織田信長

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【阿坂城攻め】秀吉、左脇に強弓を受けピンチ!大宮含忍斎の阿坂城を落とせ!

秀吉、左脇を射抜かれ負傷! 得意の調略で、阿坂城を落とせ! 信長の北伊勢侵略は、1567年(永禄10年)2月に始まり、翌年の2月に信長の三男信孝(のぶたか)を神戸氏の養嗣子にすることで北伊勢八郡を治めていました。 しかし、南伊勢五郡は国司大名である「北畠氏」により依然として信長に敵対する存在でした。 信長は、南伊勢に侵攻する機会を狙っていましたが、ついに1569年(永禄12年)にその機会が巡ってきます。 その年5月、当時、南伊勢国司であった北畠具盛(きたばたけとももり)の異母弟の木造城城主「木造具政(こづくりともまさ)」が誼(よしみ)を通じてきました。 それを知った北畠氏は、家臣の沢・秋山に木造城をの周りを包囲し、信長に寝返った木造具政を攻撃します。 信長は救援に滝川一益(たきがわかずます)を向かわせ「木造具正」を救出し事なきを得ますが、木造城の南方約5kmの北畠家重臣「大宮含忍斎(おおみやがんにんさい)」が守る「阿坂城」攻略を「木下秀吉(後の秀吉)」に命じます。 当時頭角を現してきた「秀吉」でしたが、これといった軍功がなかったので、信長が秀吉に手柄を立てさせるための合戦だったと言われています。 この合戦を「阿坂城攻め」と言います。 この戦で秀吉は、生涯で最初で最後の戦傷を負うことになるのです。 阿坂城攻め 場所 地図 アクセス 阿坂城は現在の三重県松阪市大阿坂町にあり国の史跡に指定されています。 当時の伊勢国司であった「北畠氏」にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点でもありました。 阿坂城へのアクセスは、JR紀勢本線松阪駅、近鉄山田線松阪駅~バス/大阿坂 阿坂城攻め 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較 1569年(永禄12年)8月20日、信長は岐阜を出陣。軍勢は7万とも8万とも言われ、これだけの軍勢を率いた信長には南伊勢に対する相当の決意が見られます。 信長軍勢はその日のうちに北伊勢「桑名」まで進軍し、その日は桑名で野営します。 一方北畠氏も、信長の進軍を防衛態勢を敷きます。 当時の当主は「北畠具房(きたばたけともふさ)」、父の具教とともに「大河内城」に籠り、阿坂・船江などの周りの支城に兵を配備し、織田軍の進撃を阻む体制がとられました。 阿坂城攻め 合戦図
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【本圀寺の変】三好三人衆の逆襲!「足利義昭」を暗殺せよ!

三好三人衆の逆襲! 室町幕府15代将軍「足利義昭」を暗殺せよ! 1568年(永禄11年)10月2日、信長の畿内平定の締めくくりとなった「池田城攻め」は池田勝正の降伏とともに開城されました。 これにより畿内は信長によって支配体制が敷かれ、同月22日には晴れて足利義昭が正式に「室町幕府15代征夷代将軍」に任命されることになりました。 しかし、翌年1569年(永禄12年)1月5日、阿波から堺に忍び込んでいた「三好三人衆」が、信長が美濃(岐阜城)へ帰国していた隙をつき、美濃を追われていた「斎藤龍興」と「長井道利」らと組みし、南方の流浪人を呼び寄せ、将軍「足利義昭」の仮御所となっていた「本圀寺」を急襲します。 三好三人衆といえば、4年前の永禄の変で13代将軍「足利義輝」(義昭兄)を弑逆して「将軍殺し」の異名を持った存在で、今度は15代将軍「足利義昭」を討ち、再び政権の座を狙った襲撃です。 この足利義昭を本圀寺で襲撃したとされる事変が「本圀寺の変」(六条合戦)と言われています。 本圀寺の変 場所 地図 アクセス 本圀寺は京都市山科区にある、日蓮宗の大本山であり六条門流の祖山です。 本圀寺へのアクセスは、京都駅からJRで山科駅、東西線乗換で「御陵」下車、徒歩10分位です。 本圀寺の変 織田軍vs三好三人衆 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)10月22日に「足利義昭」の将軍任命が行われ畿内を平定した信長ですが、これで「しばらくは安泰」とでも思ったのでしょうか、本圀寺の警護は「明智光秀」らの近江・若狭衆に任せ、10月下旬には本国である岐阜(城)へ帰国しています。 この機を狙っていたのか、手薄になった京を三好三人衆は、美濃を追われた斉藤龍興や南方の流浪人を集め(約1万)、13代将軍足利義輝を弑逆した時のように、再び政権を取り戻すために15代将軍「足利義昭」のいる本圀寺を襲撃します。 本圀寺の変 合戦図 1569年(永禄12年)正月5日、三好勢は約1万の兵で本圀寺を囲み、先方を「薬師寺九郎左衛門貞春(やくしじくろうさえもんさだはる)」を大将とし襲撃します。 一方、守備方の信長軍は「明智光秀」以下、近江、若狭国衆の2000余り。軍勢では不利な状況です。
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【池田城攻め】畿内で唯一信長に抵抗!池田勝正が守る「池田城」を攻略せよ!

