織田信長

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【小谷城の戦い】小谷城攻め②織田信長長男「織田信忠」ここに初陣!

織田信長嫡男「織田信忠」の初陣! 「織田信長」vs「浅井長政」 信長、長政への4度目の挑発! 1572年(元亀3年)7月21日、つい4か月ほど前に、浅井長政の小谷城麓を焼き払い挑発を仕掛けたものの、長政が挑発に乗らず「不戦」となった矢先、信長は嫡男の「織田信忠」を連れ、ついに5万を越える大軍勢を率い江北へ進軍し、今では宿敵となった「浅井長政」と雌雄を決しようとします。 5万の軍勢で一気に決着を決めたい信長、「信忠」を連れた、この「小谷城の戦い②」の合戦、壮絶な戦いとなるのか…、紐解いてまいりましょう! 小谷城 場所 アクセス 滋賀県長浜市湖北町伊部にあり、城址は史跡に指定されています。 信長vs長政 4度目の挑発 「金ヶ崎の退き口」で、長政の裏切りに合い九死に一生を得た信長でしたが、 長政討伐を決めた最初の挑発が「姉川の戦い」でした。 2度目が「小川・志村・金森城攻め」で、3度目が4か月前の「小谷城攻め①」でした。 信長は、嫡男信忠を連れ5万の大軍勢でいよいよ決着を付けに小谷城へ乗り込みます。 小谷城の戦い② 信長軍vs長政軍 布陣 戦力比較 7月21日。信長は5万の大軍で江北に進軍します。 まず最初に、小谷城の目の前にある虎御前山に本陣を布き、横山城まで続く長大な要害を作り始めます。 「木下秀吉」には、すぐ西側にある山本山城を攻めさせ、周辺の一向一揆の拠点となっていた砦を崩し、琵琶湖上からは「明智光秀」が水軍を率いて鉄炮・大砲で竹生島や沿岸を攻撃させます! これを見た浅井氏は、「朝倉氏に河内・長島で一向一揆が起き、尾張と美濃の間の道をふさいだので、今が好機、すべてを殲滅しましょう」とばかり、朝倉氏の出陣を促します。(これは朝倉を出陣させるためのウソ) 朝倉氏は浅井氏からの要請に、越前朝倉軍を含めた2万の軍勢(義景1万5000、朝倉景鏡の5000)を救援に駆けつけます。 29日には朝倉義景の1万5000が小谷城へ到着したものの、信長の大軍勢(5万)を前に、小谷城の北側にある大嶽山に登ったまま静観します。 兵力差 【信長軍】 【浅井・朝倉軍】 5万 約3万5000 戦闘目的 【信長軍】 【浅井・朝倉軍】 浅井家討伐 応戦 主な参戦武将 【信長軍】 【浅井・朝倉軍】
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【小谷城の戦い】「小谷城攻め①浅井長政への3度目の挑発!」”長政よ、出てこい‼”

「織田信長vs浅井長政」長政への3度目の挑発! 信長vs長政の最終決着となる「小谷城の戦い」(1573年天正元年)が起こるまで、両者の間では数回の前哨戦(合戦)が繰り広げられました。 1570年(元亀元年)に、信長の妹「お市」の嫁ぎ先であった義弟の浅井長政の裏切り(金ケ崎退き口)に合ってから、信長の矛先は「浅井・朝倉討伐」へと向けられます。 1回目が2か月後の「姉川の戦い」で両軍激しい戦いとなりましたが決着がつかず、2度目が昨年9月(1571年元亀2年)「小川・志村・金森城攻め」の際に、長政居城の城下である余呉・木ノ本を放火したものの、長政は信長の挑発には乗らず出陣しませんでした。 その後、延暦寺が朝倉・浅井家を擁護し、怒りの頂点に立った信長は、延暦寺のすべての宝塔・宝物、高僧、女性から子供まですべてを焼討ち(比叡山焼討ち)してしまい、今では反信長勢力の筆頭となった浅井・朝倉討伐は避けられない状況となっていました。 信長vs長政の最終決戦である「小谷城の戦い」の前哨戦である今回の戦い(挑発)に、長政は応じるのか…? 信長vs長政「小谷城の戦い①」紐解いてまいりましょう。 小谷城 場所 アクセス 滋賀県長浜市湖北町伊部にあり、城址は史跡に指定されています。 信長vs長政 長政よ出てこい… 1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いで義兄信長との同盟関係を一方的に破棄した長政は、同年6月に姉川の戦いで大きな損傷を受けたものの、15代将軍足利義昭の呼びかけに応じ石山本願寺らと信長包囲網を敷き、反信長体制を固めます。 義弟の浅井長政の裏切りにあい、九死に一生を得た信長ですが、なんとしても朝倉・浅井征伐を貫き通したいと思っているところ、1573年(元亀3年)3月5日に長政討伐に向けて江北に出陣します。 二日後の7日には小谷城と山本山城の間で野営をし、長政を小谷城から誘い出そうと挑発します。 小谷城の戦い① 信長軍vs長政軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【長政軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【長政軍】 浅井家討伐 応戦 主な参戦武将 【信長軍】 【長政軍】 織田信長・明智光秀・丹羽長秀・中川重政 他 浅井長政・阿閉貞征・朝倉義景・前波吉継・富田長繁 他 討死武将 【信長軍】
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【比叡山延暦寺焼き討ち】鬼信長!女、子供、すべて焼き殺せ!!

