は、この場所は迂回したと言われています。(写真右が名古屋) 北伊勢侵攻 織田軍v伊勢国人衆 布陣 戦力比較 1567年(永禄10年)2月、美濃攻略に、北伊勢の重要性を知った信長は、家臣の「滝川一益」に命じ北伊勢の侵攻を開始します。 当時の北伊勢には「北勢四十八家」と言われる豪族が割拠していました。(長島には一向一揆) 合戦図 信長は当時蟹江城にいた「滝川一益」に北伊勢侵攻の大将に命じ、4000の兵を預け従軍の中には「明智光秀」も加えている。 また、長島には一向一揆がいるため、一切手出しはせずに迂回して北伊勢を侵攻するようにと命じた。 兵力差 【織田軍】 【北伊勢国人衆】 4000 不明 戦闘目的 【信長軍】 【北伊勢国人衆】 北伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【北伊勢国人衆】 滝川一益・明智光秀 他 上木氏・木股氏・持福氏 他 北伊勢侵攻 合戦の行方