信長、みずから進軍! 1568年(永禄11年)9月26日、「足利義昭」とともに入京した信長ですが、休む間もなく2日後には畿内の「三好三人衆」討伐に出陣しました。 その後、「勝龍寺城」「芥川山城」を落とし滝山・小清水・伊丹の城も戦わずして開城させ、三好三人衆を阿波へと追い払い、畿内をほぼ制圧した信長でしたが、唯一抗戦していたのが池田勝正が守る「池田城」でした。 織田信長の上洛後、「三好三人衆」討伐の際、回りの支城が降る中、唯一抵抗したため信長自ら進軍した合戦を「池田城攻め」と言います。 池田城の戦い 場所 地図 現在の大阪府池田市五月山南麓の丘陵地にあり、現在は「城址の歴史を感じられる憩いの場」として城址公園として整備されています。 池田城攻め 織田信長vs池田勝正 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月26日、信長が足利義昭を奉じ上洛後、当時畿内を治めていた「三好三人衆」の討伐のため、大軍勢を率い進軍しました。 池田城攻め 合戦図 5万を超える信長の軍勢の前に、三好三人衆の岩成友通の「勝龍寺城」、三好長逸の「芥川山城」が陥落し、回りの諸城も降る中、唯一最後まで抗戦したのが、池田勝正の「池田城」です。 当時の池田勝正は、1563年(永禄6年・合戦の5年前)に前当主の「池田長正」の死去によって摂津池田家惣領として家督を継いでいました。 池田長正の嫡男ではなかったものの、幼いころから文武に秀でており池田家の当主となりました。 その「池田勝正」は合戦当時31歳、勇猛果敢な豪傑の武将として名を知られている存在でした。 兵力差 【織田軍】 【池田勝正軍】 50000 不明 戦闘目的 【織田軍】 【池田勝正軍】 三好三人衆討伐 阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【池田勝正軍】 織田信長・水野信元・梶川高秀・魚住隼人 他 池田勝正・荒木村重 他 池田城攻め 合戦の行方 三好三人衆の一人、三好長逸が守る「芥川山城」が陥落した9月29日、信長は唯一抵抗している「池田城」の池田勝正を攻撃するために、10月2日に信長自ら池田城に進軍します。 士気の上がる信長軍の軍勢が城内に切り込んでいくものの、総じて敵兵と白兵戦となり、信長方の「梶川高秀(かじかわたかひで)」が腰骨を突かれて討死します。
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【勝龍寺城・芥川山城攻め】信長、義昭を奉じついに上洛!畿内の三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)を追い払え!