延暦寺の腐敗に業を煮やしていた信長! 昨日(1571年9月11日)、近江金森城を攻め落とした信長は、瀬田川(琵琶湖南岸)を渡り、坂本(大津)の手前の三井寺付近へ着陣します。 家臣たちは、そのまま「京」へ向かうものと思っていましたが、信長は「志賀の陣」以来の憂いであった比叡山延暦寺への攻撃命令を出します。 「比叡山延暦寺焼き討ち」とは、1571年(元亀2年)9月12日に比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市比叡山延暦寺)を焼討ちにした戦を言います。 老若男女一切関係なく、上人や高僧、女性、子供に至るまで3000人以上が斬殺されたといいます。 比叡山延暦寺焼き討ち 焼討ちの経緯 「延暦寺」は788年(延暦7年)に「最澄」が開創した天台宗の総本山で、国家の鎮護の寺として建立され、当時の年号でもあった「延暦」を寺の正称として賜りました。 鎌倉時代以降は、「親鸞」「法然」「一遍」「栄西」「道元」「日蓮」の名だたる高僧たちが修行し、日本仏教・宗教の開祖に先立つ存在となり「日本仏教の母山」と呼ばれています。 1571年当時の法主は、正親町天皇の弟「覚恕(かくじょ)」で、朝廷との結びつきも強く、それゆえに多大な寺領と僧兵を持ち合わせており権力も強大な寺院となっていました。 比叡山延暦寺 場所 地図 アクセス 延暦寺は滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。 比叡山延暦寺と信長の対立 焼討ちが起こるまで… 信長が足利義昭を伴い上洛(1568年)した後、畿内平定の際に奪った「寺領」を家臣に与えていたことを、もともとは延暦寺の寺領であると主張し、返領するようにと訴えていました。 延暦寺は朝廷とのつながりが深かったため、朝廷を動かし、寺領回復を求める綸旨を下したものの、信長はこれに従いませんでした。 そもそも、一介の寺院が朝廷を動かし「政(まつりごと)」に口を挟むような対応をひどく嫌っていた信長ですが、延暦寺のその後の対応(「志賀の陣」逃げ込んだ浅井・朝倉に味方しなければ寺領回復に応じると伝えたにも関わらず、これを無視し、その上浅井・朝倉を匿(かくま)い、信長に対抗する姿勢を見せた)に怒りを覚えていました。 信長の延暦寺に対する怒りはこれだけではありません。
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【小川城・志村城・金森城攻め】将軍殺しの「松永久秀」がついに謀反!

