【阿坂城攻め】秀吉、左脇に強弓を受けピンチ!大宮含忍斎の阿坂城を落とせ!
秀吉、左脇を射抜かれ負傷! 得意の調略で、阿坂城を落とせ! 信長の北伊勢侵略は、1567年(永禄10年)2月に始まり、翌年の2月に信長の三男信孝(のぶたか)を神戸氏の養嗣子にすることで北伊勢八郡を治めていました。 しかし、南伊勢五郡は国司大名である「北畠氏」により依然として信長に敵対する存在でした。 信長は、南伊勢に侵攻する機会を狙っていましたが、ついに1569年(永禄12年)にその機会が巡ってきます。 その年5月、当時、南伊勢国司であった北畠具盛(きたばたけとももり)の異母弟の木造城城主「木造具政(こづくりともまさ)」が誼(よしみ)を通じてきました。 それを知った北畠氏は、家臣の沢・秋山に木造城をの周りを包囲し、信長に寝返った木造具政を攻撃します。 信長は救援に滝川一益(たきがわかずます)を向かわせ「木造具正」を救出し事なきを得ますが、木造城の南方約5kmの北畠家重臣「大宮含忍斎(おおみやがんにんさい)」が守る「阿坂城」攻略を「木下秀吉(後の秀吉)」に命じます。 当時頭角を現してきた「秀吉」でしたが、これといった軍功がなかったので、信長が秀吉に手柄を立てさせるための合戦だったと言われています。 この合戦を「阿坂城攻め」と言います。 この戦で秀吉は、生涯で最初で最後の戦傷を負うことになるのです。 阿坂城攻め 場所 地図 アクセス 阿坂城は現在の三重県松阪市大阿坂町にあり国の史跡に指定されています。 当時の伊勢国司であった「北畠氏」にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点でもありました。 阿坂城へのアクセスは、JR紀勢本線松阪駅、近鉄山田線松阪駅~バス/大阿坂 阿坂城攻め 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較 1569年(永禄12年)8月20日、信長は岐阜を出陣。軍勢は7万とも8万とも言われ、これだけの軍勢を率いた信長には南伊勢に対する相当の決意が見られます。 信長軍勢はその日のうちに北伊勢「桑名」まで進軍し、その日は桑名で野営します。 一方北畠氏も、信長の進軍を防衛態勢を敷きます。 当時の当主は「北畠具房(きたばたけともふさ)」、父の具教とともに「大河内城」に籠り、阿坂・船江などの周りの支城に兵を配備し、織田軍の進撃を阻む体制がとられました。 阿坂城攻め 合戦図