信長、ついに上洛! 三好三人衆を討つ! 1568年(永禄11年)9月26日に、信長は足利義昭を奉じついに上洛。 9月7日に岐阜城を出発し、その間、南近江で「六角承禎(ろっかくしょうてい)」との争い(箕作城の戦い・観音寺城の戦い)で、軍勢に大きな損害を出したにもかかわらず上洛に成功しました。 信長は陣をそのまま「東福寺」に置くと、2日後の28日には山城国から摂津国の諸城に拠る、六角承禎に組した「三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)」を討つため出陣します。 この時、三好三人衆の一人である「岩成友通(いわなりともみち)」が京都南の「勝竜寺城」に拠っており、これに対して信長が勝竜寺城に攻撃した結果、本合戦が発生します。 その後、高槻の天神馬場に陣取った信長は、この勝龍寺城と約7kmほど離れた「芥川山城」にも進軍し、合戦となった戦いを総して「勝龍寺城・芥川山城の戦い」と言います。 勝龍寺城・芥川山城の戦い 場所 地図 勝龍寺城は現在の京都府長岡京市勝竜寺にあります。現在は勝竜寺公園として整備され、櫓などが建造されています。 現在では細川忠興・ガラシャ夫妻で知られており、毎年秋には「長岡京ガラシャ祭り」としても有名です。 本能寺の変後の明智光秀と羽柴秀吉の山崎の戦いで、光秀が秀吉に押され、最後に陣を置いたことでも知られていますね。 芥川山城は現在の大阪府高槻市の三好山にあった山城です。 現在は廃城となり、石碑が残っているだけです。 「勝龍寺城」と「芥川山城」の位置関係。その間は約7kmほど。 勝龍寺城・芥川山城の戦い 信長軍vs三好軍 布陣 戦力比較 観音寺城の戦いで「六角承禎」を退けた信長は、1568年(永禄11年)9月26日、足利義昭とともについに京入りを果たします。 合戦図 上洛した信長は、京の東福寺に陣を置いたもののすぐに、家臣の柴田勝家(しばたかついえ)、蜂屋頼隆(はちやよりたか)、森可成(もりよしなり)、坂井政尚(さかいまさなお)ら4人に、六角承禎に組した三好三人衆の「岩成友通」が守る「勝竜寺城」の攻撃を命じます。 信長自身も28日には足利義昭を伴って三好三人衆の「三好長逸(みよしながやす)」の「芥川山城」を攻撃します。 兵力差 【織田軍】 【三好軍】 50000 不明 戦闘目的 【織田軍】
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【観音寺城の戦い】足利義昭上洛に添い「織田・徳川・浅井」連合軍で「六角承禎」軍を殲滅せよ!

天下布武! 武を以て、天下を制す! 1568年(永禄11年)9月12日に、「観音寺城」と中山道を挟む小山の「箕作城」を攻略した信長軍は、その日(夜)はそのまま箕作城で野営し、軍はひとときの休息を取り、明日に迎える決戦の時を待っていました。 敵対する「六角承禎(ろっかくしょうてい)」とは、目前の「観音寺城」と対峙する格好となっています。 六角承禎は近江国の守護大で、観音寺城を居城としており、付近には18の支城を構えており南近江をほぼ制圧しています。 特に近江以東から京へ続く近江路「中山道」を牛耳っており、信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角承禎が敵対した為に、信長は力ずくでもこの中山道を通らねばなりませんでした。 この時、信長と六角承禎の間で起こった戦いが「観音寺城の戦い」で、昨夜陥落した「箕作城」の戦いと同じ一連の合戦の事を言います。 実はこの戦い、信長が美濃を治め「天下布武」を掲げた最初の戦いともいわれ、その後信長が足利義昭を奉じ上洛し、京都・畿内を平定し事実上の天下人として名乗りを上げる戦でもありました。 観音寺城の戦い 場所 地図 アクセス 現在の滋賀県近江八幡市安土にある山城です。(現在は国の史跡に指定されています) 観音寺城の戦い 織田信長vs六角承禎 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月13日、前夜に観音寺城の目の前にある「箕作城」を多大な損害を出しながらも陥落させることに成功しました。 箕作城を陥落させたのが夜(夜襲)でしたので、信長軍はそのまま箕作城で野営し、六角承禎の「観音寺城攻め」は夜が明けた次の日ということになります。 合戦図 信長は上洛のためには、上洛路である南近江(中山道)を通らねばならず、敵対する「六角氏」を討伐する必要がありました。 当時の「六角氏」は「観音寺城」を主城として、中山道を挟み18もの支城で囲み、南近江一帯を制圧する有力豪族でもありました。 そこへ信長が足利義昭を奉じ上洛しようとしたところを、そうはさせまいと敵対したのが「六角承禎」だったのです。 信長は、「徳川家康」と北近江の「浅井長政」の協力を得て、援軍を加えた5万を超える軍勢で「六角承禎」の討伐に乗り出します。
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【箕作城の戦い】信長、足利義昭を奉じた上洛に暗雲が…!合戦最多の戦死者!六角承禎立ち塞がる!