あの将軍殺しの「松永久秀」がついに信長に反旗! 1571年(元亀2年)5月、信長に帰順していた「松永久秀(まつながひさひで)」が、ついに信長に反旗を翻します。 松永久秀といえば、自らの主君を殺し、弱体化した足利幕府を嫌い将軍を殺し、東大寺の大仏殿までも焼き払った「乱世の梟雄*(きょうゆう)」と呼ばれた武将です。 *梟雄(きょうゆう):残忍で勇猛な人物 極悪人 極道 悪人 ダークヒーロー等 その「松永久秀」が「三好義継(三好三人衆)」と組んで、信長に反旗を翻し、近江の中山道を完全に封鎖します。 それに対し、「京」への上洛路を封鎖された信長は、8月18日に岐阜城を発ち、上洛路である近江中山道を開通すべく「松永久秀」討伐に乗り出すのです。 この年9月1日から11日まで行われた合戦が「緒川城・志村城・金森城攻め」と言います。 小川城・志村城・金森城攻め 1571年(元亀2年)8月18日、信長は「松永久秀討伐」を大義に岐阜城を出立します。 先に、一揆勢の拠点でもあり憂いのあった浅井長政居城「小谷城」そばの、余呉(よご)と木ノ本(きのもと)を焼き払い、そして中山道へと南下進軍します。 その後、志村城・小川城・金森城へと進軍しますが、この3城は、先の「顕如」の檄文により蜂起した、本願寺門徒衆(一向一揆)の籠城先にもなっていた所です。 それを知っていた信長は、つい先日敗れた「第一次長島一向一揆(本願寺門徒)」のリベンジを果たすべく「緒川城・志村城・金森城攻め」(松永久秀討伐)に乗り出すのです。 小川城・志村城・金森城攻め 場所 位置 この3条はいづれも上洛路である中山道の重要経路となっており、岐阜城から京へ繋がる道となっています。(現在の国道2号線沿) 小川城・志村城はその後廃城となり、現在は閑静な住宅地となっています。 (図参照:左下安土城) 小川城・志村城・金森城攻め 織田軍vs一向一揆勢 布陣 戦力比較 信長は岐阜城を出立した後、まず先に小谷城「浅井長政」を牽制し、余呉・木ノ本に火をかけ南下を開始。 「佐和山城」を落城させた後、「志村城」「小川城」次いで「金森城」に攻め込みます。 兵力差 【織田軍】 【一向一揆軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田軍】 【一向一揆軍】 中山道開放・一向一揆討伐(松永久秀討伐) 反信長体制
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【第一次長島一向一揆】信長、本願寺弾圧!総勢2万人を超える殺戮のはじまり!

「長島一向一揆」総勢2万人を超える殺戮のはじまり! 長島一向一揆(ながしまいっこういっき)とは、1570年ごろから1574年にかけての反信長蜂起(石山合戦)に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした本願寺門徒衆らが蜂起した一向一揆のことを言います。 織田信長との間で三度に渡る激しい合戦が起こりました。 三度目の合戦では、2万人を越える本願寺門徒衆の死者を出し、信長戦史でも死者数が多い合戦のひとつとなっています。 その最初の戦いとなった合戦は、信長は思わぬ苦戦を強いられてしまいます。 さて、どのような経過となったのか…「第一次長島一向一揆」を紐解いてまいりましょう。 第一次長島一向一揆 1570年(元亀元年)9月に、石山本願寺「顕如」の反信長蜂起(檄文)に伴い、長島でも門徒衆が一斉に蜂起します。 その年11月、本願寺より派遣された「下間頼旦」に率いられた数万に及ぶ一向一揆勢は、まず最初(16日)に「長島城」を攻め落とし城を奪うと、尾張小木江城「織田信興(おだのぶおき・信長弟)」を攻め込みます。 小木江城に隣接していた「桑名城」の滝川一益(たきがわかずます)も、一旦は応戦するも圧倒的兵数の一揆勢に敗走します。 この時信長は「志賀の陣」の最中で救援に向かうことができず、信興は一揆勢の猛攻に合い自害(21日)に追い込まれてしまいます。 実の弟を討ち取られた信長はこれに怒り、翌年(1571年)5月12日、5万を超える兵で長島一向一揆討伐に向かいます。 これにより「第一次長嶋一向一揆」が勃発することになるのです。 第一次長島一向一揆 場所 長島(現三重県桑名市)の場所とは、当時で言う尾張と伊勢の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指します。 木曽川河口の、いくつにも枝分かれした地域で、信長公記では「尾州河内長島」とあり尾張国河内郡と認識されていました。 第一次長嶋一向一揆 織田軍vs一向一揆勢 布陣 戦力比較 1571年(元亀2年)5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入ります。
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【志賀の陣】比叡山焼討ちの原因となった合戦!信長、屈辱の和議に怒り心頭!!

信長、屈辱の和議申し立てに"怒り心頭!" 比叡山焼討ちの原因はこの合戦だった! 1571年(元亀2年)9月12日、壮絶な殺戮戦となった「比叡山延暦寺焼き討ち」が信長の手によって行われました。 僧侶、学僧、上人、女性、子供に至るまで数千人(信長公記)、3000~4000人(言継卿記)、2000人(ルイスフロイス日記)が殺されたと言います。 この引き金とも言える原因となったのが、今回の合戦(籠城戦)「志賀の陣」なのです。 前年の1570年(元亀元年)9月16日から12月17日の間に行われた「織田信長」vs「浅井・朝倉連合軍」の戦い『志賀の陣』を紐解いてまいります。 志賀の陣 戦い背景 1570年(元亀元年)9月13日夜、信長が畿内摂津(大阪)で三好三人衆(野田城・福島城の戦い)と対戦していた頃、中立であったはずの石山本願寺「顕如」が突然「三好三人衆」に加担し、信長軍へ鉄砲を撃ちかけてきました。(信長公記) 実は、本願寺「顕如」は、9月上旬に「本願寺門徒衆」や「浅井長政」「朝倉義景」に「檄文(げきぶん)」を送り、反信長体制を敷くようにと密書を送っていたのです。 その「檄文」がこれ! この檄文に呼応し蜂起したのが「浅井長政・朝倉義景」連合軍。 9月16日、信長が畿内に釘付けとなっている隙に、手薄な琵琶湖西岸から南下を開始し、信長を討つべく「京」へ進軍を開始したことにより「志賀の陣」は始まりました。 志賀の陣 合戦図 9月16日、顕如檄文に蜂起した「浅井長政」「朝倉義景」連合軍は、比較的信長軍の手薄な琵琶湖西岸を3万の軍勢で南下します。 宇佐山城主である「森可成(もりよしなり・信長側近森蘭丸の父)」は、1000の将兵で坂本口に出陣して周辺の街道を封鎖し、志賀や穴太に伏兵を配します。 その日(16日)、信長の弟「織田信治(おだのぶはる)」、近江国「青地茂綱(あおじしげつな)」など2000の兵も救援として駆けつけ坂本の守備に加わります。 この日は、浅井・朝倉連合軍と小規模な小競り合いがあり幾人の首を獲る勝利を収めたものの、3日後の19日、顕如の要請を受けた坂本里坊や延暦寺の僧兵達も加わった「浅井・朝倉」3万を超す兵から挟み撃ちを受け、「森可成」「織田信治」「青地茂綱」は奮戦するも討死することになります。(宇佐山城の戦い)
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【野田城・福島城の戦い】顕如・石山本願寺vs信長の10年に渡る宗教戦争への幕開け!

顕如・石山本願寺と織田信長の10年に渡る宗教戦争への幕開け! 1570年(元亀元年)8月26日、本圀寺の変で敗退し阿波へと流されていた「三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)」の信長への畿内奪還のリベンジ戦となった合戦が「野田城・福島城の戦い」です。 この戦いの最中、石山本願寺「顕如(けんにょ)」が三好三人衆の加担をしたことから、この先10年以上に渡る「本願寺vs信長」の合戦の幕開けとなった戦いでもあり、第一次石山合戦ともいわれています。 本圀寺の変で敗退した後、遠国(阿波)に流されていた「三好三人衆」は、その年(1570年元亀元年)の6月、信長が姉川の戦いで近江に出陣していた頃、手薄になった畿内をこれを好機とみた三好三人衆の「三好長逸(みよしながやす)」は摂津の「荒木村重(あらきむらしげ)」を調略します。 荒木村重は当時、信長の配下である摂津池田城「池田勝正(いけだかつまさ)」の家臣となっていましたが、以前からソリの合わない勝正に対し「池田知正(いけだともまさ・勝正弟?)」と共に池田家内紛を起こし、当主である「池田勝正」を追放して三好方に与します。 与力を得た三好三人衆は7月21日に摂津国中嶋(現大阪市福島区)に進出し「野田城」「福島城」を築き、ここを拠点とした反織田の兵を挙げたのです。 三好三人衆の畿内奪還と、この先「本願寺vs信長」の10年以上の戦いとなる宗教戦争となった「野田城・福島城の戦い」を紐解いてまいりましょう。 野田城・福島城の戦い 場所 アクセス 野田城 (のだじょう)は今の大阪府大阪市福島区玉川にあった平城です。(現在は石碑が残っています) 福島城については当時は野田城の東側に隣接していましたが、現在では場所が特定できず本成寺付近(大阪市福島区玉川)ではないかと言われています。 野田城・福島城の戦い 合戦図 大坂城天守閣蔵の石山合戦図を見ると、当時の野田城・福山城は海や川に囲まれ島のような場所であったと推定されています。 三好三人衆はその場所に7月21日に築城し反信長の旗を上げた訳ですから、信長もすぐに反応します。 まず最初に、織田軍でいち早く動いたのが「松永久秀」で、居城である信貴山城で合戦準備を整えると27日には出立、河内に入国し三好三人衆軍の河内侵攻に備えます。
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【金ケ崎の退き口】信長大ピンチ!「絶体絶命」!金ケ崎の戦い!