1500名を超える討死者! 六角承禎強し! 難攻不落の要害「稲葉山城」を落とし美濃を統一させ、北伊勢の有力豪族であった神戸氏・永野氏とも臣従することに成功した信長。 その年(1568年永禄11年)9月、信長は「足利義昭」を奉じ上洛します。 上洛には近江路を通る必要があり、近江には依然として信長に敵対するものがいました。 北近江は信長の妹である「お市」が「浅井長政」に嫁いでいたこともあり同盟関係であったものの、南近江は現将軍(足利義栄)を擁する立場にあり信長とは敵対している「六角承禎義賢(ろっかくしょうていよしかた)・義治(よしはる)」父子が、行く手を遮っていました。 信長は、事前に「六角承禎」に足利義昭の使者を通じ、京都守護職と領地の安堵を与えることを条件に、上洛の安全と協力を願い出ていました。 交渉も最初から低姿勢であり、しかも領地の安堵や京都守護職を与えるなどの好条件にもかかわらず、「六角承禎」はこれを拒否。 信長は力攻めで上洛することを決め、「徳川家康」「浅井長政」の援軍を率いて近江国に侵攻するのでした。 この時、上洛路の途中(南近江)にある「箕作城(みつくりじょう)」で六角承禎と戦となったのが「箕作城戦い」です。 信長の合戦の中で、最多の戦死者を出した戦いと言われています。 箕作城の戦い 場所 地図 現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山頂。(現在は廃城) 六角氏の主城となっていました。 手前が箕作山(箕作城)、正面が繖山(観音寺城)。 山間が信長と足利義昭が通った上洛路(南近江路中山道)です。 箕作城の戦い 織田信長vs六角軍 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月7日信長は、足利義昭を奉じて岐阜城を出発、上洛の途につきます。 途中「徳川家康」「浅井長政」の援軍を得て5~6万の軍勢に膨れ上がっていました。 対する六角方は、居城の箕作城と観音寺城を中心に18の支城に籠って抗戦します。 箕作城の戦い 合戦図 信長は、「徳川家康」と「浅井長政」の援軍を率い「佐和山城」から進軍を開始します。 行く道程には、六角方の支城が待ち構えます。 しかし、信長軍はその支城には一切目も触れず、9月12日に観音寺城(繖山)と中山道をはさんで対をなす「箕作城」に進軍します。 そして戦いは午後4時に始まるのです。 兵力差
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【北伊勢侵攻戦②】二度目の伊勢侵攻戦!織田信孝と織田信包を入れ伊勢を平定せよ!

1567年(永禄10年)9月についに美濃統一を果たした信長。 難攻不落の稲葉山城を攻め、斎藤龍興は伊勢長島へ落ち延びました。 そして翌年1568年(永禄11年)2月、昨年の8月に落とせなかった北伊勢の「高岡城」を再び侵攻します。 その後、「神戸城」・「長野城」・「安濃城」・「大河内城」を立て続けに攻め、2度目の伊勢平定の戦を「北伊勢侵攻戦②」と呼んでいます。 北伊勢侵攻戦② 場所 地図 北伊勢侵攻戦②が行われた場所は、信長が昨年落とせなかった「高岡城」から開始され、「神戸城」、「長野城」、「安濃城」、「大河内城」の近隣の城々へと進軍することになります。 「高岡城」は現在の三重県鈴鹿市高岡町字茶山「高岡城址公園」にあります。(廃城) 「神戸城」三重県鈴鹿市神戸本多町。(石垣存) 「長野城」三重県津市美里町桂畑。(廃城、石碑のみ) 「大河内城」三重県松阪市大河内町城山。(廃城) 北伊勢侵攻戦② 織田信長vs伊勢国人衆 布陣 戦力比較 昨年の1567年(永禄10年)8月信長は、北伊勢に侵攻し、桑名・朝明・員弁と制圧したものの三重(鈴鹿)の「高岡城」だけは、名将と言われる「山路弾正」の守りを破ることができず撤退していました。 丁度このころ、信長は「稲葉山城」も同時に侵攻しており、兵も2分割していたこともあり深追いはしませんでした。 9月には「稲葉山城」も陥落させ美濃を統一した信長は、半年後の2月に再び伊勢侵攻を再開するのでした。 その前哨戦となったのが、昨年撤退していた「高岡城」が最初のターゲットとなったわけです。 合戦図 「高岡城」を守るのは名将の「山路弾正(やまじだんじょう)」。 昨年は、その固い守りを破れずに撤退していましたが、今回は4万の大軍勢を率いて臨んだ信長。 北伊勢平定への執念が伺われます。 兵力差 【織田信長軍】 【伊勢国人衆】 40000 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【伊勢国人衆】 伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【伊勢国人衆】 織田信長・滝川一益 他 神戸具盛・山路弾正・長野具藤・細野藤敦 他 北伊勢侵攻戦② 合戦の行方 4万の大軍勢を率い、再び北伊勢に侵攻した信長。 最初の合戦は、昨年敗れた山路弾正が守る「高岡城」です。
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【稲葉山城の戦い】斎藤龍興vs織田信長 稲葉山城ついに陥落!信長、天下統一へ!