浅井長政(義弟)が裏切った‼ 信長、挟撃され絶体絶命…! 織田信長戦史の中で、信長自身が最も追い詰められ絶体絶命となった撤退戦。 戦国でも有名な撤退戦で、金ケ崎の退き口(かながさきののきくち)、金ケ崎崩れ(かながさきくずれ)、金ケ崎の戦い(かながさきのたたかい)などと言われています。 相手は越前朝倉家10代当主「朝倉義景(あさくらよしかげ)」。 4月20日から越前侵攻を開始し、2日前の26日に朝倉支城である「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の一乗谷に向かう際に、妹の「お市」が嫁いでいる「浅井長政(あざいながまさ)」の裏切りにより、前後を挟撃され窮地に立たされます。 前方には「朝倉義景」、後方には「浅井長政」、まさに最大の窮地へと追い詰められた信長! 信長、万事休すか…! 「金ケ崎の退き口(かねがさきののきくち)」紐解いてまいります。 金ケ崎の退き口 場所 信長の退路ルート 再三の上洛要請にも応じない「朝倉義景」に対し、信長は4月20日から越前侵攻を開始し、25日には「手筒山城」26日には「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の居城「一乗谷」に向かっていました。 その信長のもとに思いもよらない報せが届きます。 妹の「お市」が嫁いでいる、義弟である近江小谷城城主「浅井長政」が裏切ったのです。 「浅井長政の裏切り」長政とお市 1567年、お市が21歳になる年に、近江の小谷城主「浅井長政」の正室として嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結び、信長と長政は、義兄弟の関係となります。 当然ながらこの結婚は、織田家の思惑(近江安定・中山道・東海道の確保)という戦国の世の事情による政略結婚となるわけですが、唯一の条件として「織田家は朝倉家に侵攻しない」という約束が交わされるものでした。 当時の長政とお市の間柄については、大変仲睦まじく、1569年には長女「茶々(後の淀殿)」、1570年には「初(はつ・京極高次正室)」、1573年には「江(ごう・徳川秀忠正室・家光母)」の3姉妹を設けました。 しかしながら、長政の父「浅井久政(あざいひさまさ)」や浅井家の家臣らの多くは、古くからの朝倉家との同盟を重視していた為、この結婚には反対だったと言います。
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【越前侵攻戦】元亀争乱!越前「朝倉義景」討伐!前哨戦「金ケ崎城」を攻めよ!