難攻不落「稲葉山城」 斎藤道三嫡男「龍興」vs「織田信長」 1560年(永禄3年)に桶狭間で「今川義元」を討ち取って依頼、その後美濃制圧に力を注いできた信長ですが、1567年(永禄10年)8月に、ついに「稲葉山城」を包囲します。 攻めては負けを繰り返し、何度も煮え湯を飲まされた要害です。 正妻である帰蝶の父であり舅である「斉藤道三」が築城した難攻不落の名城ですが、その道三も嫡男の斉藤義龍に討たれ、その義龍も病死し、今は道三の孫である「斎藤龍興」が城主となっています。 今川義元を討ち取ってから足掛け7年の歳月をかけた、美濃侵攻の最終決戦となった戦い。 信長が天下統一に名乗りを上げた「稲葉山城の戦い」を紐解いてまいりましょう。 稲葉山城の戦い 場所 地図 アクセス 稲葉山城(現在は岐阜城)は岐阜県岐阜市天主閣18にあります。 岐阜長良川沿い金華山の山頂にある山城です。 稲葉山城の戦い 織田信長vs斉藤龍興 布陣 戦力比較 1567年(永禄10年)8月1日、西美濃三人衆と呼ばれた「安藤守就(あんどうもりなり)」「稲葉一鉄(いなばいってつ)」「氏家卜全(うじいえぼくぜん)」が、木下藤吉郎(後の秀吉)の調略もあり、3人揃って信長に帰順の意を表してきました。 東美濃にある宇留摩(鵜沼)城・猿啄城・堂洞城のそれぞれの合戦で勝利し、美濃国の東半分はすでに制圧していたものの、西美濃の有力豪族である西美濃三人衆には手を焼かされていた信長は、これで美濃の本丸である稲葉山城攻略への道が開けます。 稲葉山城の戦い 合戦図 通常、恭順の意を示した場合、人質を出すのが慣例で三人衆も通例に従い信長に人質を差し出します。 それに対し信長は、「村井貞勝」「島田秀満」を受け取りに向かわせます。 本来であれば、人質受け取った(確認した)後で「事」を起こすものですが、信長は人質が到着する前に、すぐ兵を収集し稲葉山と尾根続きの瑞龍寺山に一気に攻め上がります。 兵力差 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 稲葉山城攻略 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】 織田信長・木下藤吉郎・柴田勝家・佐久間信盛・安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全 他 斎藤龍興・日根野弘就・長井道利 他
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【高岡城攻め】信長窮地!背後が危ない!「山路弾正」の策略に辛酸をなめる!

背後に、敵襲あり! 山路弾正の策略に、信長後退! つい数日前に、近隣の「楠城」を制圧した信長は、間髪入れずに神戸具盛(かんべとももり)の重臣である「山路弾正(やまじだんじょう)」の守る「高岡城」を攻めています。 「楠城」からわずか1キロ程西に位置する「高岡城」は、楠城勝利の勢いのまま攻撃したと言えそうですが、「山路弾正」の高岡城は、そうやすやすとは崩れません。 稲葉山城攻撃と同じ時期に、繰り広げられた信長方「滝川一益」vs伊勢国人衆神戸具盛方「山路弾正」の合戦「高岡城攻め」を紐解いてまいりましょう。(勢衆軍記) 高岡城攻め 場所 地図 高岡城は現在の三重県鈴鹿市高岡町字茶山の高岡城跡公園にあります。 鈴鹿川沿いの小高い山頂にあります。現在は高岡城址公園となっています。 高岡城攻め 織田軍v山路弾正 布陣 戦力比較 合戦図 1567年(永禄10年)8月、楠城を攻め落とした信長は、そのまま「高岡城」に進軍します。 楠城からは西側へおよそ1キロほどの場所に位置する「高岡城」攻略は、楠城を落とした信長にとってはもはや当然の進軍でした。 守備する高岡城の「山路弾正(やまじだんじょう)」は、名将と呼ばれ大軍で押してくる織田軍に抵抗の構えを見せます。 兵力差 【織田軍】 【山路弾正軍】 2~3万 不明 戦闘目的 【信長軍】 【山路弾正軍】 伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【山路弾正軍】 滝川一益 他 山路弾正 他 高岡城攻め 合戦の行方 楠城を落とした勢いのまま、信長軍は「山路弾正」の守る「高岡城」一気に攻め込みます。 しかし「山路弾正」の頑強な抵抗にあい、信長2万もの軍勢でもなかなか城を落とすことが出来ません。 攻防は10日も続きますが決着がつかず、信長方の「滝川一益」を派遣して降伏(和議)を促します。 しかし、「山路弾正」はそれを断り、徹底抗戦の構えを見せます。 信長、背後が危ない! 山路弾正の策略勃発! 合戦当時信長は、稲葉山城も包囲し美濃制圧の最終段階でもありました。 つまり、信長はこの時期、2箇所で合戦をしていたのです。 それを知っていた「山路弾正」は、窮地に押されながらも起死回生の策略を放ちます。
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【楠城攻め】稲葉山城とともに「楠城」も攻めよ!伊勢侵攻戦!

数で圧倒! このまま一気に押しつぶせ! 半年ほど前(1567年2月)に、滝川一益に命じ北伊勢を侵攻し、桑名・員弁・朝明を制圧した信長。 南美濃の国境であった北伊勢の脅威も無くなり、いよいよ美濃制圧も大詰めを迎えていました。 その年8月信長は、全軍を率い稲葉山城を包囲するとともに、ほぼ同時期に伊勢の「楠城」に侵攻しています。 美濃同様、伊勢をも完全に制圧を目論んでいる信長の奇襲ともいえる合戦といえます。 この合戦も信長の史実として良質の「信長公記」には記述がありませんが、「勢州軍記」にありますので取り上げてみました。(勢州軍記*) 楠城攻め 場所 地図 楠城は現在の三重県四日市市楠町本郷にある「楠村神社」の東側辺りに築かれていました。 辺りは高い建物などはなく、石碑と案内板が建てられ小公園となっています。 楠城攻め 織田軍v楠貞孝 布陣 戦力比較 合戦図 1567年(永禄10年)8月、すでに北伊勢を落としている滝川一益は「桑名城」を拠点に、信長が稲葉山城を攻めるとほぼ同時期に「楠城」を攻めます。(勢州軍記) 守備する楠城の「楠貞孝(くすのきさだたか)」は、北伊勢の豪族たちを束にして攻めてくる織田軍に抵抗の構えを見せます。 兵力差 【織田軍】 【楠貞孝軍】 2~3万 不明 戦闘目的 【信長軍】 【楠貞孝軍】 伊勢侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【信長軍】 【楠貞孝軍】 滝川一益 他 楠貞孝 他 楠城攻め 合戦の行方 滝川一益は、桑名城を拠点に、周辺の神社や諸城、田畑を焼き払い「楠城」に進行していきます。 守る楠城「楠貞孝」も、一時抵抗を見せるものの、数で圧倒する信長軍の猛攻に押され、やむなく降伏し開城します。(勢州軍記) しかし、現地の案内版では城主は「楠正具(くすのきまさとも)」とされており、信長には降伏せずに「治田城(はるたじょう)」(三重県いなべ市北勢町奥村)に籠って抗戦し、転戦を繰り返し「石山合戦*」で戦死したとされています。(*石山合戦:1570年元亀元年から1580年天正8年にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い) また、「紹巴富士見道記(じょうはふじみみちのき)」では、楠城を攻める直前に、一向一揆の国とされる長島付近に放火し一揆衆を刺激しています。
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