「元亀争乱(げんきそうらん)」。 1570年4月23日に、「足利義昭」が将軍としての威光を示すために元号を「元亀(げんき)」と変更し、信長にとって最も激しい争乱の幕開けとなる時代のことを総じて表した言葉です。 この元号は信長によってわずか3年で改変されたものの、信長生涯(合戦)において、最も苦戦した(負け戦の多い)時代でもありました。 1569年10月に伊勢平定を成し遂げ、美濃制圧、伊勢平定と順調に「天下統一」への布石を打ってきた信長ですが、今や将軍「足利義昭」の前衛軍隊のお墨付きをもらっている信長の上洛要請に、越前国の「朝倉義景」は無視し続け、さすがの信長も堪忍袋の緒が切れたのか「朝倉義景」討伐に動き出します。 その前哨戦ともいえる越前国への侵攻が「越前侵攻戦」と言われています。 実はこの戦い、信長の越前侵攻に対する建前は若狭石山城の「武藤友益(むとうともます)」討伐でしたが、本音は再三の上洛を無視した「朝倉義景」討伐と言われています。 越前侵攻戦 場所 地図 アクセス 信長の真の狙いである「朝倉義景」討伐の建前となった越前侵攻は、まず最初に「若狭石山城」の「武藤友益」でした。 若狭石山城は福井県大飯郡おおい町石山にあり、現在は廃城となり石碑等はなく城址のみとなっています。 信長は進軍するものの若狭国の石山城を攻めることなく、真の狙いである「朝倉義景」がいる越前(一乗谷)へと軍勢を進めます。 まずは朝倉義景の支城である敦賀の「天筒山城」(福井県敦賀市天筒町の天筒山山頂にあった山城)と「金ヶ崎城」(福男見敦賀市金ヶ崎山に築かれた山城)を落城させた上で拠点を確保し、そして本城のある一乗谷への攻撃を開始するという作戦を立てます。 越前侵攻戦 織田軍v朝倉軍 布陣 戦力比較 1570年(永禄13年)4月20日、信長は徳川家康、松永久秀の軍勢を合わせた総勢3万の軍勢を率い近江坂本を出陣。 名目は若狭石山城の「武藤友益」征伐となっていますが、真の狙いは「朝倉義景」討伐でした。 突如、"武藤氏を煽動したのは朝倉だ"と軍勢を若狭から東の敦賀へ向け、23日に佐柿の「栗谷勝久」館に着陣し、越前の入り口にあたる佐柿で敦賀攻撃の準備に取り掛かります。 越前侵攻戦 合戦図
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【大河内城の戦い】決戦!伊勢平定戦「織田信長」vs伊勢国司「北畠具教・具房」!

信長の伊勢平定戦! つい2日前(1569年8月26日)に「木下秀吉(後の秀吉)」が負傷しながらも「阿坂城」を陥落させた信長は、8月28日に伊勢国司の「北畠氏」の本城「大河内城」の周りに鹿垣(ししがき)を二重三重に囲み包囲します。 ついに伊勢国司「北畠氏」を追い詰めた信長ですが、一方「北畠氏」は籠城し徹底抗戦の構えを見せます。 信長の伊勢侵攻の最終決戦となった「織田信長」vs伊勢国司「北畠具教・具房父子」。 「大河内城の戦い」を紐解いてまいります。 大河内城の戦い 場所 地図 アクセス 阿坂城は現在の三重県松阪市大河内町城山にあった山城で、西側と南側に深い谷が入り自然の要害城であり、伊勢国司の「北畠氏」の本城でもありました。 大河内城へのアクセスは、JR紀勢本線/近鉄山田線・松阪駅から三重交通バス「道の駅飯高駅」方面もしくは「柚原ゆき」バスに乗り「大河内バス停」下車です。 大河内城の戦い 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較 1569年(永禄12年)8月20日、信長は7万を超える軍勢を率い岐阜を出陣。 北畠具教(とものり)は信長の出陣に、本拠の多気にある多気山城(現在の霧山城三重県美杉)から堅固な「大河内城」に移動して信長軍と徹底抗戦の構えを見せます。 8月26日には木下秀吉(後の秀吉)が負傷しながらも、「大河内城」の支城である「阿坂城」を攻撃し落城させています。 翌日の27日には、信長本隊が大河内城の北東にある「桂瀬山」に着陣し、大河内城の北畠氏と対峙。 その時の軍勢、織田軍5万に対する北畠軍はおよそ8千。 28日、いよいよ合戦の火ぶたが切って落とされます。 大河内城の戦い 合戦図 信長軍の軍勢には、織田軍きっての精鋭「柴田勝家」、「丹羽長秀」、「滝川一益」、「稲葉一徹」、「池田信輝」、「前田利家」、「佐久間信盛」、「佐々成政」という豪華な武将たちが揃い、この戦いで当時14歳の「蒲生氏郷(がもううじさと、後の松坂城主)」が初陣を飾っています。 信長は着陣後、すぐさま「大河内城」城下の町を焼き払い、部隊を四方に分け、城の周囲を二重三重の柵で取 り囲み、完全に外部との往来を断つ戦略に出ます。 一方の北畠軍も、城内には兵糧を蓄え、籠城戦の構えです。
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